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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

花宿の記憶

作者: 吉備奈子

花宿の記憶 

鰯野つみれ


村を出て都へ行き、かれこれ十年経ちます。毎朝、夫を見送ってしまうと、彼女はすぐ洋館の奥の書斎にとじ篭り、そこで婦人雑誌に載せる為の創作に取り掛かっていました。作家となり有名になった彼女の元には、毎日未知の支持者達から恋文とも思えるような手紙を幾通となくやってくるのです。長い仕事にとりかかえるまえに先ず、それらに目を通さなければなりませんでした。どんなに退屈極まる代物であっても最後の一文字まで読むようにし、返事を書きました。昼過ぎにもなり、あとには、直接入れたのか、表題も署名もない一通と、分厚い封筒が残されました。封を開けると、中から綺麗に何枚も重ねられた原稿がありました。手に取ってみますと、突然、挨拶もなく「覚えていますか。」という呼びかけの一言から始まっていたのです。

――はて、どなたかしら?と、思い何気なく二行三行と目を走らせ行くうちに、彼女はそこはかとなく嫌な予感がしました。原稿用紙から漂う花の香り、息継ぎをしない文体、力強く不器用な筆跡・・・。何れもどこかで見おぼえあるものでした。

-------------------------------------------------------------------------------------------------覚えていますか。覚えていますか、奥様、これは一人の女が少女だったころの、娘宿での話であります。十五になった春のある夜のこと、うちはすすり泣いている母ちゃんに連れられ、ここ"スミレ宿"に来たんですわ。「薫ちゃんも、ようやっとお嫁さんになるんやなア」----お嫁さん?うち、お嫁さんなんかになりとうないよ・・・。私はこのとき、自分は小さいころから体が弱く、動きも鈍くて村医者である父の手伝いもままならない状態でしたので、てっきり見放されたのかと思いました。土産の牡丹餅を受け取って中に入りますと、近所に住んではるお隣の梅やお菊がおりました。「やっと来たんか薫、エラい遅かったなぁ」

----梅、お菊、うちら此処で何をさせられるのかえ?「なんだ、あんた知らへんのかえ。此処は娘宿いうて、住み込みで茶道・生花や針仕事、糸繰り、粉ひきなどのいわゆる花嫁修業をする場所やで」「最後の・・菫(スミレ)ちゃんが来はったら入宿の儀式をやるで」----菫さん?よう聴かん名前やなあ。どなたやろか・・・。「あ、来はったよ」真後ろの襖が開いた途端、そこには今までにも吸ったことのない綺麗な空気を感じました。『こんばんは』菫さん退屈そうな挨拶をすると、は私など眼中にない塩梅ですうっと通り過ぎ、部屋の隅に座り込みました。間もなく式が始まり村の若衆と顔合わせしたり、宿親の仕事の説明などを聞き終わると、菫さんは誰とも談笑せず長い髪を一本くくりにして黙々と糸繰り作業に取り掛かりました。人見知りの私はというと・・・話しかけることもできずに見よう見まねであたふたと糸を紡いでいました。それから2週間ほどたった日のこと、娘仲間たちはすっかり若衆と馴染んで、何組か大人の目を盗みこっそり町へ遊びに行ってしまいました。・・・宿に残ったのは風邪で寝込んでいる私と相も変わらず黙々と糸を紡いでいる菫さんだけでした。

寝室に襖から垣間見られる一本にまとめられた長く艶のある純粋な黒髪、その横から覗く桜色がかった白い肌を持つ可憐な耳と忙しなく動く霜焼けた細い指・・。古めかしい堂で糸繰仕事をするその後姿だけでも、私の目には今まで見てきたどの花よりも美しく映りました。数分間息を忘れて見つめいてると、視線に気づいたのか、彼女はゆっくりこちらを振り返るように首を動かしました。私は慌てて掛け布団の中に潜ったのでかえって襖を揺らしてしまいました。気分を悪くさせてしまったのではないか、そんな不安に駆られつつ、また菫さんのお姿を拝みたい、いや菫さんから目を離したくない、そう思っていると急に糸車の音が止みました。私は熱で寝込んでいたことなどさっぱり忘れ、布団を飛び出し再び襖から被服室を覗きました。しかし彼女の姿は見当たりませんでした。『何してはるん、具合はどうなん?』背後からあのときとおんなじ空気を感じました、おそるおそる振り返ってみると、そこには輪郭の整った瓜実顔に指でひとつひとつ細工されたような目鼻に、聖母像のようにゆったり微笑む唇がはっきり見えました。私は初めて目にした菫さんの微笑みに思わず言葉が詰まりました。----もっもう平気です、うちに気ィ使わんと糸繰りに戻ってください。

『そうなんかえ、ちょっとこっち来てみ』菫さんはそう言うと廊下に出て奥の部屋へと向かいジバン(和服用の下着)一枚になり、うっすら汗をかいた華奢な鎖骨が露わになりました。『今誰もおらへんやさかい、汗拭いてやつさへん?』襖を開けると、そこには色鮮やかで上品な光沢がある着物や手触りの良い袴、刺繍の入った洋服、更には化粧品や香水などが無造作に置かれていました。

----こんなハイカラな服が村にあったんやうち知らへんかったわ・・・。

『あんた、町から来たんやろ?こういう服なんぼでも持ってるんとちゃいますのん?』

----なんでそんなこと知ってはるん?今まで喋ったことなこうたのに・・・。

『お菊から聞いたんや、うちと同じ町から来はったって、ホラ、皆が帰ってくる前に早よ着替えましょ』

菫さんは純白色の生地にスミレの刺繍が入ったパフスリーブドレスを二着を取り出し、私に渡しました。私は七、八つの時まで町にいた者ですが外に出ることはめったになく、こんな豪華なドレスなんて着たことありませんでした。それに比べ菫さんは品のある手つきで釦を留め、ソフィー・アンダーソンの描く少女にも劣らぬほど着こなしていました。『薫ちゃん、うちらエスにならへん?』----エス?

『そう、エス、シスタァ、・・・姉妹の略や。頭文字を使ってるんや。町では仲よしになると、そういって紅の差し合いっこしたり、贈物をしたりするんよ・・・。』そういうと、菫さんは小指に紅を撫で、そうっと私の唇に塗りました。『ホラ、薫ちゃんもうちに塗って』私は薄い硝子に触れるように慎重に触れました。『これでうちらも姉妹・・・二人で一つや。』----(こんなことして何の意味があるん?)

お互いの唇に紅を差し終わりますと、鏡台の前に座り菫さんは二人の顔を見比べました。『こうしてみると本当に姉妹のようやね』----そ、そんなん嘘や・・・。 私の顔は透明の硝子を何枚を重ねたように薄暗く、菫さんの生き生きとした美貌からは程遠いものでした。 『そんなことあらへんよ、よく見てみ、目元がよく似とる。』菫さんは私の顎を引き上げ鏡を見させました。そこにはまるで同じ顔が二つ並んでいるように見えました。

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「奥様、奥様。」彼女が手紙に読み耽ってると、女中のお菊が突然肩を揺らしました。――用があるのならノックして呼びかけなさい。

「申し訳ありません、ですが、三時を過ぎても食堂にお見えにならなかったので・・・。」お菊の後ろには顔全体を包帯で覆い、右目と鼻と口だけ露出させた女性がいます。――あの方はどなたかしら?

「申し遅れました、これは新しく入った女中です。ほら、貴女から挨拶なさい」

――今は締切りが迫っていてそれどころじゃありませんのよ。お菊、茶を持ってきなさい、そして主人が帰ってくるまで誰もこの部屋に入ってこないでちょうだい!

彼女はヒステリー気味になりながら女中たちを追い出し、引き続き宛名もない手紙を読みました。

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しばらくの間、私は鏡に映る二人の菫さんに見蕩れていると、何やら外が騒がしくなりました。暖簾の隙間から外の様子を見てみると、どうやら宿親のばあさんが若者と娘たちが町へ逢引しに行ったのがばれたようでした。『えらいこっちゃ、はよ着替えよ。』二人は急いで紅を拭きとり、元のみすぼらしい浴衣に着替え、被服室に戻りました。・・・その夜からというもの、私はスミレ宿に行き、菫さんと会うのが生き甲斐となりました。昼は皆と畑を耕し、夜は菫さんと手紙を回しながら針仕事をし、菫さんとは日本髪の結い方や針仕事を教え合ったり、お互い兄や姉がいることや父が医者であることなどを話したりして、他のどの友達よりも、否、まるで本当の姉妹のように親しくなりました。スミレ宿に来て丁度一年経ち、梅の祝言に備えるためばあさんに山菜採りに行くよう頼まれました。----菫さん、菫さん、一緒にワラビでも採りに行きましょ。そう言うとお菊が突然私の腕を引っ張り、私の耳元でこう囁きました。「あんた、この頃菫ちゃんとベッタリやなぁ。あんまり一緒にいいひんほうがええで。」

----なんやぁ馬鹿馬鹿しい、菫さんが何か抱えているっていうんか?「あんたのために言うてねんで、あの方はなぁ、」----もうええわ、うち行ってくる。 引き留めるお菊を突き放し、菫さんを連れて山へ向かいました。『薫ちゃん、ここに仔猫がおるよ、連れて帰ろう』菫さんはいつもと変わりない塩梅でいました。

----なぁ菫さん、梅は来週祝言を上げることになったけど、菫さんもそろそろそういうことになるん?  そう尋ねますと、菫さんはやにわに俯き、こう呟きました。

『うち、ここから抜け出して、女流作家になりたいんや・・・このままやとオトンが決めた人と祝言を上げることになるし・・・。』----うちも連れてってくれへん?うちら二人で一つやろ?  菫さんは俯き、仔猫を抱いたまま何にも言いませんでした。やがて夕暮れ時になり二人は口を利かないまま宿に帰りました。仕事を終え寝室に向かおうとすると、菫さんがすれ違いざまに『来週の土曜抜け出すで』と呟きました。梅の祝言が無事終わり、約束の土曜日になりました。丁度その日の夜は皆、町へ遊びに行くそうで、皆と同時に抜け出しましょうと、菫さんと決めました。村の大人たちに気づかれないよう抜け出し、やっとのことで町に着きましたが、菫さんが見当たりません。----菫さん、何処にいはるんやろか・・・。  人混みの中、あちらこちらに目を動かしながら、探していると、背広を着た背の高い男性と親しく話している菫さんとその隣にいるお菊と目が合いました。----(その人は誰?)  暫く、菫さんと見つめあっていましたが男性がこちらを振り返ったので、私はその場から逃げ村に戻りました。あの人は菫さんの何なんだろう、何故私ではなくお菊を連れていたのか、宿を抜け出したい本当の意味は何なのか、不安で眠れませんでした。翌朝になっても食卓に菫さんの姿はありませんでした。ばあさんには、菫のお嬢さんを知らないかね、と尋ねられましたが、私は黙って首を横に振ることしかできませんでした。あれだけ一緒にいて、否、姉妹の契りまで交わしたというのにあっけなく誰かに取って代わられ捨てられたのでありましょうか、私は計り知れない孤独感に包まれました。ですが、本当の悲劇はこれからでした。朝食を終え、皿洗いをしていると勝手口の外からニャアニャアと、仔猫の騒がしい声がするのです。何事かと思い、戸を開けてみると、目の前に真っ赤な風景が広がりました。宿の中には煙が広がり、皆玄関口の方へ逃げました。全身に熱気を浴びながら外に出ると、ほんの一瞬ではありますが、先日見た背広を着た男性と、菫さんが走って町の方へ向かうのが見えました。私はこの日のことが忘れません。十年経った今も火傷の跡が消えません。

貴女は覚えていますか、菫様。

生涯貴女と過ごすのを未だに夢見ています。

-------------------------------------------------------------------------

彼女は手紙の半程なかほどまで読んだ時、すでに恐しい予感の為に、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒を覚えました。すると突然コンコンとノックが聞こえました。

――誰なの!?

「菊でございます。奥様、旦那様からお電話です。」

――もしもしあなた、気味の悪い不審な手紙が届いたのだけれど、

《明日帰ったらゆっくり聞くさ。今夜は十五人ほどの生徒の論文の面倒を見てやらなくちゃいけないんだ、朝まで帰れない》夫はものの数秒で電話を切ってしまい事情を話す余裕などありませんでした。走馬灯のように思い出す先ほどの新人の目鼻、全身に包帯を巻いた姿はあからさまに薫のものでした。

-生涯貴女と過ごすのを未だに夢見ています-   ・・・あの娘は私に復讐しに来たに違いない、彼女はそう思い、あまりのことに、ボンヤリしてしまって、これをどう処置すべきか、まるで見当がつきませんでした。取り敢えず今は一人でいるのは危険だと思い、お菊のいる食堂へ向かいました。書斎を出ると、廊下には一点の明かりもついていませんでした。ランプを片手に、食堂へと向かう。中に入ると、食卓にはいつになく豪勢な品が並べてありました。座って水を飲み落ち着いていると、突然の吐き気とめまいに襲われました。----奥様。・・・いや、菫さんやっと二人きりになれましたね。

後ろから覚えのある声が聞こえてきます。振り返ると、包帯の上からでも予測できる青白い、不気味な笑顔が暗闇の中から浮かびました。

――いやぁぁぁぁ!  彼女はわずかに残る力を振り絞り、足元をフラフラさせながら逃げました。水に毒を入れられたかもしれない、菫には理性なんてものは既に消えており、窓から飛び出そうとしていました。すると後ろから薫が首を掴みました。----危ないですよ、菫さん。あなたもあんな姿になりたいのですか?

窓の真下には花壇の上で傷だらけになったお菊が倒れていました。菫は恐怖のあまり踵で薫の足を蹴り飛ばし玄関へ辿り着いたが、力尽きたのか沼に足が嵌まったかのように転けてしまいました。――(毒が私を蝕んでいく…)

薫は至って落ちついた様子で、菫に近づきそっと手を握りました。ーーーー菫(トリカブト)の毒が回ってきましたか…これでずっと一緒にいられますね、菫さん。

薫がもう片手に持っていたランプを突き落とすと、赤い炎が二人を包みました。〈終〉


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