01
葬儀のときに渡された、母の大好きだったアンティークの指輪は、煤けてさらに鈍い色をしていた。
「鈍色の花」
パリでも有名な洋菓子店、「ショコラのお家」が全焼したニュースが流れたのは消火が終わった翌日のことだった。
オーブンから発火して、消火が間に合わず、手作業で消火活動をしていた夫婦が焼死したという。ひとり息子のギー=ワロキエを残して、お菓子の家は消えてなくなった。
火の回りは早かったらしい。
らしい、というのは、ギーがその場に居合わせることなく、イタリアの親戚の家で事後報告を受けたからだ。
避暑地コモでこの知らせを受けたとき、ギーはハンモックで揺られながら小説を読んでいた。内容は詳しく覚えていないが、推理小説だったのは覚えている。奥さんが旦那の死を知らされ「死んだ。嘘ですよね?」と言うシーンだった。最近の推理小説はいきなり失神するご夫人は少ない。
ギーは電話を受けたおじさんが、神妙な表情をして「君の両親が死んだ」と言ったとき、小説とまったく同じ反応をしたことを覚えている。
「死んだ。嘘ですよね?」
もちろんおじさんが嘘をつくわけがないのは分かっているのだが、唐突すぎる内容に、思考が追いつかなかった。
だけどおじさんが「本当だ」ともう一度言う前に自分から「死んだんですか。どうして?」と矢継ぎ早に聞き返した。
「放火だそうだ」
おじさんはそう言って太い眉を寄せて、険しい表情をつくった。
タルティーニおじさんは母の親戚だ。母は地黒で眉をはっきり引いた凛々しい顔だった。色白で繊細な雰囲気の父に似たギーは、母のように意思の強い眼差しがほしかった。タルティーニおじさんも母と同じ、やさしく力強い目をしている。父の目も、やわらかで芯のある目をしていた。
しかしギーの目は違った。彼の目はいつもどこか惚けたような視線をしていて、意思の強さの欠片も見えず、鮮やかな青い目は硝子玉のように無機質だった。
ギーは思いつめた顔をしているおじさんに「そうですか」とぽつりと呟いた。そうしてハンモックに体重を預けて、瞼を半分下ろした。唇が渇いていたので口を結び、そっと唾で濡らす。ギーは愛する両親が死んだという事実をうまく感じることはできなかった。
「遺体は警察が預かってくれているらしい。早めに帰りなさい」
おじさんはそう言った。
「帰りなさい」と言われて、実家は焼失しているのだから「帰る」の目的語は実家ではなくフランスだな、などと場違いなことを考えていた。
実家は文字通り焼失していた。
焼けて、失くなる。それがどんなに物哀しい光景なのかギーにはうっすらとしか想像できていなかった。
表通りのウィンドウは溶けていた。オーブンはひしゃげていた。父が大切にしていた家具は黒い炭となっており、母がお菓子ではなく手料理を振舞ってくれたキッチンは、台を残してあとは煤けて形がわからなかった。二階にあった両親の寝泊りしていた寝室も、ギーが高校卒業と同時に放置していった自室も、柱しか残っていない。
(ああ、帰る場所なくなっちゃったんだな)
ギーはそう胸中呟く。家族もいなくなって、家もなくなって、誰も歓迎してくれないパリの街は、懐かしさよりも先によそよそしさのほうを感じた。
「死体は見ないほうがいいと思う。今、全力で見られるように整形してもらってるから。その、ワロキエおじさんたちの顔に似せることができるかはわからないけれども」
洋菓子店でギーと入れ替わりで修行をしていた、フランチェスカ=タルティーニは無事だった。
フランチェスカはぽろぽろと涙を零して「ごめんなさい、ごめんなさい」と言った。ギーは「フランチェスカは悪くないですよ」と彼女の頭を撫でて慰めたが、十代の彼女はしばらく泣き止まなかった。
葬儀の最中もギーは涙ひとつ流さなかった。綺麗に整形された両親の遺体は息子の自分から見てもよくできた死人形だと思った。炭になった肉は両親のものかもしれない、顔も両親にそっくり、だけどなぜかそこにいるのが自分の家族だと感じることができず、ギーは葬儀中欠伸をかみ殺すのが精一杯で俯いていた。
葬儀が終わったあと、フランチェスカに遺品として渡された指輪――燻した銀の、薔薇を象ったアンティークのそれを握ったときまでは、悲しさなんて微塵も湧いてこなかった。ただ、これからどうするかだけを考えていた。どうやってパリに帰るか、ホテルはどこにするか、葬儀には誰を呼ぶか、葬儀はどうやるか、埋葬はどこにするか、自分はそのあとどうするか――
埋葬まで終えて、ホテルに戻った。
シャワーさえ時折水が出てくるような安っぽい素泊まりのホテルだ。ぎしぎし音のうるさいベッドに座り、煤けた銀色の指輪を見下ろした。
思い出を何かしらの形で思い出せるから辛さを乗り越えられるのだと、学校の心理の講義で教わったことがある。これ以外、何も残らなかったのだなと、指輪を見下ろしながら思った。
母はこの指輪をつけたり外したりしていた。父がプレゼントした結婚指輪よりもこちらの指輪のほうをつけていることが多かった。理由を聞いたとき、母は「つけたり外したり、気楽なほうがいいじゃない」と言っていた。サバサバした性格の母だった。
母の薬指に嵌っていた指輪だ。男のギーの小指にしか嵌らない。
「つけたり外したり、気楽なほうがいいじゃない」
自分もつけたり外したりするのだろう。両親のことを思い出したくなったときにつける程度で丁度いい。ずっといっしょだよなんて、そんなことを言えるほどには傷は癒えていなかった。
自分の考えが脳内で言語化されて「ずっといっしょだなんて言えるほど、まだ傷は癒えてない」と響いたとき、そんなに傷が深かったのか? と自分に問うた。葬儀中に欠伸をするような失礼な息子に、まだそんなセンチメンタルな感情が残っていたのかと。
じわり、じわりと、紙にインクを落としたような感情が広がっていく。誰に心を閉ざせと言われたわけでもないのに、考え出したらキリがないと追いやっていたものが心の中に幅をきかせはじめた。
(親を愛していたことに、今更気づくなんて……)
涙腺がゆるんだ。しかし涙は一筋も流れなかった。
当たり前のように留学に出してくれた両親、戻ってくればいつでも会えると思って、クリスマスにさえ顔を出していなかった。自分は親孝行なんて、一回もしたことがない。
こんなときですら涙ひとつ流さない自分に、自己嫌悪さえ湧いてこない。ただバツの悪さのようなものを感じているだけだ。
――放火だそうだ。
おじさんはそう言った。放火、何を考えて火をつけたのだろう。何か理由があったと言ってほしい。理由があったとて許せることではないだろう、しかし、ただ火が見たかったとかそんな下らない理由ではない、必要に迫られた理由があったのならば、いつまでも放火魔を恨み続けることはないだろう。
だけどおそらくは陳腐な理由しかないのだ。当然だ、人を二人殺すのに価する理由なんてそうそう見つかるわけもない。
両親は放火魔の、くだらない欲を満たすために殺されたのだ。
(許せない)
心の中で何度か呟いてみた。正確には許せないと思い込もうとした。でないと自分の中にあるやり場のない虚しさが、冷たい自分を一斉攻撃し始めそうな気がした。
(許せない、許せない、放火魔を許しちゃいけない)
何度も胸中呟く。自分の両親に対しての罪悪感を、放火魔を責める形で回避しようとしていることに、大学で心理学専攻のギーは薄々気づいていた。だけどそれを認める勇気はなかった。
「放火魔は何を考えて放火したのか」
ぽつりと呟く。しかし思考は、冷静すぎるくらい、殺された両親よりも放火した犯人に向いていた。何を考えて、あの犯罪とは無関係の両親を殺したのか。なぜ……なぜというところで、一度その思考をやめることにした。
「打ち込めるものが必要ですね……」
この空虚な心を埋めるための、何かが必要だと感じた。
それが真実の心なのか欺瞞なのかはさておき、悲しみを忘れることはできる。
ギーは二十二歳になっていた。働けない年齢ではない。両親の生命保険がおりて金があるとはいえ、何事もなかったかのように呑気にミラノ大学に通う気にはなれなかった。というよりも、フランスにも、留学先のイタリアにもいたくなかった。そこはもう、ギーの居場所だとは感じられなかった。
アメリカに行くと言い出したギーに
「あんな犯罪の多い国に行かなくたっていいのに」
とタルティーニおばさんは言った。だけどギーはかぶりを振って笑った。
「だから行くんです」
と。常日頃、気になり、学びたいことがあったのだ。
犯罪心理学と異常心理学。何故その学問が昔から気になっていたのかわからない。格好いいと思ったことはないが、目が離せなかった。
身近な人を犯罪で亡くしたというのは動機づけとしては十分だと思う。復讐に燃えるような人間ではなかったが、恨みがないわけではない。仕方なかったのだなんて諦められるほど、自分は成熟した大人になっていなかった。
「止めても聞かないの? 本当に、そんなことをしても両親は喜ばないわよ? わかってるの、あなたが幸せになることをご両親は今も天国で望んでいるのよ?」
「そうかもしれませんね。ごめんなさい」
困ったような表情で微笑み、謝罪し、ギーはタルティーニおばさんの頬にお別れのキスをした。続けておじさんのほうにも。こんなことがあったからと出戻りのフランチェスカにもだ。
「お世話になりました」
簡易にまとめた荷物をもって、タルティーニ家を出る。
空港に向かうバスの止まる停留所まで歩きながら、後ろを振り返った。大自然の中にあるバンガローが小さく見えた。おじさんとおばさんは四年間もよく世話をしてくれたと思う。
麓の停留所にはバスがもう止まっていた。
ギーは美味しい空気とステイ先の家族に、もう一度「さようなら」と呟いてバスに乗り込んだ。