国一番の機織りは忙しい。
むかしむかし、あるところに小さな村がありました。
植物からつむぐ糸とその糸で織られた布が特産物の村では、とんからりと機を織る音が一日中響いています。
糸をつむいだり染めたり機を織ったりするのは主に女性たちでした。
黒髪のティナもそんな機織りの一人でした。
まだ十二だというのに今ではいっぱしの機織りです。
機を織るのは嫌いではありません。
でたらめな歌を歌いながら手を動かすのが大好きです。
でも、外から同じ年頃の子供たちの声が聞こえてくると、ティナは歌うのも手を動かすのもやめてしまいます。
幼いころから機を織るティナは、他の子たちとほとんど遊んだことがありません。
だから、楽しそうな子供たちの声が聞こえると、手を止めてしまうのです。
その年の冬はいつになく長く、機織りたちは顔を合わせると不安を口にしました。
雪もどんどん深くなって、雪かきも大変です。
このまま春が来なければ、糸の材料となる植物の種をまくことができません。
糸がなければ機も織れません。
冬が終わってくれないと、村の人みんなが困ってしまいます。
ティナはあたたかい春の訪れを思い描きながら機を織るのでした。
ある寒い日のことです。
朝早くに扉をたたく音がして目を覚ましたティナは、扉を開けて目を丸くしました。
真っ白な外套で身を包んだ人が立っていました。深くフードをかぶっているので顔は見えませんが、村の人でないことだけは分かります。
「あの、どちら様ですか」
「この布を織ったのはあなた?」
鈴の鳴るようなかわいらしい女の子の声に、ティナはさらに目を見開きました。
差し出された布を見ると、確かに先日納めた白い布です。婚礼用というので、祝いの文様を金糸銀糸で織り込んだのです。見間違えようがありません。
もしかして、なにか不手際があったのでしょうか。
恐る恐るうなずくと、目の前の人はフードを脱ぎました。
現れたのはピンク色の髪の毛と、満面の笑顔。ティナとそう身長の変わらない女の子だったのです。
「よかった。探していたのよ、あなたのこと」
「えっ……?」
女の子はティナの手を握り締めるとにっこり笑いました。
「わたしと一緒に来て欲しいの」
「えっと……どこに?」
「春待ち峠」
ティナは首をかしげました。村からほとんど出たことのないティナには、地名を言われてもわかりません。
「あの……仕事があるから……」
「それなら大丈夫。村の人に頼んでおくわ」
「でも……」
仕事が仕上がらなければ生活ができません。それに依頼主が待っているのです。
ティナはそう言って断りましたが、女の子は食い下がります。
「あなたでなければできない仕事なの。ちゃんとお礼はするからお願い、わたしと一緒に来て」
思いつめた顔の女の子に、結局ティナはうなずきました。
自分でなければできないと言われては断ることはできません。
「ありがとう、じゃあさっそく行きましょう」
女の子はにっこりと微笑みました。
女の子はイリスと名乗りました。
村の出口には村長のロイドさんが見送りに来ていました。他にもちらほら見知った顔があります。
「ティナ、気を付けていくんだぞ」
「はい」
「イリス様のことをよろしく頼む」
ティナはきょとんとしてイリスの顔を見ました。
イリスはにっこりと微笑むと、ティナの手を引いて歩き出しました。
村長さんは確かにイリス様と呼びました。立ち居振る舞いも自分とは大違いで、きっとどこかのえらい人の娘なのでしょう。
そう思うと途端に自分のみすぼらしい格好が気になりました。くしゃくしゃの黒髪や質素な服が、とても恥ずかしくなったのです。
さっさと終わらせてしまおう。そうティナは決心しました。そうすれば早く家に帰れます。
「あの、春待ち峠ってどこ?」
「ここからまっすぐ行った暗森を抜けた先よ」
「えっ」
暗森は文字通り、昼でも日の差さない暗い森のことです。狼が出るとか熊が出るとか聞いたこともあります。夜はもちろん、昼でも子供は立ち入り禁止です。
そんな場所に、ティナとイリス、女の子二人で入って大丈夫なのでしょうか。
「大丈夫、用心棒がいるから」
そう言うと、イリスはふいに口笛を吹きました。
すると、どこかから大きな狼が飛び出してきました。大人の男の人よりも大きな狼に、ティナは腰を抜かしてしまいました。
こんなに村に近いところに狼が出るなんて聞いたことがありません。
なのに、イリスは気にもせずに狼に近寄ると、手を差し伸べました。
大きく口を開けた狼に食べられてしまう――ティナはぎゅっと目を閉じました。
「ティナ。大丈夫だから目を開けて?」
恐る恐る目を開けると、目の前に狼の顔がありました。目を丸くしている間に大きな舌がべろりと顔を舐めて行きました。
「きゃあっ!」
「フェン、おどかしちゃだめだってば」
ティナが身を縮めるのを見て、イリスは狼の鼻面を押しのけました。
「ごめんなさい、ティナ。彼はフェンというの。わたしの用心棒よ」
「よう、じんぼう……」
イリスの横にちょこんと腰を下ろした狼をちらと見上げると、フェンはしっぽをゆらりと揺らしました。
「彼に乗せてもらえば、森を抜けるのはあっという間よ。……フェン、ちゃんと挨拶して」
狼は一度立ち上がると、ティナの前に座り直した。
「フェンという。よろしく頼む」
「しゃ、しゃべったっ……」
ティナが目を丸くしてフェンとイリスを交互に見ると、イリスはにっこり微笑んだ。
「じゃあ、お願いね、フィン」
「ああ」
伏せの体勢になったフェンにさっそくイリスがよじ登りました。上に跨ってティナの方に手を差し伸べてきます。
ですが、ティナは動けませんでした。さっきのですっかり腰が抜けてしまっていたのです。
「仕方ない。……お嬢ちゃん、わめくなよ?」
「えっ……きゃあっ!」
フェンはイリスを乗せたまま立ち上がると、ティナのコートの襟の部分をかぷりと噛んでぶんと首を振りました。空に投げ出されたティナはフェンの背中、イリスの前にぽすんと落っこちました。
「落っこちないように捕まらせとけ」
「はいはい。まったく荒いんだから。……ティナ、ごめんなさいね。フェンは気が短いの」
そう言いながらもイリスはティナが落っこちないようにちゃんと座らせて、両腕でフェンの毛束を握るように教えてくれます。
ティナは口を聞くこともできなくて、ぶんぶんと首を振りました。
「もういいか?」
「ええ、大丈夫」
イリスが言うなり、フェンは駆け出しました。
フェンが飛び跳ねるのに合わせて体がふわっと浮いたりして、慌てて毛束を握りしめること数回、横にいきなり動いて滑り落ちそうになること数え切れず。
最初は暗森を通るというだけで怖くなって目を閉じていましたが、だんだん慣れてきました。
暗くて全然見えないと思っていたのに、目も慣れてきて、周りの木々が見えます。遠くに聞こえる獣の声にどきりとするけれど、フェンがいるおかげか寄ってくる獣はいません。
「フェンは強いの。獣たちはそれが分かるから寄ってこないのよ」
「ふん、当然だ」
イリスの言葉に、フェンが走りながら答えます。ティナはちらりとイリスを見あげました。同じぐらいの年の子だと思っていたけれど、誇らしげに笑う彼女はとても大人びて見えたのです。
村長さんの態度といい、イリスはもしかしたら見た目通りの女の子ではないのかもとティナは思い始めました。
だって、こんな大きなしゃべる狼を従えた女の子が、普通の女の子であるはずがありません。
「イリスはすごいんだね」
「すごくないよ。すごいのはフェン」
ふふと笑うイリスに、ティナは肩越しに振り返りました。
「そのすごいフェンを従えてるんだからやっぱりすごいよ」
「俺はイリスに従ってるんじゃない」
ティナの言葉に口をはさんだのは走るフェンでした。
「俺がイリスを守ってるんだ」
「そうね、わたしが従えてるんじゃないわ」
そう告げたフェンもなんだか誇らしげで、イリスはと振り返れば、嬉しそうに微笑んでいます。
よくわからなくてティナが首をかしげると、イリスはにっこり微笑みを返します。
「ティナ、あなたには好きな人はいる?」
「好き……?」
「そう。大事に思う人」
イリスの言葉にティナはやっぱり首をかしげます。するとイリスは表情を曇らせました。
「家族や友達は?」
「いない」
ティナの返答に、ますますイリスの眉間のしわが深くなりました。
ティナは物心ついた時から機を織っていました。その頃から、身の回りには誰もいませんでした。機織り機の使い方を誰に教わったかも覚えていません。
「……じゃあ、村長のロイドさんは?」
「お仕事をくれる人」
「そんな……じゃあどうしてあなたはあの布を織れたの……?」
イリスの言葉の意味が分からなくて、やはりティナは首をかしげました。
あの布も、いつものように村長さんに頼まれた通りに織っただけで、何かが違ったわけではありません。
しばらくして顔を上げたイリスは、先ほどまで微笑んでいたのが嘘のように冷たい表情になっていました。
「フェン。引き返して」
「……いいのか?」
走り続けながらフェンが問うと、イリスはうなずきました。それを見て、フェンは走りながら森の中を大きく弧を描くように動いて元来た方向へと戻りはじめます。
「どうして……?」
春待ち峠に行って何かするために自分が連れてこられていることはティナも分かっています。なのに、引き返すのはどうしてなのでしょう。
「だって……あなたじゃ春は織れない」
「……春を、織る?」
どういう意味なのか、ティナはじっとイリスを見つめました。ですがもうイリスはティナに柔らかくは微笑みかけてくれません。
春とは、季節の春のことでしょうか。そして織るということは、機を織るということ。
春を織るなんて、聞いたこともありません。
イリスが自分しかできないというからここまでやってきたのに……。
「ごめんなさい、ティナ。こんなところまで連れてきてしまって。でも――人違いだったみたい」
「でも、あの布は間違いなくわたしが織ったの」
「そんなはずないわ。だって……」
「おい、イリス」
不意にフェンは足を止めました。
「その布は確かにその娘が織ったものだ。そいつの匂いがぷんぷんする」
「間違いないの?」
「ああ。……それにロイドは嘘をつかない。その布の織り主がそいつだと言ったんだろ?」
「そうだけど……」
「お前は勘違いしている」
「えっ?」
フェンは唸り声を上げるとぐるりと周りを見渡しました。
「たとえ家族がいなくても愛は持てる。……だろ?」
「それは……そうだけど」
イリスとフェンのやり取りはティナにはさっぱりわかりません。でも、フェンが自分の味方をしてくれているらしいことだけはくみ取れました。
「その布に込められてる思いぐらい読み取れるだろう? イリス」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、そいつが何を思いながら織ったのかぐらい読み取ってみせろ。春を織れるのはそいつ以外いないことぐらい、わかるだろ」
フェンがそう言うと、イリスはぷんと頬を膨らませてフェンの体をぽこぽこ殴りました。
「どうせできそこないですよーだっ、あの人と比べないでっ!」
「比べられたくなきゃ早く一人前になれ。……ちょっと飛ばすぞ、二人ともしっかりつかまってろ」
言うが早いか、フェンは地面を蹴って高く飛び上がりました。
驚いて下を見ると、さっきまでフェンがいたあたりを狼の群れが囲むようにしています。
「引き返せなんていうから囲まれちまってた。ここから出口まで突っ走るから、舌噛まないように口閉じとけよ!」
ティナはイリスに背中から抱き着かれる形でフェンの背中にべったりしがみつくと、言われた通り口を固く閉じました。
さっきまでとはまるで違うスピードで森の木々が流れていくのが見えます。遠かった獣たちの声がずいぶん近くに聞こえて、胸がばくばくしています。
フェンが森を抜けるまで、ティナはぎゅっと目をつむってフェンの毛束を強く強く握りしめるのでした。
フェンが足を止めたのは、森を抜けてさらにしばらく走ってからでした。
「もういいぞ」
上に覆いかぶさっていたイリスが体を起こすと、ティナもこわごわ目を開けました。
そこはどうやら原っぱのようでした。体を起こして見れば、暗森ははるか遠くに見えるだけで、獣たちの遠吠えももう聞こえません。
小さな小屋がぽつんと建っています。ここが春待ち峠という場所なのでしょうか。
「ありがとう、フェン」
イリスがいたわるようにフェンの毛並みを撫でるとフェンはふん、と鼻を鳴らして伏せの体勢になりました。急に動いたので、ティナは慌てて毛束を握りました。
先に降りたのはイリスでした。イリスが一度も振り返らずにさっさと小屋の中に入っていくのを見て、ティナも続いて降りたものの、小屋の前で立ち止まってしまいました。
「入れよ」
声に振り返れば、フェンは起き上がってティナを見下ろしていました。
「でも……」
イリスの拒絶するような表情や態度を思い出して、ティナはうつむくとぎゅっと、胸の前で拳を握りました。
村から出たことのない自分を外に連れ出してくれたのはイリスが初めてでした。自分にしかできないことだからと言ってくれたのも。だからなおさら、胸が痛むのです。
「お前さんと違ってあいつは未熟だからな。……人としても」
フェンの言葉にティナは首をかしげます。自分と比べてイリスが未熟だなんてちっとも思えません。周りと違うことをくよくよ思い悩む自分の方がよほど未熟です。
「ともかく、お前さんがあの布を織ったのは間違いないし、春を織れるのもお前さんしかいない。胸張っていろ」
「……うん」
春を織るなんて聞いたこともなければやったこともないし、やり方もわかりません。でも、あの布は確かに自分が織ったものです。
フェンに鼻でうしろからつっつかれて、ようやくティナは小屋の中に入りました。
小屋に入ると、すでに暖炉には火が入っていて暖かい空気がティナを包みます。イリスはと見れば、暖炉の傍に寄せた長椅子の一つに座っていました。その手にはティナの織った布があります。
「座って」
なんだか不機嫌そうなイリスに、ティナは慌てて空いている長椅子に腰を下ろしました。
イリスは顔を上げることもなく、ずっと手の中の布を触っています。
「あの……」
「少し黙っててくれる? 気が散るから」
ぴしゃりと言われて、ティナは口を閉じるとうつむきました。暖炉で踊る炎をじっと見つめていると、ぱちぱちとはぜる音だけが聞こえてきます。
「……春のあたたかさは人を思う心と同じなの」
不意に声が聞こえて振り返ると、イリスは目を閉じたまま布をじっと握りしめていました。
「人を思う心……?」
「誰かを好きになると、心の奥があったかくなるの。誰かを愛せばもっとあったかくなる。……春をつむぐには同じあたたかい思いが必要なの。……だから、人を好きになったことのないティナじゃ無理だと……思ったの」
誰かを好きに。誰かを愛せば。
それは、ティナにとっては確かにわからない思いでした。家族も友達もない、誰かを思ったことのない自分では、確かに無理です。
「でも。……違った。ティナ、ごめんなさい。あなたは村のみんなをとても大事に思ってるのね」
「みんな……?」
イリスは目を開くと微笑みを浮かべました。
「そう。……この布を織った時、どんなことを考えていたか覚えてる?」
ティナは首を横に振りました。婚礼の衣裳用だから気をつけて織りあげたのは間違いありませんが、それ以外はいつもあまり覚えていないのです。
「今年は冬が長いわ。春がなかなか来ないおかげで植物の種が蒔けないのでしょう? そうなると、織物で食べているあの村のみんなが困ることになる。……だから早く春が来てほしい。そう願ったのね」
「あ……」
そういえば、そんなことを願いながら、あたたかい春の光景を思い描きながら手を動かしたことを思い出しました。
「あなたの織ったこの布からは、春を願う強い思いを感じたわ。わたしはそれを読み違えてしまったのね。……ごめんなさい、ティナ。わたし、とても失礼なことを言ったわ」
頭を下げるイリスに、ティナは首を振って微笑みました。心にわだかまっていた冷たい氷のかけらが解けていくのを感じます。
「わたしは他の人と違うから……」
「他の人と?」
ティナはきょとんと首をかしげるイリスにうなずくと口を開きました。
「わたしには両親がいないから」
「それはわたしも同じよ」
しかしティナは首を横に振りました。
「村には言い伝えがあるの」
「言い伝え?」
「……黒い髪の娘は織姫の生まれ変わり、って」
ティナは自分の髪の毛を一房掴んで揺らしながら、村に伝わる言い伝えを口にしました。
遠い昔、王子の執拗な求婚に耐えかねて、織物の上手な黒髪の姫が隣国から逃げたのだそうです。
逃げて逃げて、戦乱で長く荒れ果てた地だったあの場所でついに息絶えた姫を、地元の者たちが手厚く埋葬しました。
その墓の周りには不思議な植物が生える様になりました。
植物から糸をつむげることに気が付いた村人たちは、その糸で織物を織ってみたところ、実に美しい布に仕上がったのです。
王都に持っていくと飛ぶように売れ、村は潤うようになりました。
以来、黒髪の女の子は織姫の生まれ変わりだとされ、村では大切にされるようになったのです。
「じゃあ、ティナが一人で暮らしてたのは」
「織姫には両親も友達もいらないから」
織姫であるティナには、本当のことは誰一人教えてくれません。
もしかしたら村人の中に本当の両親がいるのかもしれません。子供たちの中には兄弟がいるのかもしれません。でも、誰も教えてくれないのです。ティナと言葉を交わすことも禁じられています。
「そんな……ひどいわ」
「だから、イリスがあの村から連れ出してくれたのはうれしかった」
そう言ってにっこり笑うと、イリスは立ち上がってティナを抱きしめました。
「そんなにひどいことをされてるのに、村の人をあんなに大切に思うのね……」
ティナはきょとんとして首をかしげました。
「ひどいのかな。……わからない。大切にしてくれるよ、みんな。でも、同い年ぐらいの子が外で遊んでいるときに機を織るのは辛かったけど」
「わたし、この旅が終わったらロイドさんに言うわ。ティナを普通の女の子として遊ばせてあげてって」
イリスのこの言葉に、ティナは慌てて両手を振りました。
「いいの、わたしは機を織ることしかできないから。……うらやましいなとは思うけど、わたしは機を織らなくちゃ」
「……どうしてそんなに機を織ることに執着するの?」
「……しゅうちゃく?」
「こだわっているってことよ」
「……そうなのかな」
執着、といわれてティナは表情を曇らせました。物心ついた時から機を織ることばかりやってきた彼女にとって、機を織ることがすべてなのです。
そうです。機を織らなくては。
途端にごちゃごちゃしていたティナの頭の中がきれいさっぱりクリアになりました。
「わたし……機を織らなくちゃ」
「それが執着だって言ってるのよ」
「でも……イリスもそのためにわたしをつれてきたんでしょ?」
そう告げるとイリスは目を見開いて口を両手で覆いました。
「それは……そうだけど。ティナ、あなた」
「じゃあ、織らなきゃ」
ティナは長椅子から立ち上がると、小屋から出ました。入口にはフェンが何かを待っていたかのようにかしこまって座っています。
「目が覚めたか」
フェンの言葉にティナはうなずきました。背中に乗りやすいように伏せの体勢になると、ティナは戸惑うことなく背中に乗り、毛束を握りました。
「フェン……ティナをどうするつもり」
「どうするつもりもねえ。……約束の場所に連れてくだけだ。お前も乗れ」
「あ、当たり前よっ」
イリスがあわててティナの後ろに乗り込むと、フェンは立ち上がってゆっくり歩き出しました。
フェンが足を止めたのは、原っぱの先にあるガゼボでした。
伏せたフェンから勢いよく飛び降りたティナは、ガゼボに駆け寄っていきます。後を追おうとしたイリスは、フェンに服の裾をぱくりとくわえられて身動きが取れなくなりました。
「ちょっと、フェン。どういうつもりよっ」
「こっから先はお前は立ち入れねえ。……見届けるんならここにいてもいいが、向こうには行けねえ」
「なによそれ、どういう……」
フェンにさらに言い募ろうとした時、歌声が聞こえてきました。
決してうまくはありません。調子っぱずれで、歌詞も適当。聞いたこともないメロディです。
声はガゼボの方から風に乗って聞こえてきます。
ガゼボの中でティナが機織り機の前に座っているのが見えました。歌に合わせて手を動かしているのです。
不意に、ティナの姿に大人の女性の姿がダブって見えました。黒い髪の毛を背中まで流し、真っ白なドレスを着た女性が、ティナの動きに合わせて機を織っているのです。
女性の姿はすぐに消え、十二歳にしては少し痩せすぎなティナの姿だけになりました。
「あれ……」
「あとでな」
フェンはイリスの聞きたいことが分かっているのでしょう。イリスは押し黙り、歌が途切れるまで、見守り続けました。
目を覚ますと、のぞき込んでいるピンク色の髪の毛とフェンの鼻づらが見えました。
「あれ……?」
「気が付いた? ティナ、自分が誰だかわかる?」
「えっ……うん、わかる」
ティナがうなずくと、イリスははあっとため息をついてティナに抱き着きました。
「ほんとよかった……びっくりしたんだから。歌が途切れたなと思ったら、織り機からいきなり転げ落ちるんだもの。心臓が止まるかと思ったわ」
「え……あ、ご、ごめん」
勢いで謝ったものの、そのあたりの記憶があいまいです。小屋で喋っているときに何かを思い出したことは覚えています。
風の吹きすさぶところで機を織ったのも、歌いながらだったこともおぼろげながらに覚えています。
「あの……わたしの織った布は?」
「ああ、これね」
はい、と手渡されたのは、手触りの不思議な、それでいてとても暖かな布地でした。こんな布地を織ったことはもちろん初めてのはずなのですが、どこかで触ったことがあるような気もします。
「これ……『春』ね」
「わかるの?」
イリスは目を丸くして聞くと、ティナはうなずきました。
体を起こしてぐるりと見回すと、どうやらガゼボの中のようです。織り機はすでに跡形もなく消えています。
「……わたしがここに来るのは何回目? 春の獣」
「五回目だ。……まさか覚えてるのか?」
後ろに控えていたフェンが唸るように答えると、ティナは首をかしげました。
「さっき思い出したの。……イリスは、今年代替わりした春の女王様、よね?」
今度はイリスが目を丸くしました。
「ど、どうして知っているの? わたし、まだ……塔に入ったことないのに」
するとティナはにっこりと微笑みました。
「先代様に頼まれたの。……来年は若返るから、新しいイリスをよろしくねって」
イリスはそれを聞いてうつむき、目じりを拭いました。
春の女王としての最初の仕事が『春の機織りを探すこと』でした。先代の女王はヒントとなるものを何一つ残さずに旅立ったため、イリスはそれはそれは苦労したのです。
フェンリルはその所在を知っていたのに、何も教えてはくれませんでした。それ自体が、春の女王として認められるための、最終試験でもあったのです。
こんなに春の到来が遅れたのも、ティナを見つけるのにものすごく苦労したからでした。
だからこそ、認められたうれしさもひとしおでした。
「それも思い出したのか」
「そうみたい。……でも、ここを出れば忘れるようになってるのね。村では一度も思い出したことないから」
今や、ティナは何もかも思い出していました。
自分が本当に黒髪の織姫の化身であることも、春を織るための現身として、あの村に隠れ住んでいることも。
もともと親などいなかったのです。そして、村長以下村の人たちもすべてを知って、彼女を守ってくれていることも思い出しました。
織姫の化身たるティナが織る布は、他の機織りの織るそれよりはるかに上質に仕上がります。何度王都から引き抜きの話が来たかしれません。それを全部ロイドが断ってくれているのです。
村の中から出ないようにしているのも、彼女を狙う者が後を絶たないからでもあったのです。
「わたし、みんなに守られていたのね」
「そして、お前もみんなを守ってる。……今年もいい春をありがとう」
フェンが告げて首を垂れると、ティナは嬉しそうにフェンの鼻づらに手を伸ばした。
「こちらこそ、ありがとう。……来年もよろしくね、フェンリル、イリス」
フェンとイリスを交互に見ながら、ティナは微笑みかけました。
いつものように目を覚ましたティナは、ベッドから降りると大きく伸びをしました。
窓を開けると、すっかり暖かくなった日差しが差し込んできます。
長かった冬は明け、待望の春がやってきました。
今日は村人総出で種まきのはずです。いつもより遅い種まきだからと機織りたちが心配しているのが聞こえましたが、きっと何とかなります。
今年はいい春なのですから。
そう思ってにっこり微笑んだティナは、途端に表情を曇らせました。
「今年はいい春って……誰に聞いたんだっけ」
しばらく悩んでみましたが、どうやっても思い出せません。
まあいいか、とティナは朝ご飯の準備を始めるために窓から離れました。
その様子を、少し離れた木の上から一人と一匹が覗いていたことを、ティナは知りません。
「本当に忘れちゃった……」
「ああ。……約定だからな」
イリスは落胆を隠せずにうなだれました。フェンはしっぽをゆらゆらと揺らしながら、人影の消えた窓を見つめます。
「……お友達になりたかったのに」
「三か月、塔に閉じ込めるつもりか?」
「そんなんじゃないわよ。……いいもん、夏になったら遊びに来るから」
「あのなあ……あいつはお前のこと、完全に忘れてるんだぞ?」
「それが何よ。知り合うところから始めればいいんでしょ? それとも、わたしが友達になるのはまずいの?」
「そうじゃなくて……」
「あ、もしかしてやきもち? わたしだけがティナの友達になるの、やいてるんだ」
「はぁ? ……お前、突拍子もないこと考えやがるな。もういい。……塔に帰るぞ」
「えーっ、やだ。もう勉強飽きたもの」
「……ちゃんとこなさねぇと夏以降も勉強だ」
フェンの言葉にイリスはぶんむくれながらも立ち上がりました。
「わかったわよっ。その代わり、夏になったらほんとに遊びに来るんだからっ」
「……それに付き合わされる俺の身にもなってくれ。こんな村の真ん中に狼が出たってなったらごまかしきかねぇんだぞっ」
「じゃあ、ヒト型になればいいじゃない」
「なっ……」
フェンが絶句したのをいいことに、イリスはべぇだ、と舌を思い切り突き出します。
「帰るぞ」
「はいはい」
立ち上がったフェンにイリスが抱き着くと、ふわりとあたたかい風が木の梢を揺らしました。
ティナがその音に気が付いて窓の外を見た時には、もうそこには何もいませんでした。