【短編】或る街の幻燈
さなきだに青々と生い茂る雑木林が、ひとしお艶やかな色を放つ、雨露の滴る昼下がりであった。
峠の街道に面する一軒の緋い垂れ幕の架かる茶屋で休む旅装の女が二人、茶をゆっくりとすすりながら隣の席で噂話に興じる歩荷の男たちに耳を傾けていた。
「そういえば東の街に出たらしいじゃないか。噂の笛吹きと奥海舞踊の舞い手がよ」
「何だそれは? 旅の芸者か?」
「らしい。しかし、あんまりに笛も舞も人を寄せるもんだから、人心を惑わす妖しの術なのではともっぱらの噂なのだ。なんでもその術で金持ちを取り込んで、知らぬ間に懐の財布を盗って消えるそうだ。狐か狸に化かされたようだと皆が口を揃えて語るという」
「はは、怖や怖や。そんなに見事な舞ならば一目ほど見てみたくもあるが、化かされるのはご勘弁願いたいもんだ」
違ェない、と笑い立てる男衆が看板娘に小銭を渡して立ち上がる頃になって、女の片方が口の端を釣り上げてくっくと愉しそうに笑みを噛み殺した。
「妖しとはまた頓狂なことを。この巷に妖術なんぞというものがあるものかや」
黒地に白の見事な薊柄が走る小袖を着た、かろうじて胸の膨らみから女と判じれる中性的な容貌の人間だった。
短く切り揃えたクセの強い黒髪に鋭い目つき、腰に差した護身用と思われる白い佩刀から女だてらに旅慣れた警戒心を漂わせる風貌である。
片や、その横にきちんと足を揃えて座る無地の紫檀色の着物の少女は、大きな栗のような瞳を開けて立ち去っていく男たちを瞥見していた。
「……はぁ。私たち、盗みなんて働いたことないのにぃ……」
「噂なんぞかようなものさ。返ってくる頃には大抵ロクでもない物が付いて帰ってくる。もっとも、それを
聞くのがワシの楽しみでもあるがのぅ」
「でも、お姉さま。そんな話が出回っちゃったら仕事がしにくくなっちゃうんじゃないです?」
「余計なことを考える必要はないさ。そなたの舞は喜んで野郎共が財布を差し出すほどの魅力に溢れとる。だからワシの旅の供に選んだ」
「旅のお供、ですかーーあはは。そう、ですね……」
耳の前で結った髪をなびかせながら、紫の少女はふと目を伏した。つまるところ自分を連れに選んでくれたのは舞が上手いだけのことーーそれにひどく、抑えきれないもどかしさがにじみ出るかのように。
「さてーーそろそろ行くかのう。夜までには鞍原の街に着いておきたい。この時節、宿の心配はなかろうが祭囃子に集まる旅人を狙った野盗の往来もあろう。夜歩きは避けたい。ちと急ぐぞ」
「あっ、はい!」
そう言って立ち上がった黒白の刺々しい野花をまとう長い四肢の女ーー凛狐を見上げて少女、千狸は想う。
この人は世に妖しの術などあり得ぬと断言する。
しかし時折、この人の此処に在ることそのものが人心を惑わす魔の類なのではないかと考えることがある。
でなければ、かつて享楽で名高い遊郭街で随一の太夫を務めた才色と、頭の奥をたゆんと揺らすような笛の音の才能など両立しようものだろうか。
「千、何をしているかや。往くぞ」
声を掛けられて気がつけば、凛狐はすでに壺装束を着込んで杖を手に取ったところだった。
千狸も慌てて被衣を着込み、緑豊かな木漏れ日の揺れる街道へと消えていく背中を追った。
♯
古より続く列島国、統之国の東の山間に鞍原の城あり。
城下の小さな霊山に国造りの神を祀る山城の宮あり。
田植えの済む卯の月の終わりから十日ほど開かれる祈年の祭りの華やかさは諸国でも有名で、街道と山道に沿って吊るされる幾千の祭り提灯と火を灯された紅い灯篭とが放つ輝きから『星彩祭り』と呼ばれる。
夜通し消えることのない街の明かりと活気とが地上に降りた星の輝きに似る、小さな白夜を作ろうとしていた夕の入りの刻。
「うわぁ……すごい! とっても賑やかですね、お姉さま!」
行き交う人の流れもさることながら、軒を連ねる出店の数が街のはずれにある山城の大社まで誘うように続いている。
二人は安宿に旅装を置いて神社へと向かっていた。
「お姉さま! 金魚! 金魚すくいしましょ!」
「よせい、子供じゃあるまい。金魚に足元すくわれるのがオチじゃぞ」
「むぅぅ! そんなに急ぐ必要ないじゃないですか! 今日は舞を踊るつもりじゃあないんでしょう?」
「ああ、さすがにワシも歩き疲れたからのう。しかし今日は今日でまだやることがある。ワシもお前もじゃ」
「私も?」
くい、と大きな瞳をたたえた首が傾く。
「これから山城の神社で神主と巫女の笛と舞があるんじゃ。これが奥海舞踊でな、本家のものを見ておくのが後学になろうと思うのだ」
「あーっ! なるほど!」
奥海舞踊という流派は凛狐と千裡の使う舞の流派でもある。元々が神前で舞うものであり、それが大衆向けになったのはつい最近のこと。
宮で舞うものが本流ということになる。
「それに……ムヒヒ、巫女さんじゃぞ、巫女さん。もしかしたらとんでもない掘り出し物があるやもしれぬ」
「……あー……なるほど……」
そうだ、そうだった。この人が後学などという高尚なことに頓着するわけがなかった。
そちらの目的こそが主だろうと気づき、千裡は胸中で舌をうつ。
「所詮、巫女も顔仕事よ。家柄、仕事の出来は二の次で気立てのよさや容姿の良い女を重用することが多い。期待できるぞう、ウヒヒ」
「……お姉さま、悪い女色の顔になっていますよ」
「まぁ、そう邪険にするでない。この趣味はワシの旅の目的でもある」
口を尖らせる千裡をよそに、凛狐の邪悪な笑みは消えることがなかった。
山城神社への山道は意外と険しいものだった。
つづら折れの急峻な坂道を歩いて行き、山頂の鳥居と階段と灯篭が現れる頃には千裡の息は上がりかけていた。
歩調の早い凛狐に合わせて上がってきたせいだろう。何とは言わずもがな、可憐な女子との出会いへの期待から凛狐の足は踊るように軽い。
「笛の音が聴こえる。もう始まっているな」
頂上の境内には、分け入っていかなければならないほどの人垣があった。
あいや、失礼、と背の高い凛狐が先陣切って這入ってゆく後ろにぴたりと千裡が続く。
そして、なんとか前列へと出た。
「うむ……、千よ。ワシの予想は的中のようじゃ。すっごい美人じゃのう、あの巫女さん」
「はわっ!?」
数人の神主たちの笛の音に囲まれ、広大な境内の中央で扇子を手に舞を披露する女が一人。
額に汗しながら流麗な動きで人々の喉を唸らせる巫女装束の女は、両側に焚かれた松明の火に浮き上がる影絵のごとくであった。
動くごとに長い黒髪に差した玉かんざしを含めたいくつもの髪飾りが”瀟”と鳴り、恵体と長い手足の艶かしさを一層のものに仕立てている。
「ふぅむ、舞も見事なもんじゃのう」
「……っ」
ずきり、と胸の奥で何かが疼いたような感覚を覚えて千裡は小さな胸を押さえた。
「……しかし、なんじゃ。心なしかーー」
しばらく黙って見入っていた凛狐がふと、何か独り言をこぼす。
それにおずおずと千裡が振り向くと、すでに前列に凛狐の姿はなかった。
「え? あれ? お姉さま!? どこ?」
周りを見回してもあの高い背の姿が見えない。もとより男もたくさん居る集まりだ、さほど背のない千裡では見渡しようがない。
それからもしばらく巫女の舞を見ていた千裡も、置いて行かれた不安が大きくなって引き返そうとした、その時。
「……、これは」
人より耳の良いーーいや、舞踊の舞手として笛の音を聴き損じまいとする心的な耳が無ければ聞き取れないほど小さな旋律が、いつしか神主たちの笛に混ざっている。
抑揚からして凛狐のものに違いない。
そして、中央で舞う巫女もそれに気づいたのか、そこまで伏目がちだった瞳を瞠って踊りを続けた。
♯
盛況の内に幕を下ろした演舞の後、舞を終えた巫女の蓮花は、境内から社の裏手へと向かった。
「なるほど、さすがに良き舞手。耳が良いようじゃな」
祭りの喧騒から離れ、明かりのひとつもない小さな祠を囲う石垣に腰を据えていたのは、男言葉の背の高い女とおずおずした様子の少女。
いぶかしげに二人を見据える蓮花は口を開く。
「ーーどこの名の知れた奏者殿かは存じませぬが、神前の笛に混じるなどという罰当たりを宮の人間として許すわけにはいきません。幸い気づいたのは私ぐらいのもののようですから、早々にお引き取りください。でなければ人を呼びます」
「……罰当たり? くく、罰当たりか。かようなほど気落ちした顔で舞やら祝詞やらをあげるザマは罰当たりとはいわぬのかや?」
その言葉に蓮花の表情が強張ったのを凛狐は見逃さなかった。
「白粉と紅で顔は騙せても心は騙せん。流浪の身とはいえ、同じ奥海の舞の流れを汲む者として見過ごせぬ。良ければ悩みを話してみてはくれぬか」
心にも無いことをまぁよくも、と呆れたため息をつく千裡をよそに、飾り付けられた巫女は話に応じた。
「……『夜伽巫女』というのをご存知ですか?」
「うんにゃ、知らんせん。あいにくワシもこいつも生まれつき御神とは縁がなくてのう、神事には疎い」
「そうですか……。私たちの神社の連なりに古くからある慣習のようなものです。一定のお布施をいただいた殿方のお家に被衣と仮面を付けて行って……その、な、馴れ睦んで……ご利益のある力を授けるという祭式なのですが……」
赤面しながら説明する蓮花を見て、凛狐は一瞬だけきょとんとした顔になり、次の瞬間には腹を抱え、大の男もかくやという大きな哄笑をあげた。
「かっははは! まことか! なんと、神社殿も割合に浅ましい商売をするものよ! 花魁と何も変わらんじゃないか!」
「わ、笑い事ではありませぬ……! 私も納得できませぬが……、これも務めと割り切ってかかろうと腹を決めようと致しました。ですが……どうしても嫌なのです! 見知らぬ殿方と交わるなど……恐ろしゅうて、とても私には」
大きく笑った凛狐だったが、別段そのようなことが特別にあることだと腹の底では思っていなかった。
西から流れてくる異教にも『神聖娼婦』なる神の名を謳った売春商売があると聞いたこともある。遊女を生業にしていた自分からすれば、どんな高尚な理由付けがあろうと”雌として雄にすることをして金をもらうだけ”のこと。
しかし、それをしたくもない女に強要するというのは、どの世界においても酷なことに変わりはあるまい。
「お前と一緒ということじゃな、千よ」
「……そうですね。私も親元から遊郭に引き取られた身のところをお姉さまに助けられ、こうして旅をしているんです」
「そうだったのですか……」
「おぬしも何か、生まれつき神社の家というのではないな? 少なくとも神事に没頭して他のことを考える頭を失っているようには見えん」
「鋭いですね……。その通りです。申し遅れましたが、私の名は蓮花と申します。ここより南の街で廻船問屋の家の娘として生まれましたが……商売がうまくいかず父は借金を苦に自ら命を絶ち、母も病を患って死にました。母が死に際に、交易で繋がりのあった神社へ私を養子に出すよう取り計らってくれたのです」
「成る程」
「周りの巫女達は抵抗なく夜伽巫女としてやっていますが……私も今年で二十になります、こんな歳になっても夜伽に出掛けていないのはもはや私だけで……肩身も狭く……かといって神職を辞めるわけにもいかず困っているのです」
「や、わかった。ワシがなんとかしてしんぜよう」
はたと顔を上げたのは蓮花だけではなく、千裡もそうだった。
「そんな! 縁もゆかりもない御方に何か世話を焼いてもらうなど……」
「何、気にするでない。ワシ個人の想いじゃ。世の中には男なんぞに染められてはならん女の輝きというものがある。ワシはおぬしの中にその輝きが見えた、それだけの事」
にやり、と笑う凛狐の流し目の鋭さと艶やかさに、思わず蓮花は息を飲んだ。
この人は本当に女か?
いや、それとも凄腕の絵師の描いた人間がまかり違って魂を得てこの世を出歩いているのではないかと。
「簡単なことじゃ。それに、おそらく今より巫女として高い位になること請け負いじゃて。それでもよいかの?」
「は、はぁ……しかし、どうやって」
「方法についてはワシに任せい。さて、この宮で一番階位の高い神主ーー宮司は誰かの?」
♯
宿への帰り道、凛狐の背を追って歩く千裡は複雑な思いで細長い背丈を見つめていた。
「くふふふ、僥倖、僥倖。早くもかあいい巫女さんを手篭めにできそうじゃぞ」
「……でも、一体どんな手を使うのです? あの巫女様が夜伽に出掛けなくてもよくなる方法って……」
「簡単なことじゃーーおっと、そこの御仁。その狐のお面をくりゃれ」
へい、と街道にお面の出店を出していた男に駄賃を渡して狐の仮面をひょいと掴むと、凛狐は横顔に紐で結びつけた。
「そんなことより祭りじゃ、祭り! 水風船! イカ焼きに焼き鳥! 遊ぶぞぅ千裡よ! 金魚すくい対決じゃ!」
「んもぅ……金魚に足元すくわれるんじゃなかったんですか?」
「なに、先にすくい取ればすくわれることもあるまいて。ほら、座れ座れ!」
あからさま高揚している凛狐にため息をつきつつ、気を取り直した千裡は「……よーし!」と店主から渡された、吹けば穴のあきそうな紙の網を握った。
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山城神社の十三代宮司『鞍原山城之守善助』の居所は山城のお山の裏手にひっそりとあった。
祭りの始まって三日目の神事を終えて浴衣に着替えた善助の下に奇妙な客が通されたのは根の刻過ぎという頃になってからである。
白い佩刀を門番に預けて上がってきたのは旅の医師を名乗る、狐の仮面と紫の被り布とを着た女であった。
その者のろうそくの灯りに揺れる畳の部屋に鎮座する姿は、まこと異様な呪術師のようであったとのちに善助は語る。
「さて、旅の薬師どの。この宮の存続に関わる重大な問題とはいかようなことか、単刀直入に聞こう」
「はい、簡単なことで御座います。あの蓮花という巫女ーーあれを神職から外した方がよいでしょう」
「なに?」
ぴくりと善助の肩が動いた。
「その訳は?」
「当人の希望でわたくしが極秘に病気の診察を致しましたところ、重篤な疾患が見つかりました。すなわち、生まれついての”花柳病”でございます」
「花柳病……とな?」
「恐れながら。殿方と交わることによってのみ広がる病でございますれば、風の噂に聞く『夜伽巫女』という風潮のままに蓮花殿を夜伽のお勤めに駆り出しますと、この病が街中に広がることでしょう。宮から病が広がったとあっては御所の名折れ。我ら医を志す者としても望むところではありませぬ」
「なんと……、まことであるか。にわかには信じがたいが」
「ご存知ないのも致し方ありませぬ。このあたりには清らかな山水が豊富に通じ、清潔が保たれておりますれば。他国などへ行けば、村ひとつがそれだけで立ち消える大病になる恐れさえあることが分かりましょう」
「ううむ……なんとかして治す方法などはないかや?」
面の下でにやりと口元が笑う。
「残念ながら、現在の薬では難しいでしょう。生まれついてから死ぬまでに治ることのない不治の病の類です。しかしーー交わらねば決して罹ることはありません。本人もそのことが気がかりで夜伽には加わらなかったと申しておりました」
「……左様、か。相分かったーーしかし、蓮花は我が宮の顔として人気が高い。神職はそのまま、夜伽は避ける役職に就けよう」
「その後の処置はそちらで考えていただければ結構です。決して夜伽だけには出さぬように。よろしくお頼み申し上げます」
「……え、えーと。ちなみにもし交わってしまうとどうなるのだね?」
「殿方の”お殿方”が三日三晩、焼き印に当てられたように痛み出し、しかるのち爆発四散します」
「ぎゃああああ!」
何を想像してか、股ぐらを押さえて転げ回る宮司を見据えて凛狐は「男はこれじゃな……」と小声で嘆息した。
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街の外れにある小さな神社でろうそくに火をつけて正座していた蓮花の後ろから戸を叩く音が聞こえた。
錠前を外して開けた先には、凛狐。
「ふふ。案の定うまく行ったよ。あとは明日を待つだけだ」
風に乗るような軽い足取りで堂内に入り、神前であぐらをかいて座ると、蓮花も横に腰を下ろした。
「……本当に、夜伽に行かなくて済むのですか?」
「なんじゃ、今になって悩むのかや?」
「……そう、ですね、少し……。貴女には感謝しますが、私個人の望みで仕事を他の巫女に預けてしまったような形は……どうも傲慢な気がしてーー」
蓮花の言下を、凛狐の唇が遮った。
一瞬なにが起こったか分からなかったが、目の前には凛狐の顔がある。手で頭を寄せられ、口づけされているのが分かったのは少しの間、互いの香りを共有してからのことだった。
「ん……ふぁ、凛狐、さまーーいけません。こんな……女同士で……ご神前で情事など、と……」
たゆんとした目で正面に映るのは、男よりも精悍で、女よりも儚げで、そのどちらよりも悪さを企む子供のような美貌。
自分をどこか遠くの世界へ連れて行ってくれるかもしれない。そんな淡い幻想さえ抱かせるーー美貌。
「そなたは美しい」
頰を細長い指が這い、耳元で水連のような香りがささやく。
「わたしのものに、なれ」
「ーーはい……」
草木から露の滴る日の上りきらない朝方、山沿いにあった小さな神社の祠から着乱れた衣を直しながら、凛狐が顔を覗かせた。
「まって……凛狐さま」
「ん、起きたかや。急がずともゆっくり休んでいくがよい」
「私、決めました。凛狐さまの旅のお供にしてください!」
へ? と一瞬だけ惚けた顔を見せた凛狐だが、ほとんど裸のままこちらに歩み寄ってくる蓮花の肩を支えると、乱れていた巫女服の襟を正しながら言った。
「そなたは母君の残してくれた場所でまだやることがある。おそらくこれから巫女長の任がお前に下るであろう。しっかり勤めを果たすのじゃ」
「そんな……そんなこと、関係ありません! 操をささげたお方と、ずっと一緒に居とうございます……!」
「一夜限りの衝動は朝までじゃ。昼までひきづると身を滅ぼす。お前はまだまだ経験がないだけじゃ、今ワシらに追いてくればきっと後悔する」
「でも……でもぉっ」
えっ、えっ、と遂に泣き出す蓮花の頭を抱き、凛狐は自分にはない、まっすぐで長い髪を優しく撫でる。
「案ずるな。近い将来、いずれワシはお前の力を借りにくる。その時からはずっと一緒じゃ」
「ほんとに……本当にでございますか……?」
うむ、と笑顔で強く頷いてやる。
「その時をお待ちしております。ずっとーーずっと」
♯
その日は蓮花にとって勤めの日であったが、今まで生きてきた中で最も短い一日であったような気分だった。
朝からふらふらだった頭がふと正常に戻ったのは昼を過ぎてからのこと。
何やら神主が巫女長への格上げや、夜伽巫女の免除について話していたような気がするがまったく頭に入っていない。
今日は舞の当番でもないし、不思議と夕方から暇を出されている。
ずっと頭にあるのはーーやはり、凛狐のことだった。
「……やはり、付いていこう」
悶々と考えること半日。決心を固め、旅装と荷物をまとめるまでのところに来た。
もはや引き返せない。
若さと言われてもいい。この気持ちに逆らうことができない。
意を決し、夜の街へ出て、凛狐たちが下宿している先へと向かったーーその道中のことだった。
「……っ! この笛の音は……」
祭囃子の提灯に彩られた街道の真ん中、やや後ろに立つ凛狐の笛の前で踊るのは、あの千裡という少女。
一言で言うなら、その舞は衝撃であった。
同じ奥海舞踊、振り付けや足運び、型などは小さな差はあれ大方は変わりない。
違うとすれば、神前にて神へ備える供物であるか、見る人の目を楽しませようとするかの目的と意思の差。
このただ一点のみの違いが、蓮花に感じたことのない寒気を与えていた。
目配せ、表情、動きの緩急ーー愛嬌というべき機微が追加されたそれはひどく人間的で、まるで自分が今日まで極めて絶対の自信を持ってきたものがひどく無機質でくだらないものにさえ思えてくる。
「……そうですか。凛狐さまがお連れするのも頷ける、とてもかわいらしいお供さんなのですね」
ひょんひょんと跳ねる結んだ二つの前髪に、輝くような笑顔と柔軟さ。額に汗してもすべてが画になる可憐さとが相まって、決して作り物の愛想ではないと感じさせる演武は間違いなく天賦の才によるものだろう。
それに加えて凛狐の笛。
なるほど、これには付け入る隙などない。
「見事なものだなぁ。こりゃあ妖術と言われたら信じるしかない」
「ほ、惚れちまっただ……あの笛の姉さんの凄みによ」
「いんや、舞ってるおなごの方がすんげえかわいいっぺ!」
舞の終焉。拍手喝采に包まれ、充足感に笑顔をこぼす凛狐と千裡を見届けてから、蓮花は来た道を後にした。
今は自分の役割を全うしよう。
あの人が自分を必要として迎えに来てくれる、その日までーー
♯
雲ひとつない春先の夜空に三日月の浮かぶ蒼い夜。
ふと、障子の合間から漏れ入る月明かりに目を覚ました千裡は起き上がり、縁側へと抜け出た。
そこには一人、立て膝で座り込んで夜の庭園を眺め見する凛狐が居た。
「……ん? 起こしてしまったかや。悪いな」
「いえ、そんなことは。何を見てるんですか、お姉さま」
「んむ、良い月の夜だ。ふと何の気なしに昔を思い出して寝付けぬでな」
あの舞のあと、演舞を見ていた地主の男に見初められ、食客に招かれて安宿を引き払い、今は街の中にある大きな屋敷に寄宿している。
「思い出すのう。お前を引き連れて比米良の遊郭を出た初日もこんな夜じゃった。お前もワシも修行の身で、金もすべて遊郭へ放免のため上納して一銭もない野宿で」
「ええ……でも夜のことは覚えてませんよ。これから先のことが不安で寝付けなかったことぐらいしか……」
遊郭一の遊女ーー太夫を務めていた凛狐が私財を投げ打って千裡と共に遊郭を抜け出たのが二年前である。
なぜ自分であったのか、その理由を凛狐がはっきりと話してくれたことはまだない。
ともかく、その時に凛狐が語った旅の目的を聞いた時は、あまりの途方のなさに耳を疑ったものだった。
「”芸者の旅をして金を稼ぎながら女を集めて自分の後宮を持ちたい”だなんて……それはそれは不安で眠れなくもなると思いませんか?」
「そうか? ワシはその時から確信しておるからなんとも。お前とワシなら必ず成就できるとな」
女なのに女の後宮とは、とも思うが、太夫として数限り無い男を手のひらで遊ばせてきた凛狐からすると
「野郎の相手は飽いた」とのことらしい。
それで今はめぼしい女に”あたり”を付け、しっかりと準備が整ってから召集する算段をしているところだ。
「どれ、眠れぬならひとつ舞でもしようか。客がおらんのはあいにくじゃが、こんなに風情のある庭で踊る機会は中々なかろう」
「……そうですね。さっき納得いかなかったところの振り返りもしたいですし、おねがいします」
そう言うと千裡は扇子を持ち、裸足に藁草履を履いて白い庭石を踏み凛狐の正面に立った。
ほどなくして凛狐の笛が始まり、導かれるように舞が始まった。
松の葉を揺らす宵の風が春の生気を孕んだ香りを運び、池に浮かぶ湖月をなびかせる。
笛の音の抑揚に合わせ、千裡は目を閉じる。まぶたの裏に映るのは、山城神社で見た蓮花の舞だ。
千裡にとってはあれこそが衝撃だった。
凛とした視線の据え方。寸分違えぬ正確な舞踊。指先、扇の骨ひとつひとつに至るまで神経の通ったような力強い、鬼気迫るしなやかさ。
同じ流派、同じ舞なのにここまで差が出るものかと思い、あれから何度となく夢想しても一向に近づける気がしない。
蓮花が自分に持っていないものを持っているのは明らかだった。
それにーーお姉さまとも
「ーー……っ」
ふいに手を止めた千裡に、しばらく吹き続けていた凛狐もやがて笛を止めた。
「どうした?」
「……お姉さま……なぜ私なのですか」
目を伏せる千裡に、凛狐は珍しく驚いた顔を向ける。
千裡の声は、震えていた。
「帰ってこなかったあの一夜……蓮花さまを愛でていらしたのでしょう? あの方の舞は、私に真似できないほどすばらしいものでした……ならば、お姉さまは蓮花さまとこの旅をするべきです」
「……千」
「どれだけあなたのことを想ってもーーあなたは私に触れてもくれない! あの遊郭で出会った最初の日以来、ずっと……私はずっとあなたを待ち焦がれているのに……っ! それならいっそーー蓮花さまとずっと一緒にいればいい!!」
千裡にとっての初夜は、遊郭で性技を学ぶために凛狐と相手をした最初で最期の夜だった。
あれ以来、凛狐は夜の千裡に見向きもしない。その分をよそに晴らすかのように後宮候補の女を探す日々である。
「……そんなことで悩んでいたのか、お前は」
「そんなことじゃあーーないんですよぅ……!」
顔を押さえて涙を流す少女の肩を抱き、凛狐は縁側のふちに座らせてしばらく落ち着くまで背中をさすっていた。
「蓮花にも言うたであろう、覚えているか?
世の中にはな、男などにーーましてやワシごときにも染められてはならぬ女の輝きというものがあると考えとる。お前にとってのそれは舞に浮き出る『純潔』の心じゃ。
邪な情欲を知らぬ、高嶺に咲く一輪の風に揺れるがごとき儚さと無垢なる気高さ。それがおぬしの舞のなによりの持ち味じゃ。蓮花は色に怯えたままでは強くなれぬだろうという才の持ち主であり、お前は純潔なままの今が一番輝いている、というワシの『見抜き』だ。それを疑うのか?」
ぶんぶん、と首を振るう千裡。けれど。
「けれどーーそれでは、さみしすぎます……」
「……はっは! 寂しいか、それは大層な問題じゃな!」
「あの……笑い事ではーー」
「ああ、笑い事ではないさ。唯一ワシが惚れた女がワシの手から離れる一大事らしいからのう」
「ーーえ?」
「……昔、名うての占い師に告げられたことがある。ワシの身には周りの人間の情欲を掻き立てる魔物が取り憑いておる。ひとところにおれば周りの人間に災いをもたらすと」
「ゆえに、旅を?」
「ふふ、それではないさ。旅の本懐は言うた通り、欲望のままに後宮を作りたいというだけの事。
要はなーーワシはこの通り、人の恋慕を集めるのが多い女じゃ。少し押すだけで男も女も数多く泣かせてきたが、唯一ワシを心の底から泣かせ惚れさせたのはそなたの舞以外に何もない」
ここまで言い切る以上、この人の言葉に嘘偽りはない。かつてなく真っ直ぐに自分をみつめる視線とも相まって、それだけは信じる事ができた。
「そしてその唯一惚れた女がワシに放っておかれて寂しいという。けれど何者にも染められるべきではない舞にワシの色が入るのは心苦しい。
ならば最後に問おう、千裡よーーお前は一体、”どう”なりたい」
「私はーーあなたの”色”に染められたい」
迷いはなかった。
もとよりこの舞の技も凛狐の目を引きたくて磨いた身。
それだけでーーこの一夜のみで凛狐の言う純潔の才が散る定めだとしても、本望だ。
「……やれやれ、強情なやつじゃのう。ならばその意志に応えねばならん。だが、後悔するなよ? ワシの色は少し刺激が強いぞ。なにせお前が相手では抑えが利かぬからなーー」
言下、凛狐は千裡の頭を抱き寄せ、凄絶な笑みを月下に浮かべた。
待ち望んだ禁忌の恋と恋。
たとえ互いの未来の芽を詰む一合だとしても、二人にその運命を止める術はなかった。
ってなわけでどーもどーもすいませんねいつもいつも。伊藤紙幣と申す者です。
今回のテーマは百合×和風ファンタジーということでだいぶサクッと書かせてもらっちゃいましたけども。
百合がそもそも男性にとってのファンタジーだっちゅうのにこの上書いたこともない和風異世界でそれをやるってんだからもう大変!
百合ってそもそも何? ってとこからいろいろ勉強し出すにあたりたくさんの人からアドバイスをいただきまして、かろうじて形になったりならなかったりしました。
拙作も拙作ながらここまで読了いただきましてありがとうございました!
それではまた次回!