静憐
海原を駆ける一隻の船があり、若い医者が乗っていた。
遠い地の疫病に苦しむ人々を救いたいと、とうとう海を渡る決意をした。生まれ付いて誠実で勤勉、こうと決めたら譲らない性格がゆえに、年頃で才能があるにも関わらず、妻も恋人も居ない。
彼が船室で母への手紙をしたためていると、慌てたような、どこか困ったふうな様子の水夫がノックもせず飛び込んできた。
「先生、すぐ来てください。そのう……女の子を拾ったんで」
奇妙な言い回しだと思ったが、彼は大急ぎで甲板へ駆け付けた。
娘は甲板上で一糸纏わず横たえられていた。不思議にやや青みがかった黒髪と、透けるような白い肌を持っていた。
脈も呼吸もあり水を飲んではいなかった。ただ体温が低く、上着を脱いでその体を包み込んだ。それから医者は遠巻きに見ていた水夫たちに言った。
「君たち、溺れた人の応急手当くらいはできるだろう? 黙って見ているとは、どういう了見なんだ」
これに濡れそぼった水夫がもごもごと答えた。
「いや、それが先生、妙なんでさ。ここはもうずっと陸から離れてますな。じゃあどっかの船が難破したんだろうと思いましょう。ところが、あたりにゃ木切れだとか樽だとか、そういうモンが一切ねえんです。そりゃおれたちは大慌てで引き上げましたけれどね、考えてみりゃ怖ろしい事です」
「一体どういう意味だ?」
「もしかするとセイレーンかもしれねえって事ですよ」
別の水夫が続けた。
「先生は知らねえと思います。セイレーンってのは美しい女の格好をして、それはもう堪らない声で歌うんですが、姿を見て歌を聞いた奴ぁ狂っちまうんです。そうやって船を沈める怖ろしい化け物なんです」
その言い草に、医者はムッと眉をひそめた。
「君たちの信心深さは常々尊敬しているよ。じゃあ、この子をまた冷たい海に放り出すといい。そうなれば一緒になって飛び降りてやる。なぜならぼくは医者だからだ。迷信を頼りに非道な行いをする連中は我慢ならないからだ」
言い切って、娘を抱え上げると部屋へ運んだ。
水夫たちはばつが悪そうに顔を見合って、それからそれぞれ持ち場に戻っていった。
医者は娘を手厚く看病した。夜も寝ず、かじかむ手をランプで温めながら。
そうした甲斐あって到着直前の朝、娘はやっと目を覚ました。医者はすぐ声を掛けたが、大きく深い青の瞳を瞬かせて、じっと見返すばかりだった。
「ああ、よかった。耳は聞こえるね。口が利けないのかい?」
そう問い掛けて、ようやく一度頷いた。医者は微笑んだ。
「なるほど、君は本当にセイレーンかもしれない。それでも、きっとあの頑なな水夫たちも態度を改めてくれるだろう」
到着してすぐ医者は疫病の研究に取りかかったが、同時に、手筈通り宿を借りた領主へ無理を言って、屋敷に娘の分の部屋も借りた。研究の片手間と言わず、ほとんど同じだけの労力で娘の家族を探した。
口を利けず字も書けない娘のために、方々歩き回りあちこちへ書簡を出してまで、近頃難破した船はないか、行方知れずの娘を探している者は居ないかと探したが、手掛かりを得る事はなかった。
「もしかすると身売りに出され、船で運ばれるところを逃げ出したのではないか。だとしたらなんと可哀想だろう」
一年を経ち、医者はそう納得して娘に問いただす事をせず、また娘の事情を探るのもやめた。
決してあきらめたのではなかった。今、娘が幸せであり、自分が幸せであるならば、それでよいではないかと思い直したのだった。
娘はまるで生まれたばかりの赤ん坊のようで、何事にも好奇の眼差しを向け、驚き、そして声なく笑った。医者はどうしようもなく疲れ、やるせなさに足を取られ、心がささくれ立ちやり場のない怒りに拳を握る時、そんな娘を見て穏やかな気持ちにさせられる。理想と違い人を助ける事よりも、人の死を看取る事が多い仕事にあって、何ものにも代えがたい支えになっている。
愛していたのだった。
「名前も素性も知らないけれど、それよりもっと素晴らしいものを知ってしまった。どうかこのぼくの伴侶になってくれないか。どうか人生の素晴らしさを教えてくれないか」
ひざまずいて求婚すると、娘は驚きつつ赤面し、ややあって医者の手を取った。
二人の結婚は祝福に包まれていた。誠実な夫と純真な妻に領主夫婦は大いに喜び、ささやかながら祝いの席を設け、海辺に小さな家を与えた。
そして初夜。娘は窓辺で、星々のきらめくさざ波を見詰めていた。
「どうしたんだい? こんなに輝かしい夜なのに、そんなに浮かない顔をして」
医者は屈んで娘の手を握った。娘は小さく首を振り、初めて口を開いた。
「わたしは今夜を、あなたと伴にする事ができません」
医者は驚いて聞き返した。しかし娘はすぐには答えず、医者の手を引いて家から連れ出した。
浜辺の波打ち際を歩き、あるところまで来ると、医者の胸に擦り寄って涙を落とした。
「わたしは悪い娘なのです。夢を見てふる里を逃げ出してしまいました。けれど、婚礼をするのなら、わたしは父と母に許しを請わねばなりません」
「そうだったのか。それで、君のふる里は遠いのかい? いや遠くても君と添い遂げられるならば、ぼくはどこにだって行けるよ」
「いいえ、わたしは深い深い海の底、潮の王たる父と生命なる母とに生まれました。あなたを連れては行けません。それに、父母の元へ行くには時間がかかってしまうのです」
娘は体を離すと医者の手にいくつかの宝石を握らせた。
「これはわたしの涙です。これを繋いで身に付けてくれている限り、きっと道しるべになって、あなたのもとに帰る事ができるでしょう。けれどわたしの涙は海にとけてしまいますから、決して海には浸さないでください。そしてその約束を守っていただけたら、きっと父も母も、あなたの誠実さとそんなあなたを愛した事を認めてくださるでしょう」
娘は後ずさって、足を、膝を、胸を海に浸していった。
「きっと、きっと戻って来るのだね? 待ち続けてもいいのだね?」
「はい。きっと、きっと」
そう微笑んで、娘は夜の海に沈んでいった。
それから医者は海辺で娘が帰るのを待ち続けた。
失意に打ちひしがれた彼は、より一層医学に打ち込んだ。恐れを知らぬ懸命さが実を結び疫病の治療薬を作り出すに至った。夢を叶えたのだが、医者は満足しなかった。国王さえ彼を褒め称え、宮殿に招かれ住み込みの主治医にと推挙されたものを、頑なに拒むほどだ。
海辺の小さな小さな家で、一年、また一年と過ぎ行く歳月を数えていた。医者にとって海原の姫君をめとる事が、何よりの大きな夢になっていた。
けれども、十年の月日が経っても、娘は戻って来なかった。
医者はとうとう寂しさに耐えかねて、忘れもしないあの夜、娘が消えた海に飛び込んでいた。今、すぐそこにでも、娘がやって来ているではないかと思ったのだった。
そして、はっと我に返り自らの胸をまさぐった。そのポケットには娘の涙を繋いでいた鎖だけが入っていた。
一際に強い波に押し返され、医者は泣き崩れた。
「ああ、なんとばかな事をしてしまったのだ。ああ、どうか君の涙の代わりに、ぼくの涙をたどって来てはくれないか。どうかこの愚かな涙を憐れんではくれないか」
嘆き悲しみしたたり落ちる男の涙は、ただただ波にさらわれてゆくのだった。
原作:Nekota (@nekossories) 「哀憐」
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