秋田犬に会うために秋田県へ行く女性の話
「迎えはえっつってらだべ。いま新幹線だんて電話切るよ」
周りの迷惑にならないよう新幹線のデッキで通話していた俺は、ため息を吐きながら通話終了ボタンを押した。秋田駅行の新幹線こまち号は平日ということもあって乗客が少なく、幸いなことにデッキを通った乗客は誰もおらず、俺と母親の口喧嘩が聞かれることはなかった。しかし電話を終えても尚、母親からメッセージが届く。
『田沢湖駅に着いたら連絡してください。お客様と一緒に送迎車で送ります』
「だから迎えは……ったく相変わらず心配性なんだから」
『分かったよ』と返信して、座席に戻って新幹線の窓に移りゆく景色をぼんやり眺める。
俺の実家は旅館を営んでいる。
一日に数名程度しか泊まることのできない小さな旅館である。現在は父の跡を継いだ母親と妹の二人で経営しているが、人手不足で客への対応が追い付かず、俺は長年勤めていた会社を辞めてその旅館を手伝うことにした。
実家のある秋田県へ帰省するのは都内に上京して以来、十数年ぶりだった。それまで仕事を言い訳にして一度も帰省しなかった。それもあって実家に帰るだけなのに少しだけ緊張していた。
「あのぉ」
突然、通路を挟んだ隣の座席から女性が身を乗りだして声を掛けてくる。白いロングスカートにデニムジャケットを着こなすその女性は、付箋が貼られた旅行雑誌を抱えていた。さらに座席横にはキャリーケースが置かれているあたり旅行客のようだった。
「す、すみませんさっきから溜息ばかりで不愉快でしたよね。もしかして電話も煩かったですか?」
「そういう理由で声を掛けたのではなくて、あ、でもお母様とは仲良しなんだなって思いました。喧嘩するほど仲が良いという諺を体現していて少し笑っちゃいました」
新幹線のデッキから座席まで距離が近いからと言っても、まさかそこまで声が漏れていたとは思わず、羞恥心と自責の念に苛まれる。
「……お恥ずかしい限りです。それじゃあ俺に声を掛けた理由って何なのでしょうか?」
そう訊ねると女性は、発言を躊躇いながらも決意を固めて俺の目を見据える。
「電話を盗み聞きしていた上、大変失礼なことを申し上げることは重々承知しておりますが、お兄さんは秋田県出身ですよね?」
「へ?」
「ほら、電話口で方言を喋っていましたので、「迎えはえっつってらだべ」でしたっけ?」
「確かに秋田県出身ですが、恥ずかしいので真似しないでください!」
「やっぱりそうでしたか! 初対面でいきなりこんなこと言うのも恐縮ですが、実は秋田県出身のお兄さんにご相談がございまして……」
話を聞くとその女性は一人旅で秋田県を訪れるということだった。そこで秋田県の観光地を調べていたが、目的地までの距離間や時間配分が分からなくなり、行きたい場所を旅行スケジュールに書き示しているものの、一日が二十八時間あっても足りないくらい予定を詰め込まれていた。
「実は私、秋田県へ行くのもそうですが一人旅も初めてなんです。旅行自体は定期的に友人と行っているのですが、今までは友人が観光地を調べてスケジュールを組んでくれていたんです。さらに現地までの交通手段や旅館までも予約してくれていたので、自分で調べて計画を立てるのがこんなに難しいとは思いませんでした」
「初めての一人旅なのに、どうして秋田なんですか?」
初めての一人旅なら、まずは近隣県など近場の観光地から始めるべきだと俺は思った。一人旅の初心者が秋田県へ行くのはハードルが高いのではないかと思ってしまう。しかしそれを聞いた途端、女性の目が輝き始めた。
「秋田県は素敵なところがいっぱいあるんですよ!」
その熱量に思わず身体を引いてしまう。
「まず私が行きたいのは「思い出の潟分校」。廃校になった湖畔の小学校を活用した観光施設があるのです。ノスタルジックな美しい学校の風景を一眼レフに収めたいんです。次に「湖女神のたつこ像」。美しい広大な湖はもちろん、金色に輝くたつこ像をこの目で見てみたいのです。他にも美味しいきりたんぽ、お米、野沢菜! もちろん乳頭温泉も欠かせないですよね」
まるで遊園地のパンフレットを広げる子供みたいに、旅行雑誌を広げながら彼女は楽しそうに語りだす。雑誌に貼られている付箋には現地で何をしたいのか具体的に書かれていた。その楽しい気持ちが伝線して、聞いている俺自身も楽しくなってくる。
「ですが、私には秋田県へ行くことを決意した最大の理由があるのです」
「その理由とはいったい……」
彼女はスマホを取りだして一本の動画を再生する。そこに映っていたのは人気アイドルのようにチヤホヤされている大型犬。地面に寝っ転がってみんなに撫でられている。
「これは……秋田犬?」
「そうなんです! 私が秋田県を旅先に選んだ最大の理由は、秋田犬へ会いに行くためなんです。秋田市には「秋田犬カフェ」があって、お茶をしながら秋田犬と触れ合うことができるのです。もふもふした毛並みを撫でたくて夜も眠れないくらいです。そこに行くのをずっと楽しみにしているのです」
彼女は愛おしそうに秋田犬の動画を眺めている。
「だから私は初めての一人旅であっても秋田県を選んだのです。もちろん旅行に対する不安だってあります。ですがそれ以上に秋田犬に会いたい気持ちが上回って私をここまで連れて来てくれたのです。「秋田犬に会いに秋田県へ行く」それこそが私の旅のテーマです」
「ふふっ」
「あ、いま馬鹿にしたでしょう」
「馬鹿にしたわけではありません。ただ、俺が間違っていたなと思っただけです。初めての一人旅なら秋田県なんかではなく、もっと近場で良いのではないかと内心思っていました。ですが旅行とはそういうものではないですよね」
何のために旅行をするのか。その旅先で何がしたいのか。 『一人旅』というのはあくまで結果の話である。その結果に囚われすぎて本質が見えていなかった。
「そういうことでしたら微力ながらお手伝いさせていただきます。あくまで助言として受け取ってくださいね。十和田湖へ行くならまずは――」
それから田沢湖駅へ到着するまで、女性が巡りたい観光地をピックアップし、その交通手段や移動時間を調べながら旅行のスケジュールを完成させたのであった。田沢湖駅へ新幹線が到着すると、龍神伝説の龍のオブジェがお出迎えする。駅構内の写真を撮影する女性に、俺は自販機で買った飲み物を手渡す。
「そんな悪いですよ! 旅行スケジュールのみならずジュースまでご馳走になるなんて」
「どうか受け取ってください。秋田県をこんなにも楽しみに旅行してくれることが嬉しくて、同時に誇らしく思いました。俺自身、会社を辞めて実家の手伝いをすることに気持ちが揺らいでいましたが、お姉さんのおかげで覚悟が決まりました。これはそのお礼も兼ねてます」
女性はジュースを受け取ると嬉しそうに笑みをこぼした。
「旅行スケジュールは途中で目的を変更したり寄り道したって良いんです。それが旅行の醍醐味ですからね」
「ありがとうございます。いっぱい満喫してきます!」
手を振りながら去って行く女性を見送り、俺は母親に連絡をする。駅前のロータリーに一台の車が止まっている。幼い頃から見慣れた送迎車である。そこで母親は宿泊客の接客をしていた。
その宿泊者は白いロングスカートにデニムジャケットを着こなす女性で、付箋が貼られた旅行雑誌と、旅行スケジュールが記入されたメモ帳を大事そうに抱えていた。




