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物集院秋津シリーズ

羅生村の鬼・裏

作者: 秋月恒一
掲載日:2026/08/15

『羅生村の鬼・裏』



第一章 物集院邸



 東京市本郷区。

 物集院家本邸。

 梅雨の名残を含んだ風が庭木を揺らしていた。

 物集院綾乃(もずめいんあやの)は書庫の整理を終え、廊下を歩いていた。

 すると女中が静かに頭を下げる。

「綾乃様。春雅様がお呼びです」

「兄様が?」

 綾乃は少し首を傾げた。

 春雅が自ら呼びつける時は大抵ろくでもない。

 秋津に関することならなおさらだ。

 綾乃はそのまま二階の書斎へ向かった。

 ノックをすると、

「入りなさい」

 落ち着いた声が返ってくる。

 扉を開く。

 広い書斎の中央で、物集院春雅(もずめいんはるまさ)は机に向かっていた。

 書類の山。

 文部省の封蝋。

 全国から集まった報告書。

 その中心に座る姿は、もはや学者ではなく官僚そのものだった。

「お呼びですか、兄様」

「座りなさい」

 綾乃は向かいの椅子に腰を下ろした。

 春雅は一枚の書類を閉じる。

「秋津から報告が来た」

 綾乃は思わず苦笑する。

「無事だったのですね」

「残念ながら」

「兄様」

「事実だ」

 春雅は真顔だった。

「私としては、もう少し危機感というものを持ってほしいのですが」

「無理だろう」

「でしょうね」

 兄妹は同時にため息をついた。

 しばし沈黙。

 やがて春雅は机上の一冊を指先で押した。

 帳面である。

 羅生村から届いた報告書だった。

「事件は解決した」

「去年の秋の鬼騒動の件ですね」

「ああ」

 春雅は頷く。

「誘拐事件は解決した」

「犯人も逮捕された」

「村の因習も暴かれた」

 一拍置く。

「だが、終わっていない」

 綾乃の表情が変わった。

 春雅がこう言う時は、決まって人間ではない。

「何が残っていますか」

 春雅は引き出しを開いた。

 中から一枚の写真を取り出す。

 古びた鬼面。

 裏に文字。

 久坂。

「これだ」

 綾乃は写真を受け取った。

 見た瞬間、眉がわずかに動く。

「……残っていますね」

「わかるか?」

「ええ」

 写真越しでも嫌な気配が伝わります、と綾乃は答えた。

 春雅はゆっくり背もたれに身を預けた。

「鬼守縁起は秋津が持ち帰った」

「ならば怪異の核は失われたのでは?」

「大部分は」

 その言い方に綾乃は目を細める。

 春雅は静かに続けた。

「縁起は原因」

「そして面は器」

「長年村人が恐れ、憎み、崇めた結果、あれ自体が依代になっている」

 綾乃は写真から目を離さなかった。

「放置すると」

「再び集まる」

 春雅は即答した。

「十年か」

「二十年か」

「あるいは百年か」

「いずれ同じことが起きる」

 そして春雅は指を組む。

 その姿は当主代理としての顔だった。

「綾乃」

「はい」

「あれを回収してきなさい」

 命令だった。

 相談ではない。

 依頼でもない。

 物集院家次期当主としての決定である。

「承知しました」

 綾乃は苦笑した。

 その時だった。

 春雅は窓の外へ視線を向けたまま、ぽつりと言った。

「……本来なら私が行くべき案件だが」

 綾乃は黙る。

「ですが役所が私を放さない」

「今は動けない」

「だからお前に任せる」

 その言葉だけは命令ではなかった。

 当主となる男の信頼だった。

 綾乃は静かに頭を下げる。

「お任せください、兄様」

 春雅は頷いた。

「まずは一葉館へ行くことだ」

 綾乃は顔を上げる。

「兄様のところですか」

「ああ」

 春雅は机上の報告書を軽く叩いた。

「鬼守縁起の現状を確認」

「秋津の報告では問題ないとのことだが」

「兄様の報告だからですか」

「秋津の報告だからだ」

 即答だった。

 綾乃は思わず苦笑した。

 物集院家の人間は皆、秋津の性格をよく知っている。

 秋津は嘘をつかない。

 だが興味のないことは驚くほど見落とす。

 そして興味のあることは驚くほど掘り下げる。

 非常に面倒な人種だった。

「鬼守縁起は怪異の大本だ」

 春雅は続ける。

「報告通り力を失っているのなら問題ない」

「だが、万一にも残滓が残っていた場合、話は別になってくる」

 綾乃は静かに頷いた。

「確認後、羅生村へ向かいます」

「そうしてくれ」

 春雅は指を組む。

「それと」

「はい」

「秋津には余計な説明をしなくていい」

「聞かれたらどうしますか」

「適当に誤魔化すんだ」

 綾乃は吹き出しそうになる。

 春雅がここまで言うのは珍しい。

「兄様も苦労なさっているのですね」

「私だけではない」

 春雅はため息をついた。

「父上も母上も」

「綾乃、お前もだな」

「それは否定できません」

 兄妹は顔を見合わせた。

 そして春雅は珍しく微かに笑う。

「もっとも」

「折口君がいるので、以前よりはましになったようだが」

 綾乃は少し意外に思った。

「そうお考えですか」

「ああ」

 春雅は当然のように頷く。

「兄様は昔から他人に興味がありませんでした」

「ですが折口さんの話だけは別です」

「手紙にも名前が出てくる」

「報告書にも出てくる」

「それだけで十分異常です」

 綾乃は思わず視線を逸らした。

 実のところ、それは自分も気になっていた。

 物集院秋津という人間を知っているからこそ、なおさら。

 春雅は報告書を閉じる。

「ともかく先に一葉館だ」

「鬼守縁起の状態を確認する」

「問題がなければ羅生村へ向かう」

「鬼面を回収する」

 それが今回の任務だった。

「承知しました」

 綾乃は一礼する。

 だが書斎を出ようとした時。

「綾乃」

 春雅が呼び止めた。

「はい?」

「くれぐれも秋津を連れて行かないように」

「連れて行きません」

「本当に?」

「兄様」

「いや、念のためだ」

 春雅は真顔だった。

 綾乃は思った。

 文部省古記録調査課長。

 次期当主。

 国中の文化財を管理する人物。

 そんな兄が最も警戒している相手が、実の弟なのはどうなのだろう。

 もっとも。

 その気持ちはよく分かった。



第二章 一葉館



東京市神田区神保町二丁目二十一番地。

 一葉館。

 綾乃は洋館を見上げた。

 兄が暮らしているという下宿屋である。

 手紙では何度も名前を見ている。

 しかし訪れるのは初めてだった。

 秋津兄様が下宿。

 その言葉だけでも少し変な感じがする。

 兄は昔から集団生活に向いていない。

 親族の集まりですら隅の方で本を読んでいるような人だった。

 むしろ一人暮らしの方が想像しやすい。

 なのにここに住み続けている。

 しかも。

 他人と。

 綾乃は小さく首を傾げた。

 未だに少し不思議だった。

 

案内されて二階へ上がる。

 階段を上がった先には広い応接間があった。

 磨かれた床。

 古い洋館らしい高い天井。

 窓辺には新聞や雑誌が積まれている。

 そして何より目を引いたのは、本だった。

 本。

 本。

 本。

 壁一面の書棚。

 机の脇に積まれた資料。

 椅子の上にまで置かれた洋書と和綴じ本。

 綾乃は思わずため息をつく。

「兄様……」

 嫌な予感がした。

 応接間の右手の扉が半ば開いている。

 覗く。

 予感は当たった。

 本。

 本。

 本。

 そして本。

 部屋の中央では兄が古文書を読んでいた。

 まるで物集院家の蔵の一角を無理やり切り取って押し込んだような有様である。

 綾乃は少し安心した。

 兄は相変わらずらしい。

 だが同時に気付く。

 この階には兄だけが暮らしているわけではない。

 応接間の反対側には、もう一つ同じような扉がある。

 その隙間から見える机。

 整然と積まれた原稿用紙。

 万年筆。

 雑誌の束。

 書棚。

 兄の部屋ほどではないが、こちらもまた言葉に囲まれた空間だった。

 綾乃は小さく微笑む。

「こちらが折口さんのお部屋ですね」

 物集院秋津の世界。

 そして折口恒一の世界。

 二つの部屋は別々に存在している。

 しかしその間には応接間があり、二人の時間が流れていた。

 兄が珍しく長く付き合っている友人。

 綾乃はそのことを少しだけ嬉しく思った。


「あの、どちら様でしょう」

 声を掛けられて振り向く。

 穏やかな青年だった。

 折口恒一。

 春雅から名前だけは聞いていた。

 秋月恒一の方が有名かもしれない。

 兄と一緒に旅をしている作家。

 そんな人物だった。

「物集院綾乃と申します」

「ああ、妹さんですか」

「はい」

 恒一は柔らかく笑った。

 なるほど。

 話しやすそうな人だと綾乃は思った。

 少なくとも兄とは正反対である。


 そしてふと思う。

 正反対なのに。

 なぜうまくいっているのだろう。


 兄は偏屈である。

 不愛想である。

 興味がなければ一時間でも黙っていられる。

 対する折口は社交的だ。

 人当たりも良い。

 村人ともすぐ仲良くなるらしい。

 普通なら長続きしない組み合わせだった。

 それなのに。

 羅生村の件で行動を共にしている。


 少々興味深い。


「兄様」

 綾乃が呼ぶ。

「聞こえています」

 顔も上げない。

 相変わらずだった。

「お久しぶりです」

「先月も手紙を書いたでしょう」

 綾乃は思わずため息をついた。

 これも相変わらずだった。


「秋津」

 横から恒一が苦笑する。

「せめて顔くらい上げたらどうです」

「なぜです」

「妹さんですよ」

「綾乃であることはわかっています」

「そういう話じゃないんですが」


 兄が返事をする。

 折口が困る。

 兄が気付かない。

 折口がフォローする。


 なるほど。


 綾乃は何となく理解した。

 この人は兄の扱いに慣れている。

 かなり慣れている。

 残念ながら。

 物集院家の人間と同じくらい。


 兄様。

 もしかして家族以外で初めてではありませんか。

 そんな人。


 少し感心する。

 少し驚く。

 そして少し面白い。


 綾乃は実は人間観察が好きだった。

 こと兄に関してはなおさらである。


 なるほど。

 兄様がわざわざ同居を続けている理由が少し分かった気がします。


 そう思いながらも表情は崩さない。

 物集院家の令嬢たるもの、

 余計なことは顔に出さないのである。


無造作に置かれた和綴じ本を見た、瞬間これが問題の書物だとわかった。

 備中国鬼守縁起。

 羅生村から持ち帰った古記録だった。

 春雅に見せてもらった報告書に記されていた名である。

「兄様」

「何でしょう」

「少し見せていただけますか」

 ようやく秋津が顔を上げた。

 鋭い目が綾乃を見る。

「兄上ですか」

「ええ」

「なるほど」

 秋津は露骨に嫌そうな顔をした。

「余計なことをしていますね」

 その反応を見て、綾乃は苦笑する。

 やはり春雅の予想通りだった。

 兄は何も知らない。

 知らないまま帰ってきたのだ。

 だがそれでいい。

 秋津は人間の事件を解決した。

 残された怪異は、自分たちが片付ける。

 それが物集院家の役割なのだから。

 綾乃は静かに鬼守縁起へ手を伸ばした。

 まずは春雅に報告するためにも、その状態を確かめなければならなかった。


綾乃は鬼守縁起を手に取り、静かに頁をめくった。

 まず確かめたのは気配だった。

 羅生村から送られてきた写真を見た時、この書には確かに瘴気がまとわりついていた。

 長い年月を掛けて積み重ねられた怨念と執着。

 それらが文字の隙間から滲み出していたはずだった。

 しかし今は違う。

 何度頁をめくっても、嫌な気配は感じられない。

 まるで長い夢から覚めたように、瘴気は綺麗に消え失せていた。

 綾乃は小さく息を吐いた。

 ひとまず安心して良さそうだった。

 今度は内容へ目を通す。

 古びた文字を追っていくうちに、綾乃は自然と眉をひそめた。

 なるほど、と内心で呟く。

 これは危険だ。

 怪異そのものではない。

 だが怪異を育てる。

 そういう種類の書物だった。

 鬼は存在する。

 鬼は追わねばならない。

 鬼は排除しなければならない。

 繰り返し記される文言は、人の恐怖を煽り、人の憎悪を育てる。

 この内容に魅せられた人々が、その教えを信じ、何代にも渡って実践し続ければどうなるか。

 答えは簡単だった。

 恐れは瘴気となり。

 憎しみは呪いとなる。

 そしてやがて、鬼は本当に生まれてしまう。

 もっとも。

 生まれるのは妖怪などではない。

 人の心が作り出した怪異である。

 綾乃は頁を閉じた。

 背筋に微かな寒気が走る。

 秋津兄様が手に入れる前、この本は一体どれほどの力を宿していたのだろう。

 羅生村では百年以上。

 いや、それ以上かもしれない。

 幾世代にも渡って、この内容を信じ続けてきたのだ。

 想像するだけで気が滅入る。

 だからこそ。

 今、何も感じないことが不思議だった。

 綾乃は机を挟んだ向こう側にいる兄を見た。

 秋津は相変わらず別の資料へ目を通している。

 まるで自分が持ち帰ったものが、どれほど危険だったか考えたこともないような顔で。

「兄様」

「何でしょう」

「この書物ですが」

 綾乃は鬼守縁起を軽く持ち上げた。

「物集院文庫へ収蔵した方が良いのではありませんか」

 秋津が顔を上げる。

 そして露骨に嫌そうな顔をした。

「冗談じゃない」

「私の大切な収集品ですよ」

「文庫に収めてしまったら二度と読めなくなる」

 予想通りの返事だった。

 綾乃は思わず額を押さえたくなる。

 兄の収集癖は昔から変わらない。

 希少な書物となればなおさらだった。

 怪異の危険性よりも、読めなくなることの方が重大らしい。

「兄様……」

「却下です」

 即答だった。

 綾乃は諦める。

 春雅も言っていた。

 問題がなければ無理に回収する必要はない、と。

 実際、今の鬼守縁起から怪異の気配は感じられない。

 ならば優先すべきは別だ。

 羅生村に残る鬼面の方である。

 綾乃は気持ちを切り替えた。

「分かりました」

「でしたら兄様が責任を持って保管してくださいね」

 秋津は返事をしない。

 聞いているのかさえ怪しい。

 綾乃が半ば呆れていると、隣から苦笑混じりの声が聞こえた。

「分かったよ」

 折口恒一だった。

「綾乃さん」

「私も気を付けて見ておく」

 綾乃は思わず微笑んだ。

「ありがとうございます、折口さん」

 やはり兄一人では心許ない。

 この人がいて本当に良かったと思う。

「兄をよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 恒一は苦笑する。

「私も大変なんだ」

 その言葉に綾乃は思わず笑いそうになった。

 なるほど。

 兄様が折口さんを手放さない理由が少し分かる気がする。

 そして恐らく。

 折口さんもまた、兄様を放っておけないのだろう。

 そう考えると、綾乃は少しだけ面白くなった。

 もっとも、その思いは胸の内にしまっておいた。

 名家の令嬢たるもの、余計なことは口に出さないのである。


綾乃は鬼守縁起を机へ戻した。

 確認は終わった。

 春雅の見立て通り、この書から瘴気は消えている。

 問題はない。

 少なくとも今は。

「それでは、私は失礼します」

 綾乃が立ち上がる。

 恒一も立ち上がった。

「もうお帰りですか」

「ええ。少し用事がありますので」

 もちろん用事とは鬼面の回収である。

 だが説明するつもりはなかった。

「そうですか。またお会いしましょう」

「はい」

 綾乃は軽く頭を下げる。

 一方、秋津は資料から顔も上げない。

「兄様」

「何でしょう」

「帰ります」

「ええ」

 それだけだった。

 昔から変わらない。

 綾乃は苦笑する。

 本当に見送りすらしない兄である。

 だが。

『綾乃』

 不意に呼び止められた。

 秋津が珍しく視線を上げている。

「はい」

「羅生村へ行くのですか」

 綾乃は思わず目を瞬いた。

「どうしてそう思われるのです」

「兄上でしょう」

 秋津は当然のように言った。

「わざわざ鬼守縁起を確認させるのなら、気になっているのは別の方です」

 そこで少し考える。

「面ですね」

 綾乃は思わず笑った。

 やはり鋭い。

「兄様には関係ありません」

「でしょうね」

 秋津はすぐに興味を失った。

「では気を付けて」

 視線は再び本へ戻る。

 会話はそれで終わりだった。

 綾乃は小さく頭を下げる。

「行って参ります」

 返事はなかった。

 だが気にしない。

 兄とはそういう人だった。



第三章 出発の支度



翌朝。

 綾乃は玄関先で最後の身支度を整えていた。

 普段の華やかな和装ではない。

 旅用に誂えた濃藍色の袷である。

 目立たず、汚れも目立ちにくい。

 帯も落ち着いた鼠色。

 装飾品はほとんど身につけていなかった。

 首元には真珠の帯留めが一つあるだけだ。

 傍目には、地方の親類を訪ねる旧家の令嬢にしか見えない。

 だが実際は違う。

 袖の内側には小さく折り畳まれた符が数枚。

 巾着には清めの塩。

 化粧道具入れに見える木箱の底には銀製の護符が収められている。

 さらに旅行鞄の奥には、物集院家に代々伝わる小さな法具まで忍ばせてあった。

 春雅ならもう少し実用一辺倒の装備を選ぶだろう。

 秋津なら筆記用具と古文書だけで出発する。

 その中間が綾乃だった。

 怪異に備えながらも品位は失わない。

 それが物集院家の長女としての矜持でもある。

 鏡の前で姿を確認する。

 長い黒髪は後頭部でまとめ、白いリボンで控えめに結んでいた。

 旅先で邪魔にならず、それでいて令嬢らしさも残る髪型だった。

 最後に白い手袋をはめる。

 革製の旅行鞄を持つ。

 その姿はまるで上流階級の婦人雑誌から抜け出してきたようだった。

 だが綾乃自身は苦笑する。

 今日の目的地は避暑地でも温泉地でもない。

 百年以上にわたる怨念が染み付いた鬼面の回収である。

「まったく」

 小さく呟く。

「兄様は人間の方を持ち帰ってしまわれましたし」

 鬼守縁起のことである。

 本来なら文庫に納めるべき代物だ。

 それを当たり前のように私物化している。

 思い出すだけで少し頭が痛い。

 だがその一方で、脳裏にはもう一人の顔が浮かぶ。

 折口恒一。

 兄の隣で苦笑していた青年。

 兄様がああして誰かと同じ場所で暮らしていること自体、未だに少し信じられない。

 子供の頃の秋津を知っている綾乃にはなおさらだった。

 正直なところ。

 兄より折口の方が苦労しているように見える。

 あれはなかなか大変そうだ。

 もっとも。

 文句を言いながら放っておかない辺り、折口も相当なお人好しなのだろう。

 綾乃は小さく笑った。

 そして表情を引き締める。

 今はそんなことを考えている場合ではない。

 羅生村では怪異が待っている。

 物集院綾乃は旅行鞄を手に取ると、静かに玄関を後にした。


 綾乃は東京駅にいた。

 夏を迎えた駅舎は多くの人々で賑わっている。

 軍人。

 商人。

 学生。

 旅行客。

 様々な人々が行き交う中、綾乃は改札を抜けた。

 手には小さな旅行鞄が一つ。

 傍目には旧家の令嬢が親類を訪ねる旅にしか見えない。

 実際には鬼退治へ向かうのだが。

 その事実を知る者はいない。

 汽車が動き出す。

 東京の街並みがゆっくり後方へ流れていく。

 綾乃は窓の外を眺めながら考えた。

 鬼守縁起は既に力を失っていた。

 ならば鬼面はどうだろう。

 羅生村で百年以上。

 人々の恐怖と憎悪を受け続けた依代。

 それが簡単に沈静化しているとは思えない。

 場合によっては。

 怪異として成立してしまっている可能性さえある。

 綾乃は膝の上の鞄を軽く撫でた。

 中には物集院家の符や法具が収められている。

 秋津が持ち歩く古文書とは違う。

 こちらは本当に怪異を相手取るための道具だった。


 二日後。

 岡山県。

 羅生村。

 綾乃は村の入口へ立っていた。

 夏の山風が木々を揺らしている。

 去年の事件が終わって間もないはずなのに、どこか空気が重い。

 村人たちの顔にも明るさはない。

 鬼は暴かれた。

 だが百年以上続いた因習が消えるわけではない。

 人間の傷はそう簡単には癒えないのだ。

 綾乃は小さく息を吐いた。

 その時だった。

「あの」

 後ろから声が掛かった。

 振り返る。

 そこには一人の若い女性が立っていた。

 痩せた身体。

 どこか疲れを残した顔。

 けれど瞳には強い意志が宿っている。

「物集院さんでしょうか」

 綾乃は頷いた。

「はい」

 女性は深々と頭を下げた。

「咲江です」

「春雅様からお話は聞いています」

「村を案内します」

 綾乃は静かに微笑む。

「ありがとうございます」

 これが綾乃と咲江の最初の出会いだった。

 そして二人はまだ知らない。

 久坂の鬼面が既に、新たな主を求めて動き始めていることを。



第四章 羅生村



二人は山道を歩いていた。

 咲江は村のことを丁寧に説明してくれる。

「こちらが社です」

「祭りの日は、この辺りに屋台が並んでいました」

「こっちの道は昔の参道で……」

 私は頷きながら聞いていた。

 いや、正確には聞いていなかった。

 話が頭に入ってこない。

 理由は目の前の少女にあった。

 吉見咲江。

 兄様の手紙によれば、鬼隠し事件最大の被害者。

 久坂家によって長く囚われていた女性。

 けれど私の目には、別のものが映っていた。

 顔立ちは見える。

 表情も見える。

 だが瞳だけが見えない。

 黒い靄がかかったように輪郭が曖昧なのだ。

 まるで濃い煙越しに見ているようだった。

 私は足を止めた。

「どうかなさいましたか?」

 咲江が不思議そうに振り返る。

 私は少しだけ首を傾げた。

「咲江さん」

「はい」

「少し失礼しますね」

「え?」

 私は彼女へ歩み寄った。

 そして額へそっと指先を伸ばす。

 咲江の身体が小さく強張った。

「だ、大丈夫ですか?」

「動かないでください」

 額へ触れた瞬間だった。

 重い。

 じっとりとした冷気が指先へ絡みつく。

 思った以上だ。

 鬼面から続く瘴気が、まだ彼女から離れていない。

 私は静かに目を閉じた。

 懐から一枚の白い和紙を取り出す。

 物集院家で用いる封紙である。

 古い記録では『移し紙』とも呼ばれていた。

「これは……?」

「お守りみたいなものです」

 私は微笑んだ。

 嘘ではない。

 紙を咲江の額へ軽く当てる。

 そして小さく唱えた。

「人の恐れは人へ還れ」

「人の悲しみは風へ還れ」

「人ならざるものよ、ここに留まることを許さぬ」

 紙が震えた。

 瞬間。

 咲江の瞳を覆っていた黒い靄が、糸のように紙へ吸い寄せられる。

 ほんのわずか。

 本当にわずかだ。

 だが確かに移った。

 真っ白だった和紙の中央に、墨を滲ませたような黒い染みが浮かんでいる。

 私は紙を素早く折り畳んだ。

「これで少しは楽になると思います」

 咲江が何度か瞬きをする。

「……あれ?」

「どうしました?」

「なんだか頭が軽いような……」

 私は答えなかった。

 代わりに村の奥へ視線を向ける。

 黒い糸は消えていなかった。

 まだ残っている。

 咲江から伸びる細い糸。

 その先は村の中心部。

 久坂家の方角だった。

 胸の奥に嫌な予感が走る。

 兄様の見立ては正しかった。

 鬼は終わっていない。

 正確には、

 鬼を生んだものがまだ残っている。

「物集院さん?」

 咲江が不安そうに私を見る。

 私はいつもの微笑みを浮かべた。

「いいえ」

「少し気になることがあるだけです」

 そう言いながら、私は袖の中で封紙を握り締めた。

 紙の向こうから、微かに脈打つような気配が伝わってくる。

 咲江は首を傾げていたが、すぐに気にするのをやめたらしい。

「それでですね」

 と、何事もなかったように話し始める。

「この先に川があるんです。子供の頃はよく遊んでいたんですよ」

「そうですか」

「魚を捕ったりして」

 そう言う彼女の表情は明るかった。

 少なくとも無理をしているようには見えない。

 私は少し意外に思った。

 あれだけの目に遭った人間だ。

 もっと塞ぎ込んでいてもおかしくない。

 しかし咲江は違った。

「修一さんなんて毎回負けていましたからね」

「負ける?」

「魚捕りです」

 咲江はくすりと笑う。

「悔しがっていました」

「修一さんが」

「はい」

 少し想像できる。

 負けず嫌いそうな顔をしている。

「私が一匹捕ると、修一さんは二匹捕ろうとするんです。でも結局一匹も捕れなくて」

 咲江は声を上げて笑った。

 その笑顔は屈託がない。

 あまりにも自然だった。

 だからこそ私は思う。

 この娘は元々強いのだ。

 傷ついていないのではない。

 傷ついたまま歩いているだけなのだ。


 やがて村の中心部へ入る。

 事件は終わった。

 しかし村の空気は重い。

 すれ違う村人たちは会釈こそするものの、どこか落ち着きがない。

 家の前で話をしていた老人たちは私を見ると口を閉ざした。

 こちらを警戒しているのではない。

 何を話していいか分からないのだ。

 百年以上信じてきたものが否定された。

 その戸惑いが村全体に残っている。

「みんな少し元気がないですね」

 私が言うと、

 咲江は困ったように笑った。

「仕方ありません」

「そうでしょうか」

「鬼がいなくなっちゃいましたから」

 私は思わず足を止めた。

 咲江は慌てて付け加える。

「あっ、変な意味じゃないんです」

「続けてください」

「鬼なんていない方がいいんです。でも……」

 咲江は村の広場を見渡した。

「みんな鬼を信じて生きてきましたから」

 その言葉に私は頷いた。

 兄様ならきっと喜ぶ。

 これはまぎれもなく民俗学の話だった。

 伝承は事実である必要はない。

 人々が信じたという事実こそが重要なのだ。


 広場には祭りの準備に使われていた櫓の跡が残っていた。

 誰も近寄らない。

 風に吹かれた縄が軋む。

 まるで役目を失った舞台のようだ。

「追儺祭も変わるでしょうね」

 咲江が言った。

「なくなるかもしれません」

「寂しいですか」

 私の問いに、彼女はしばらく考え込んだ。

 そして、

「少しだけ」

 と答えた。

「嫌なこともたくさんありました。でも楽しかったこともあったんです」

 夏祭りの日。

 子供たちの笑い声。

 屋台。

 太鼓。

 そんな記憶まで捨てたいわけではないのだろう。


 その時だった。

 ふと村人の視線が一点へ集まっていることに気付いた。

 古びた集会所の前である。

 何人もの人間がひそひそと話していた。

「何かあったのですか?」

 私が尋ねると、

 咲江の表情がわずかに曇った。

「ああ……」

「今朝から少し騒ぎになっているんです」

「騒ぎ?」

「村の若い人が一人、いなくなったみたいで」

 私は思わず咲江を見る。

 咲江も表情を引き締めていた。

「行方不明ですか」

「はい。でも山仕事で帰りが遅れることもありますし」

 そう言いながらも、その声には不安が混じっている。

 私は何気なく広場の向こうを見た。

 久坂家の屋敷がある方角。

 その瞬間。

 袖の中の封紙が微かに熱を持った。

 まるで何かに反応するように。

 私は誰にも気付かれないよう、そっと拳を握った。


広場を後にし、私たちは村の中央へ向かっていた。

 事件は終わった。

 そう思いたいのだろう。

 しかし村人たちの表情は暗い。

 誰もが何かに怯えているように見える。

「やっぱり変ですね」

 私は呟いた。

「そうですか?」

 咲江は小首を傾げた。

「平和そうに見えますけど」

「あなたは楽観的ですね」

「よく言われます」

 まったく悪びれない。

 思わず笑いそうになる。

 兄様ならどう評するだろう。

 おそらく、

『そういう人間だからこそ生き残れたのでしょう』

 と言うに違いない。

 実際、その通りかもしれなかった。


 私たちは集会所の前へ差しかかった。

 そこで何人かの村人が集まっている。

 皆、険しい顔をしていた。

「あら」

 咲江の表情が少し曇る。

「どうしました?」

「また集まってる」

 村人の一人がこちらを見る。

 そして咲江へ近寄った。

「咲江ちゃん」

「まだ見つからん」

 老人の声は沈んでいた。

 咲江も顔色を変える。

「栄治さんですか」

「ああ」

 私は二人の会話を聞いていた。

「三宅栄治さん?」

 老人が頷く。

「三日前から帰っとらん」

「警察には?」

「森下さんが探しとる」

 それだけ言って老人は去っていった。


 再び歩き始める。

 咲江が小さくため息をついた。

「栄治さんは悪い人じゃないんです」

 私は黙って聞く。

「お祭りの準備もよく手伝ってくれましたし」

「仕事熱心な方ですか」

「不器用ですけど」

 咲江は少し笑った。

「修一さんほどじゃありませんけど」

 なるほど。

 その比較は本人がいたら怒りそうである。

「事件の後から元気がなくて」

 その言葉に私は反応した。

「元気がない?」

「ずっとです」

 咲江は足元を見た。

「自分も止められなかったって」

「何度も言っていました」

 私は静かに目を細める。

 後悔。

 罪悪感。

 自責。

 怪異が好む感情だ。


 その時だった。

 袖の中の封紙が微かに震えた。

 咲江には気付かれない程度。

 しかし私には分かる。

 何かが近い。

「……」

 私は足を止めた。

「物集院さん?」

 視線を上げる。

 集会所。

 その奥。

 村の倉へ続く道。

 誰もいない。

 だが確かに感じた。

 湿ったような瘴気。

 古井戸の底から吹き上がるような冷気。

 封紙が熱を帯びている。


「咲江さん」

「はい?」

「鬼面は今どこにありますか」

 咲江はきょとんとした。

「鬼面ですか?」

「ええ」

「集会所の蔵ですけど」

「誰でも入れますか?」

「鍵は掛かっています」

 そこまで言って、

 咲江の顔から笑みが消えた。

「まさか」

 私も答えなかった。

 だが考えていたことは同じだった。

 栄治の失踪。

 鬼面。

 村に残る瘴気。

 それらが一本の線で繋がり始めている。


 山の向こうで風が鳴った。

 その瞬間。

 私には見えた。

 集会所の裏手。

 森へ続く獣道の奥。

 黒い影が立っている。

 人影だった。

 こちらを見ている。

 いや。

 見ているのは影ではない。

 その顔。

 不自然に大きな角。

 歪んだ口元。

 赤黒い木の面。


 鬼面だ。


 次の瞬間にはもう消えていた。

 幻だったのかもしれない。

 だが袖の中の封紙はなお熱を持ち続けている。

 私はゆっくりと拳を握った。

「兄様」

 小さく呟く。

「やはり終わっていませんでしたよ」

 羅生村の鬼は。

 まだ、この村に残っていた



第五章 鬼面



羅生村の鬼は。

 まだ、この村に残っていた。

 その時だった。

 背後で砂利を踏む音がした。

 振り返る。

 村人が立っていた。

 一人ではない。

 二人。

 三人。

 四人。

 ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 男も女もいる。

 見覚えのある顔ばかりだった。

 だが何かがおかしい。

 全員、視線が虚ろだった。

 焦点が合っていない。

 まるで夢遊病者のようだ。

「……物集院さん」

 咲江の声が震えた。

 村人たちは無言だった。

 だが私には見えていた。

 全員の眼の奥に揺れている黒い影が。

 鬼面から伸びた瘴気だ。

 まるで操り人形を繋ぐ糸のように絡みついている。

 その先は山の方角へ続いていた。


「下がっていてください」

 私は一歩前へ出た。

「え?」

「大丈夫です」

 懐へ手を入れる。

 指先が封紙に触れた。

 物集院家が怪異を封じるために用いる紙。

 人を傷つけるためのものではない。

 だからこそ使いやすい。


 一人の男が突然駆け出した。

 目を見開いている。

 しかし意識はない。

「ォォォォォ……」

 獣のような声。

 私は紙を一枚取り出した。

 そして男の額へ叩きつける。

 ぱしっ。

 乾いた音がした。

 瞬間。

 紙の中央へ黒い染みが広がる。

 男がその場に崩れ落ちた。

「な……」

 咲江が息を呑む。

 男は死んでいない。

 眠るように倒れているだけだった。


 だが残りは三人。

 今度は同時に動いた。

 私は袖から二枚目の封紙を引き抜く。

「鎮まりなさい」

 一枚。

 二枚。

 紙が額へ貼り付くたび、

 黒い煙のようなものが紙へ吸い込まれていく。

 村人たちは次々に地面へ倒れた。


 しかし。

 封紙はすべて黒く染まっていた。

 想定以上だ。

 こんな程度の瘴気でこうはならない。

 もっと大きな核がある。


「物集院さん」

 咲江が青ざめた顔で前を指さした。

「……あれ」


 山道の奥。

 木々の隙間。

 誰かが立っていた。


 鬼面。


 赤黒い面。

 異様に伸びた角。

 歪んだ口元。

 その下に見える着物。

 見覚えがあった。


「栄治さん……」

 咲江が呟く。


 三宅栄治だった。


 しかし栄治は答えない。

 鬼面の奥から荒い息だけが聞こえる。

 肩が上下していた。

 まるで苦しんでいるようにも見える。


「近付かないでください」

 私は咲江を庇った。

 その瞬間。

 栄治が顔を上げた。


 鬼面の眼孔。

 その奥で、

 真っ黒な闇が蠢いていた。


「オニハ」

 声だった。

 栄治の声ではない。

 複数の人間が同時に喋っているような不気味な響き。


「オニハ……ヒツヨウダ」


 ぞくり、と背筋が冷える。

 鬼面そのものが喋っている。


 私は静かに懐へ手を入れた。

 封紙は残り六枚。

 足りるだろうか。


「兄様」

 小さく呟く。

「これは少し厄介ですよ」


 そして鬼面を被った栄治が、

 ゆっくりとこちらへ歩き始めた。


三宅栄治がゆっくりと歩いてくる。

 一歩。

 また一歩。

 鬼面の口元から荒い息が漏れていた。

 その姿を見た咲江が思わず前へ出る。

「栄治さん!」

「咲江さん!」

 私は咄嗟に腕を掴んだ。

 栄治の様子がおかしい。

 いや。

 おかしいのは様子ではない。

 人ではない何かが栄治を通してこちらを見ている。

「オニハ」

 鬼面の奥から声が響く。

「ヒツヨウダ」

 村人たちが一斉に顔を上げた。

 その瞳は黒く濁っている。

「オニガイナケレバ」

「ムラハヒトツニナレナイ」

 声は栄治だけのものではなかった。

 歴代の鬼。

 百年以上分の怨念が重なり合っているようだった。

 私は静かに封紙を取り出した。

 白い紙。

 まだ何も映していない。

「咲江さん」

「はい……」

「栄治さんはまだ生きています」

 咲江の目が見開かれる。

「本当ですか」

「ええ」

 鬼面の奥。

 かすかだが人の気配が残っている。

 完全には吞み込まれていない。

「オマエモ」

 鬼面が咲江を見る。

「オニダ」

 咲江の身体が震えた。

「ヤクメヲステヨウトシタ」

「ムラヲステタ」

「オニダ」

「違います!」

 咲江が叫んだ。

 その瞬間。

 鬼面の瘴気が膨れ上がる。

 まるで怒りを表すように。

 私は前へ出た。

「違うのはあなたです」

 鬼面がこちらを向く。

 圧力が増した。

 空気が重い。

 だが私は退かない。

「あなたは鬼ではありません」

 静かに告げる。

「栄治さんでもありません」

 鬼面が揺れる。

 初めて反応した。

「あなたは人の感情です」

「恐怖です」

「後悔です」

「罪悪感です」

「百年以上この村に捨てられ続けた感情の残滓です」

 鬼面が唸る。

 まるで否定するように。

「黙れ」

 今度は栄治自身の声だった。

「黙れ……!」

 肩が震えている。

 鬼面の下から涙が落ちた。

「俺は見てた」

 掠れた声。

「全部知ってた」

「止められたかもしれない」

「でも止めなかった」

 咲江が息を呑む。

「俺も同罪なんだ」

「俺だって鬼だ!」

 その瞬間だった。

 鬼面から黒い瘴気が吹き上がった。

 私は封紙を構える。

 ようやく分かった。

 この怪異の正体が。

 鬼面は人を鬼にするのではない。

 人間が自分を鬼だと思った時、その心に根を下ろす。

 だから今も栄治を蝕んでいる。

「栄治さん」

 私は一歩近付いた。

「あなたは罪を犯しました」

 栄治が顔を上げる。

「ですが」

 私は続ける。

「鬼ではありません」

 封紙を指先で開く。

「鬼になることで罪から逃げるのはおやめなさい」

 その言葉に。

 鬼面が初めて悲鳴のような声を上げた。

 綾乃は鬼面そのものを封じるのではなく、

 まず栄治の「自分は鬼だ」という思い込みを断ち切ろうとする。

 黒い瘴気が吹き上がる。

 木々が大きく揺れた。

 咲江が悲鳴を上げる。

「栄治さん!」

「来るな!」

 鬼面の下から叫び声が響く。

 その声は栄治のものだった。

 だが次の瞬間には別の声が混ざる。

「オマエモ」

「ミテイタ」

「シッテイタ」

「ダマッテイタ」

 鬼面が嗤った。

 それは栄治自身の心の声だった。

 私は封紙を開く。

 栄治の身体から伸びる黒い糸。

 そのすべてが鬼面へ集まっている。

 鬼面は栄治を操っているのではない。

 栄治の罪悪感を喰らっている。

「その面を離しなさい」

 私が言う。

 栄治は首を振った。

「無理だ」

「俺は鬼なんだ」

「違います」

「違わない!」

 栄治の絶叫と同時に瘴気が爆発した。

 次の瞬間。

 栄治が飛び出した。

 常人ではあり得ない速度。

 私は横へ飛ぶ。

 直後、背後の木へ拳が叩きつけられた。

 乾いた音。

 幹に亀裂が走る。

「なるほど」

 私は呟く。

「力だけは与えるのですね」

 栄治が再び迫る。

 私は袖から三枚の封紙を抜いた。

 白い紙が宙を舞う。

「鎮まりなさい」

 一枚目。

 胸へ貼り付く。

 紙が一瞬で黒く染まる。

 だが剥がれ落ちた。

「足りない……!」

 二枚目。

 肩へ。

 三枚目。

 背中へ。

 だが瘴気が濃すぎる。

 封紙が次々と焼けるように黒く変色していく。

「アヤノサマ!」

 咲江の声。

 栄治が目前まで迫っていた。

 鬼面の口が大きく開く。

 その奥から無数の呻き声が漏れている。

 歴代の鬼。

 歴代の犠牲者。

 百年以上村に沈殿した感情の残骸。

 だが。

 私には見えた。

 鬼面の下。

 栄治の瞳だけが泣いていた。

「栄治さん!」

 私は叫んだ。

 拳が止まる。

 ほんの一瞬。

「あなたは何を隠しているのですか!」

 鬼面が震える。

 栄治の肩も震えた。

「言いなさい!」

「私は……!」

 苦しそうな声。

「俺は……見てた……」

 鬼面が唸る。

 言わせまいとしている。

「地下へ入っていく修一を見た!」

「何度も見た!」

「おかしいと思った!」

 咲江が目を見開く。

「でも言えなかったんだ!」

 栄治の叫びが山に響いた。

「久坂家が怖かった!」

「村が怖かった!」

「俺まで鬼にされるのが怖かった!」

 鬼面が激しく揺れる。

 まるで悲鳴を上げるように。

「だから黙った!」

「何もしなかった!」

「修一が捕まって!」

「咲江さんが苦しんでいたことも分かって!」

「それでも俺は何もしなかった!」

 涙が鬼面の下から落ちる。

「俺は最低だ!」

「鬼だ!」

 私は首を振った。

「違います」

 静かな声だった。

「あなたは鬼ではありません」

「弱かっただけです」

 栄治が息を呑む。

「鬼なら苦しみません」

「鬼なら後悔もしません」

「鬼なら涙も流しません」

 一歩前へ出る。

「あなたは人間です」

「だから苦しんでいるのです」

 その瞬間だった。

 ぱきり。

 鬼面に亀裂が走る。

「な……」

 栄治が顔を上げる。

 鬼面の中央。

 額から顎まで一本の線が走っていた。

 私は最後の封紙を取り出した。

「物集院家当代拝屋」

「物集院綾乃が命じます」

 封紙を鬼面へ叩きつける。

「その罪を返しなさい」

「その恐れを返しなさい」

「その悲しみを返しなさい」

 白い紙が鬼面へ貼り付いた。

 次の瞬間。

 轟音。

 鬼面が内側から砕け散った。

 黒い瘴気が空へ噴き上がる。

 無数の叫び声。

 泣き声。

 恨み。

 後悔。

 それらは秋風に溶けるように消えていった。

 栄治が膝から崩れ落ちる。

 顔を覆い、嗚咽した。

「ごめんなさい……」

「咲江さん……」

「ごめんなさい……」

 咲江がゆっくり近付く。

 しばらく黙ったまま栄治を見つめ、

 そして静かに言った。

「栄治さん」

 栄治は顔を上げられない。

「今度はちゃんと話してください」

 咲江の声は怒りでも憎しみでもなかった。

「それで十分です」

 栄治は声を上げて泣いた。

 私は空を見上げる。

 封紙は完全に黒く染まっていた。

 だが、もう脈打ってはいない。

 羅生村の鬼は終わった。

 今度こそ、本当に。


鬼面が砕け散った後。

 しばらくして倒れていた村人たちが次々と目を覚まし始めた。

「うう……」

「ここは……?」

「なんで俺は寝とったんじゃ」

 村人たちは頭を押さえながら起き上がる。

 幸い大きな怪我はない。

 皆、何が起きたのか全く覚えていない様子だった。

 咲江は安心したように胸を撫で下ろした。

 その時。

 遠くから怒鳴り声が聞こえた。

「どいてくれ!」

「通してくれ!」

 駆けて来たのは森下巡査だった。

 後ろには数人の村人もいる。

 森下は周囲を見回した。

 倒れていたはずの村人たち。

 砕け散った鬼面。

 泣き崩れる栄治。

 そして平然と立っている私。

 状況が理解できないらしい。

「……何があったんです?」

 もっともな質問だった。

 私は思わず黙る。

 説明できない。

 いや、説明しても困る。

『鬼面に宿った百年以上の瘴気を封印しました』

 などと言った瞬間に変人扱いである。

 兄様ならどうするだろう。

 たぶんもっと上手く誤魔化す。

 秋津兄様なら、

 さらに上手く誤魔化す。

 私は二人ほど器用ではない。

「物集院さん」

 森下が真顔で尋ねる。

「これは一体?」

 私は冷静な表情を作った。

「集団ヒステリーです」

 森下が固まった。

「は?」

「集団ヒステリーです」

 自分で言っていても苦しい。

 森下が辺りを見回す。

「全員がですか?」

「はい」

「同時に?」

「はい」

「山の中で?」

「はい」

「この面が割れたのも?」

「たまたまです」

 森下は明らかに納得していなかった。

 すると横から咲江が勢いよく頷く。

「そうです!」

 私も少し驚く。

「集団ヒステリーです!」

「吉見さんまで……」

「みんな疲れていたんです!」

 咲江は真剣な顔で続けた。

「事件もありましたし!」

「鬼騒ぎもありましたし!」

「祭りも中止になりましたし!」

 そこまでは分かる。

「それで栄治さんが鬼のお面を被って!」

「はい」

「皆さんも集まって!」

「はい」

「その後は?」

 咲江は一瞬だけ詰まった。

 まずい。

「その後……」

「その後?」

「その後は……」

 咲江がちらりと私を見る。

 助けを求めている。

 だが私にも答えはない。

「大変だったんです」

 咲江が言った。

 沈黙。

 森下は額を押さえた。

「まったく説明になっていません」

「でも本当なんです」

「本当なんですか……?」

「たぶん」

 森下は深いため息を吐いた。

 村人たちも事情を説明できない。

 栄治は泣き続けている。

 物証もない。

 やがて森下は諦めたように肩を落とした。

「まあ……」

「死人が出ていないなら良いです」

「ありがとうございます」

「良くありませんけどね」

 そして森下は栄治の前へしゃがみ込んだ。

「三宅さん」

 栄治は顔を上げる。

 目は真っ赤だった。

「話を聞かせてもらえますか」

 栄治はしばらく黙っていた。

 だがやがて静かに頷いた。

「俺は……」

「修一を見たんです」

 周囲が静まり返る。

「何度も見た」

「咲江さんを閉じ込めていたことも薄々分かっていた」

「でも言えなかった」

 拳を握り締める。

「村が怖かったんです」

「久坂家が怖かった」

「だから黙っていました」

 嗚咽が漏れる。

「俺も同罪です」

 森下は何も言わなかった。

 ただ静かに聞いていた。

 私はその様子を見つめる。

 村の上を吹く風は、先ほどまでより少しだけ軽かった。

 咲江が小さな声で私に耳打ちした。

「物集院さん」

「はい?」

「集団ヒステリーって便利な言葉ですね」

 私は思わず苦笑した。

「兄様には内緒にしてください」

「春雅様ですか?」

「きっと怒られますので」

 咲江は初めて声を上げて笑った。

 そして私も、少しだけ笑った。

森下たちが栄治の話を聞いている間。

 私は砕け散った鬼面の破片を回収していた。


 角。

 額。

 口。

 頬。


 赤黒く塗られた木片を一つずつ拾っていく。

 どれもただの木にしか見えない。

 だが私には違って見えた。

 黒い靄がまだまとわりついている。

 先ほどより遥かに弱い。

 それでも消えてはいない。

「物集院さん?」

 咲江が近付いてきた。

 私は懐から白い布を取り出す。

 物集院家で使う封布である。

 破片を順に包み始めた。

「捨てないんですか?」

「捨てません」

 そう答えて布を結ぶ。

「もう終わったんじゃ……」

「終わっていれば良かったのですが」

 咲江が不安そうな顔をした。

 私は少しだけ微笑む。

「安心してください」

「今すぐどうこうなるものではありません」

 それは本当だった。

 だが。

 安全とは言い切れない。

 布の中から微かな脈動を感じる。

 心臓の鼓動のような。

 あるいは呼吸のような。

「……」

 私は無意識に眉をひそめた。

 本来なら兄様に任せる案件だ。

 春雅兄様なら二重三重に封を施し、その場で瘴気を沈静化できる。

 秋津兄様なら、そもそもこれほどの怪異は近付くだけで弱っていただろう。

 しかし私は違う。

 祓うことはできる。

 封じることもできる。

 だが守ることは得意ではない。

 今も布の中では何かが蠢いている。

 咲江が心配そうに覗き込んだ。

「大丈夫なんですか?」

 私は少し考えた。

「正直に言いますと」

「大丈夫ではありません」

「ええっ!?」

 咲江が素っ頓狂な声を上げる。

「いえ、暴れたりはしません」

「たぶん」

「たぶん!?」

 私は小さく咳払いした。

「物集院家にはこういった物を保管する蔵があります」

「そこへ運べば問題ありません」

「運ぶまでは?」

「頑張ります」

 咲江はしばらく黙った。

「物集院さん」

「はい」

「意外と適当ですね」

「兄様方が聞いたら否定すると思います」

 すると布の奥で、

 かすかに何かが脈打った。

 どくん。

 私は反射的に封紙を一枚貼る。

 すぐに静かになった。

「……今の何ですか」

 咲江が青ざめる。

「気のせいです」

「絶対違いますよね!?」

 私は答えなかった。

 実のところ。

 かなり気になっていた。

 鬼面は砕けた。

 栄治も正気へ戻った。

 だが怪異そのものが完全に消滅した感覚がない。

 封じた。

 それだけだ。

 布包みを抱えたまま、小さくため息を吐いた。

「早く東京へ帰りましょう」

「帰るんですか?」

「ええ」

 白布を見つめる。

「これは一葉館へ持ち込めませんから?」

 その瞬間。

 なぜか遠く東京の兄の顔が思い浮かんだ。

 もし兄様の書斎へこれを置いたら。

 間違いなく春雅兄様に叱られる。

 秋津兄様は興味津々で開けようとする。

 私は頭を抱えたくなった。

「本当に早く帰らないといけませんね……」

 白布の奥で、また微かに何かが動いた気がした。

 そのため息は、怪異に対してなのか、それとも兄に対してなのか、自分でもよく分からなかった。



終章 物集院文庫




 東京市本郷区。

 秋の終わり。

 物集院家。

 綾乃は重い鉄扉の前に立っていた。

 地下深く。

 物集院文庫のさらに奥。

 限られた者しか立ち入ることを許されない封蔵である。

 壁一面に並ぶ棚。

 そこには古書、巻物、木箱、封印札の貼られた壺などが静かに眠っていた。

 いずれも普通の書庫には置けないものばかりである。

「ご苦労だったな」

 声がする。

 振り返ると春雅が立っていた。

 相変わらず隙のない姿だった。

「応急処置しかできませんでした」

 綾乃は白布に包まれた木箱を見下ろした。

「十分だ」

 春雅は静かに言う。

「怪異を完全に滅ぼすことは難しい」

「特に百年以上人の感情を集めたものはな」

 綾乃は頷いた。

 そのことは誰より理解している。

 木箱を棚へ置く。

 封紙を一枚。

 さらに春雅が墨で印を記す。

 最後に鉄格子の扉が閉じられた。

 がしゃん。

 重い音が封蔵へ響く。

 ようやく終わった。

 そう思った時だった。

「兄様」

「何だ」

「これはどの分類になりますか」

 春雅はしばらく考えた。

 そして棚から一冊の古い台帳を取り出した。

 頁を開く。

 筆で丁寧に記された収蔵記録。

 春雅は新しい項目へ筆を走らせた。


 収蔵番号 第七八二号

 名称 久坂鬼面

 別称 追儺の鬼


 綾乃が目を細める。

「追儺の鬼……」

「中国鬼守縁起が原型だ」

 春雅が言う。

「本来は災厄を追い払うための鬼だった」

「鬼を祓うための鬼だ」

 綾乃は静かに聞く。

「だが人は都合良く変えてしまう」

 春雅は閉ざされた棚を見る。

「恐怖を集め」

「憎しみを集め」

「差別を集め」

「やがて鬼そのものになった」

 静寂。

 封蔵の空気は冷たい。

「ではこれは」

 綾乃が言う。

「怪異だったのでしょうか」

 春雅は少し笑った。

「さてな」

 物集院家らしい答えだった。

「人が生み出したものだ」

「ならば怪異でもあり、人でもあるのだろう」

 綾乃も微かに笑う。

 遠い岡山の村を思い出した。

 咲江。

 栄治。

 修一。

 そして百年以上続いた追儺祭。

 鬼はいなかった。

 けれど。

 人が鬼を生み出すことはあった。

 それだけは確かだった。

 綾乃は静かに背を向ける。

 鉄扉が閉じられた。

 暗い棚の奥。

 白布に包まれた木箱は動かない。

 もう声もしない。

 ただ静かに眠っている。


 収蔵番号 第七八二号。

 久坂鬼面。

 別称。


 追儺の鬼。


 こうして物集院家の封蔵に、新たな一冊の記録が加えられた。

 そして誰かがその箱を再び開く日は。

 少なくとも、まだ先の話である。




綾乃視点からの秋津と折口をどう感じましたか?

感想を簡単でももらえるとうれしいです。



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