人の望みの喜びよ
12月24日。浮かれた人の群れがそこかしこで祝いの言葉を叫び合い、すべての自由を踏み荒らすほどの騒がしさが街を満たしていた。
この世を寿ぐイルミネーションの明滅、静まることのない高らかな歌、幸福の在り方を愛という檻に押し込めるじっとりと暖かい空気。
冷たく乾いた哲学を断じて許さない、頑固な祝福が人々の心を埋め尽くす。
そんな賑やかな街から遠く離れた森の奥、堅牢な門扉をきっちりと閉ざして喧騒を跳ね除ける屋敷が建っている。屋敷の主はキャロルという壮年の男だ。
彼は自身が必死で築き上げた富を自分だけの城塞として形にした。彼がその富を誰かに施すことは決してなかった。
豪奢な屋敷を建て、快適な家具を揃え、香しい酒と興味深い本を揃える。それで富を得ている者がいる。キャロルはそういう“繋がり”を好んだ。
一方的に貪るだけの乞食に構うつもりはなかった。
キャロルは人間が嫌いだ。彼にとって他者とは静寂を切り裂く迷惑なノイズであり、貴重な精神的リソースを食い荒らすだけ食い荒らして共生関係になろうともしない害虫だった。
一人きりの桃源郷に電話の音が鳴り響く。盛大に顔を顰めながらもキャロルは受話器をとった。先のために必要な連絡の可能性があるからだ。しかし通話口からは不躾な大声が飛びかかってきた。
「メリークリスマス、叔父さん! 今年は僕の家でパーティーを……」
「お前の人生に一瞬たりとも私を巻き込むな」
兄の息子の声を確認するなり叩きつけるように受話器を置く。しばし考えたのち、キャロルは電話線を引き抜いた。
普段であればそうはできないが、おそらく「クリスマスに仕事の電話などしない」という幸福のマーケティングに従って、今日明日は必要な連絡など入らないだろうと結論づける。
ふと不安になってキャロルは玄関を確認した。かたく閉ざされた扉は何重もの鍵で守られている。窓も音と光と寒気を遮る分厚いカーテンで覆われ、屋敷を外界から隔てていた。
誰の存在にも侵害されない、己という王だけが暮らす己のための王国だ。完璧な静寂に安堵して寝室へと戻る。
上質なワインを開け、冷えたローストビーフを優雅に切り分け、ベッドで食べる。自分のための時間。
そうして彼はこのうえなく心地好い一日を過ごした。
しかしその夜、キャロルの枕元に強烈な光が現れる。それは鎖に繋がれた亡霊ではなく、目を焼くほどに光り輝く善意の化身たちだった。
眩しさのあまりキャロルは思わず毛布を投げつけて撃退しようと試みたが、半透明の身体を虚しくすり抜けて床に落ち、霊体は呑気に突っ立っている。
莫大な金をかけた寝室は毛布を剥いでも寒さから程遠かったが、落ち着いた室内に似合わない下品な光源が不愉快でたまらなかった。
彼らは、彼ら自身が称賛してやまない「幸福」を押し売りにきたのだろう。いかなる宗教上のいかなる産物か知る由もないが、整理整頓が行き届いた清潔なキャロルの部屋において精霊たちの存在は物理的に排除できない厄介な不法侵入者だった。
「私は“スクルージ”ではないぞ。他をあたれ」
彼の言葉を理解できなかったらしく、《哀れなキャロルよ》と第一の精霊が言った。
《お前の知らぬ、純粋な喜びを見せてやろう》
キャロルの視界が歪に捻じ曲がり、景色が変わってゆく。
気づけば夏の陽光の下、数十人の子供たちが走り回る公園に立っていた。子供たちは一様に泥だらけになって大声で笑い、互いに肩を組み合って楽しそうにしている。
精霊は優しく微笑んだ。
《見よ、この友情は永遠に続くのだ。彼らは決して孤独ではない》
電話の音を聞いたのと同じように、キャロルは顔を顰めて吐き捨てる。
「地獄だな。他人の顔色を窺っては集団の和を乱さぬよう己を殺し、思索に耽るための時間は他者に乱され続ける。集団から弾かれることを恐れるのは『協調が何にも勝る』という教育の成果だ」
そして子供たちから遠く離れたところに視線を移し、キャロルは綻ぶように微笑んだ。
「おお、見ろ、あの少年を。一人で木陰に入り、昼寝をしている。素晴らしい」
少年は直射日光に焼かれることなく、さわやかな夏の風を浴びてすうすうと穏やかな寝息を立てている。
顔に乗せられた本はおそらく読みかけだ。好きな本を読むために自分で選んで木陰を探し、寛いで読むうちに眠気を優先させたくなって寝ているのだろう。
輪郭も危うい「理想的な子供たち」ではなく、確かな「一人の少年」がそこにいた。精霊がそっと本を持ち上げると、その少年は幼いキャロルの顔をしていた。
第一の精霊が困惑したまま消えると、慌てて第二の精霊が現れた。
《では、これを見るがいい。慎ましくも穏やかな愛に満ちた生活を》
さきほどよりも唐突に、勢いよく景色が変わる。
次にキャロルは、物がないにもかかわらず狭苦しい小さなアパートの一室に立っていた。隙間風が吹いている。
若い夫婦が寄り添い、わずかな食事を分け合って微笑んでいた。金はない。暖房も不十分だ。しかし二人は互いの手を握って体温を感じ、愛を囁いて心を暖めているようだった。
《この愛情は永遠に続くのだ。彼らの心は誰よりも豊かだ》
キャロルは淡々と二人を観察し、頷いた。
「滑稽だ。己すら養えないのに婚姻契約を結び、好き好んで暮らしを逼迫させるとは。どうせ愛に依存して互いの自由を奪うことを喜ぶのなら、こんな安アパートなど捨てて路上生活をすればいい。そうなっても愛は続くのだろう?」
愕然とする精霊の隣を通り抜け、キャロルはかつてそれなりの家具が置いてあったであろう色の違う壁を軽く叩きながら「差し押さえ済みだ」と言った。
そして永遠の愛情を表現した絵画のような二人に再び視線を向ける。そこには軽蔑も憐み、何の温度もなかった。キャロルは彼らに興味がなかった。
「この狭い牢獄で自分ではないものの体臭を嗅ぎ、自分ではないものの生活音に24時間晒されて生きる。まあ愛を盾にとるのは最低限の知性と言えよう。いずれ失った時に『私はこんなに愛したのに』と責任を転嫁できるのだ」
窓の外を軽快な音が過ぎてゆく。精霊が覗き込むと、若かりし頃のキャロルが高価なワインを抱えて帰路につくところだった。
恋も友情も避けて仕事に打ち込んできた彼は念願の家を建てたばかりだ。これから一人で、優雅な音楽を聴きながらとっておきの肉とワインを楽しむのだろう。
最後に、第三の精霊が現れた。
《お前は己の最期を気にかけぬのか? 見よ、この満ち足りた晩年を》
キャロルは病院のベッドを見ていた。痩せこけた老人が大勢の子と孫に囲まれながら眠っている。老人はもはや自力で動くこともままならないが、ベッドによじ登った孫たちが手足に触れ、しきりに老人を想う家族の声を聞いている。
《彼は愛されて死ぬのだ。多くの命に囲まれて、彼は永遠に記憶される》
その時キャロルは初めて恐怖に青褪めた。
「死の尊厳まで奪われるとは、あの老人がいったいどんな罪を犯したというのか。ああ、あんなにも子作りに励んだせいか? 孫たちの瞳の色は多彩だな。確かに愛の豊かな人生だったようだ。あれが手当たり次第に種を撒いた成果ならば私は安心だ。最期の瞬間に恐ろしい拷問を受けずに済む」
精霊は絶句した。彼らが思う「至高の幸福」はキャロルにとって事実「苦痛」でしかなかった。
《孤独に死ぬことを恐れていないのか。私は最期に一人だった。誰にも励まされず、誰にも悲しみを吐露できず、孤独に絶えたのだ》
キャロルは精霊に向かって面倒くさそうに答えた。
「ご存じないかもしれないので言うが、私はあなたではないのだよ。どうぞお好きなように幸せになりなさい、私には関係がない」
《業火に炙られて誰に助けを求める。溺れそうな時に誰の手を掴む。人間を救うのは人間なのだ》
「なぜ『助かる』必要があるのかね? 死ぬ時がくれば死ぬだけだ。永遠など刹那の幻想だ」
早く終われば終わるだけ得だがな、と笑う。その微笑みを受けて第三の精霊も消え失せた。
彼らはようやく理解できたのだ。この男を救うことは不可能だ。この男は救いなど求めていない。キャロルは最初から満足していたのだと。
翌朝、キャロルはいつものように静かな屋敷で目を覚ました。そこに自分以外の生命が存在しないことをただ祝う。
カレンダーの日付を一つ進める。外界では昔誰かが救世主の復活した日と定めた祝祭が始まっていた。
キャロルは数日この城塞から出ずに済む仕度を整えていた。和やかな挨拶も、微笑ましいプレゼント交換も、愛情深い笑顔もない。
彼はいつものように一人で本を読み、音楽を聴き、好きなものを食べ、思索に耽る。
その後の人生も友人を作らず、誰も愛さず、誰からも愛されずに彼は生きた。彼が世間を捨てたおかげで世間も彼をそっとしておいてくれたのだ。
数十年後、キャロルは死んだ。どのように死に、どうやって発見されたのか、彼にはどうでもいいことだった。




