第2話恋人≠配偶者
後半に精神的嫌悪感を誘発する描写を含んでいます。
彼女が漂流する男の話を語り始めて、早速、衝撃的な事実を明かす。水面に打ち付けられ、気絶しながら流された彼は遠くの河原付近で目を覚まし、凍えながら陸まで泳ぐ。
河原に上がり、三中があらゆる記憶を失っていた事に気付く。名前すら分からないまま、徘徊していた所を警察官に保護され、パトカーで地元の交番へ連れて行かれる。
彼は妻の迎えを待たずにそこから逃げ出し、全ての関わりを絶とうとした。三中の行動が聞き手の彼、石津は理解出来ず、茉理の脚色を疑う。
「記憶喪失で、自分の嫁が迎えに来ると分かったら普通、待たないか?」
「警戒心の強い人だから、奥さんの事を信用出来なかったのかもね」
彼を納得させて、彼女は続きを話した。逃亡する事を予測していたケーキ屋の店主が車で三中を探す。やや頑固な気質の三中を懐柔出来そうな男子小学生を助手席に乗せていた。
茉理は、店長が同行させている彼から一連の出来事を教えて貰ったようだ。少年の母親はケーキ屋の副店長を務めており、別件で事情聴取を受けていた。
10分もしないうちに、一文無しの男を見つける。遊具の無い公園のベンチで座り、佇んでいた。彼の身柄を狙う女が動き出している為、店長は強引な手段を使う。
軽く説得し、2人の意見が平行線になった途端、喧嘩を始める。序盤は元国家公務員の経歴らしい優勢ぶりだったが、次第に押し返されてしまう。
両目や喉を潰そうとした手刀の突き、逆立ちしながら繰り出す蹴りは三中の高い殺意を窺える。予定より早く少年が2人の間へ入った。
優しく語り掛けると、満身創痍だった三中は逃亡を諦める。しかし、時間を掛け過ぎたせいか、公園へ招かれざる客が現れた。
鬼女の面を被り、薙刀を斜め下に構えながら三中の元へ迫る。そして、彼の首筋に刃先を向け、無理やり身柄を捕えた。2人の苦労は虚しく、三中が女に連れ去られる。
「三中君は付き合うなら楽しそうな人だけど、結婚したくないタイプだね」
「まあ、危ない奴だしな。後野は結婚したいと思うタイプってあるのか?」
「ある程度の経済力があって、優しい人かな。拘り過ぎると結婚出来ないしね」
彼女の理想は地に足が付いていた。ホストに貢ぐ為、客待ちする不衛生な女性達より年少と思えない成熟した考えを持つ。模範解答のような内容に、石津は反論出来なかった。
その条件を三中に当て嵌めると、どちらも満たしていたが、危険を纏っている。この男を伴侶に選んだ女性は相当の覚悟を持っていた。
耳が痛い結婚の話題から逃げるように、石津は誘拐犯の素性を訊く。だが、彼女は鼻へ右親指の先を添え、人差し指と中指を前後させながら奇妙に鳴き、立ち去る。
約1時間半後、『総合の時間』が始まり、担任教師は教卓で何かの書類を作成していた。黒い肉球の簪で後ろ髪を纏め、背丈の高い彼女に茉理は質問を投げ掛ける。
「ハギミーのモグアイ、元気?」
「モグアイ? ああ、家内の事ですか。はい、大分傷は治ってますよ」
2人のやり取りで飼い犬の事と早とちりし、女子生徒の1人が犬種を尋ねた。苦笑交じりに担任教師は知人から預かっている秋田犬と答えたが、茉理はその嘘を暴く。
「辛いけど、ままごと暮らしをもう終わらせないといけないよ、ハギミー。記憶が無くてもお家に帰そう」
彼女が昼休みに誘拐犯の素性をはぐらかした理由を石津は察す。適切な時機を間違って明かした場合、先のストーカー殺人未遂事件のような行動に、担任教師が出る可能性もあった。
生徒達からの人望を集める一方、彼女は1人の男へ対して異常な執着を持つ危険人物だ。ストーカーと違い、相手に想いを認められ、教員就職祝いの簪まで貰っていた。
生徒達の大半が未だ話の内容を理解し切れていない中、担任教師は茉理の提案を受け入れる。最愛の人間を手放す選択が相当辛く、身を震わせた。
「三中君の記憶が戻ってもハギミーと一緒に暮らした事は忘れないよ」
「知ったような口を利かないで下さいまし。一体誰から夢の同棲について教えられたのです?」
「オパールだよ。三中君の首を持って高飛びしないか心配で昨日、泣きながら私のバイト先に来たからね」
別の女子生徒は鼻に掛かる声で猟奇的な内容をからかい、他の生徒達も同調して笑う。更に、愛の重さが原因で未だ結婚出来ていないと先程、犬種を訊いた女子生徒は罵倒する。
通常時の担任教師なら微笑を浮かべながら聞き流すが、そうならなかった。ボールペンを机に置き、後頭部へ右手を伸ばす。
素早く簪を逆手に抜いて、正面を注視する。視線の先は茉理だった。左手で頬を掻きながら質問する。教室の騒めきが瞬時に消えてしまう。
「OK.What`s kind of girl are you?」
生気の無い双眸の担任教師は自らの職業を忘れ、捕食者と化す。彼女の意図を汲めた茉理が、はしたない女だと片腕で胸元を隠して卑下する。その答えを聞き、周りの生徒達も理解した。
軽く鼻で笑い、担任教師が左人差し指と簪を交差させて、何度も激しく打ち付ける。俯いて茉理は涙を零し始めた。彼女の仕草に艶やかさを抱き、石津が目を逸らす。
「タティ、タッタァ、タティ、タッタァ」
瞳を閉じ、担任教諭は囁くような声でメロディーを口遊む。左人差し指と中指を使い、リズムに合わせて机を叩く。段々と音が何かを連想させるのか、茉理は両耳を塞いだ。
彼女以外にほとんど効果が無く、生徒達は小声で担当教師の正気を疑う。5分が経ち、今度は左人差し指だけでゆっくりと机を何度も叩いた。
耳から両手を離し、顔を上げた茉理の視線が人差し指に向く。それに合わせ、動きの感覚は短くなっていき、音も太くなる。一点だけを見つめ、時折短い息を漏らす。
数秒もせず、謎の儀式が行われている教室の扉が開く。彼は他の男子生徒達と同じ黒い学ランを着ており、左目元を眼帯と斜めに垂らした前髪で隠す。顔の至る所に痣が目立つ。
指の第1関節同士を絡めるように重ねて、歩みながら真言を唱えた。教室中の視線を一瞬で集める。悪しき何かを取り除く作業のようだ。
「ノウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ。マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」
指の動きを止め、担任教師はその人物に猫撫で声で敬称を呼びながら立ち上がる。しかし、唱え終えたばかりの彼が、険しい表情を彼女へ向けながら茉理の元に近付く。
「ドアホ。正論言われたからって、こないな事したらアカンやろ」
「教師じゃけぇ、何をしても良えんじゃぁ」
濁声で担任教師は似非広島弁を話す。彼女の暴走を止めに来た彼が、女性の結婚対象から外される三中だ。茉理の傍でしゃがみ、健康状態を尋ねる。
首を縦に振り、彼女は彼の肩を人差し指で何度か叩く。そして、耳元へ顔を近付け、何かを囁いた。短い溜め息を吐いて、三中が了承する。
茉理の危険は想定されており、彼が事態収拾の為にどこかで待機していたようだ。制服のポケットから複数のマカロンを入れている小さな袋を出し、彼女に持たせた。
「兄様をお家に帰しますから、もう私達の事情に首を突っ込まないで下さいましね」
茉理の耳に担任教師の声は届いておらず、三中の動きを目で追う。近くの女子生徒の所へ行き、オランウータンのぬいぐるみを回収して、出入口へ向かった。
彼の背中を見送りながら彼女が呟くように唇を動かす。そして、瞳を閉じ、髪飾りの黒いリボンを人差し指で撫でた。
ハギミーの珍行動解説。
〇頬っぺたボリボリ質問
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のオマージュ。アサルトライフルの代わりに、簪で再現し、処女か非処女のどちらかと訊いています。
〇人差し指と簪を交差させる
井上ひさし著『握手』のルロイ修道士のオマージュ。『お前は悪い子だ』という意味を持ちます。
〇人差し指と中指で机を叩く
『エマニュエル夫人(2025年版)』のオマージュ。鑑賞した人間だけに伝わるメッセージがあります。
〇ゆっくり人差し指で机を叩く
上記と同じオマージュ。性交渉の暗喩です。