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第4話 幻影の狭間

1.  黒影とゲリラの女兵


 「動かないで……日本兵!」


 汗と泥に濡れた女兵士の顔。その瞳を見た瞬間、勇馬の心臓は跳ね上がった。


 ——アンじゃないか!


 信じられない。目の前の兵士は、あの穏やかな笑みを浮かべていた彼女と、同じ顔をしていた。


 だが今は狩人が獲物を仕留めるような眼差しで、確かに勇馬を敵として見据えていた。


 周囲からは乾いた銃声と怒号が絶え間なく響く。土煙の中、勇馬の足元に砲弾が弾け、土と血の匂いが肺を満たした。


 森そのものが彼を呑み込み逃げ場はない。引き金にかけられた指が、わずかに震えた——。


 その時、数発の擲弾が轟、大地が揺れた。


 森の中から漆黒の影が疾風のごとく飛び込んでくる。


 森を裂くような嘶きが響いた。振り向いた勇馬の目に、漆黒の影が飛び込んできた。


 ——黒影


 夢の中で見たままの馬が、現実に勇馬を守るかのように割って入った。


 銃口が逸れ、弾丸は樹皮を砕き火花を散らす。女兵士は弾き飛ばされるように茂みに倒れ込んだ。


 勇馬の手に熱い息を吐く黒影の頸筋が触れた。


 次の瞬間には、反射的に黒影の鬣を掴みその背に飛び移った。


 銃声と怒号が嵐のように背後から追いすがる。


 しかし黒影の蹄は地を裂き、森を貫く稲妻のように駆け抜ける。


 ——これは夢なのか、それとも……。


 黒影の大きな背に揺られ、勇馬はその鬣に必死にしがみついていた。


 黒影の蹄は止むことなく森を突き抜けた。木々の間を駆け抜け、谷を越えやがて視界が開ける。


 そこには、苔むした石段と崩れかけた屋根を抱えたパゴダ(仏塔)があった。


 荒れ果てた寺の境内の小さな堂の前に、軍馬が数頭つながれ、兵士たちが弾薬箱や糧秣の袋を乱雑に積みこんでいた。寺は既に補給部隊と師団本部の拠点として利用されていたのだ。


 黒影はためらうことなく境内に駆け込んだ。


 兵士たちが驚いた顔でこちらを振り向く。


 「おい、黒影、黒影か?!」


 「戻ったぞ!岡田伍長!黒影が戻ってきました!」


 歓声が上がった。


 誰もが知っている名馬の姿に、兵士たちの目が一斉に輝く。


 その時、本堂の奥から一人の下士官が煙草を咥え乍ら姿を現した。


 軍帽を脱ぎ、鋭い眼差しで黒影を見据える。


 だがすぐに、その視線は黒影の背にしがみつく勇馬へと移った。


 「……お前、誰や?」


 勇馬は言葉を失う。兵士たちの視線が一斉に突き刺さり、喉がからからに乾く。


 その男の顔は紛れもない——祖父、岡田将一その人だった。


 「じ、じいちゃん…?」 勇馬は声にならない声を出した。


 その下士官は、懐かしい紀州弁で話しかけてきた、若かりし頃の勇馬の祖父だった。写真でしか知らなかった顔が、目の前で汗を拭い、土の匂いをまとっている。まるであの“祖父の日記”から抜け出してきたように。


 一人の兵士が近寄り声を張り上げ、


 「貴様!今何と言ったぁ!!!」


 問い質そうとした兵士を将一が遮った。


 「おまえ、日本人なんか?」


 低く呟き、じっと勇馬を見据える。


 軍服も階級章もない。にもかかわらず、この戦地の奥深くに現れた。 なぜ此処ここにいるのか。理由はまるで掴めない。


 だが——黒影が背に乗せて帰ってきた。


 その事実だけで、将一の胸に言葉にならぬ感覚が広がった。


 「何者だ!貴様、どこの部隊から来た?!」


 先程の兵士がまた詰め寄ったが、将一はその場にいた兵たちに向かい、落ち着いた口調で諭した。


 「黒影が選んで連れてきたんだ若造や。粗略に扱うたらあかん」


 兵たちはざわめき、それでも勇馬を怪訝な目で見ている。


 「しかし、岡田伍長!こいつは敵のスパイかもしれません!」


 敵か味方かもわからぬ若者を、将一は“黒影が導いた者”として扱おうとした。


 「まぁまぁ、待て待て…。ところでお前、その恰好はなんや?」


 馬から降ろされ、兵士に腕を掴まれたままの勇馬は唇を開きかけたが、声にならなかった。


 ——どう説明すればいい?


 気づけば自分は、見知らぬ兵士たちの中に立ち、夢に見た黒影に導かれてここまで来てしまった。しかし夢だと片づけるには、目の前の光景があまりにも現実的過ぎる。


 「……俺は、その……」


 言葉を探しても、喉は乾ききって声が出ない。ただ胸の鼓動だけが、耳の奥で騒がしく響いていた。


 「その格好……何処の師団の者だ?」


 一人の兵士が勇馬のジーンズを指でつまみ、怪訝そうに顔をしかめた。


 「泥にまみれとるが、軍服でもなければ作業着でもない。……やはり怪しいぞ、貴様!」


 兵士たちが色めき立つと、黒影が鼻を鳴らして勇馬の肩に頸を寄せた。


 その仕草に、将一の目が光る。


 「……黒影が落ち着いとる。こいつは敵やない。おそらく斥候か何かやろ。俺が預かる」


 「岡田伍長!しかし——」


 「黙っとれ。縄をかけるな。こいつを縛るなら、まず黒影を抑えなあかんぞ」


 将一の一喝に、兵士たちは息を呑み、勇馬に近づくのを躊躇した。


 勇馬は必死に唇を動かすが、言葉は出てこない。ただ胸の奥で、説明できぬほどの混乱と恐怖が渦を巻いていた。



2.夜営の一隅


 焚き火の炎がゆらめく影の中、将一は勇馬を人目から離した。


 「……正直に答えろや。お前、いったい何者や?」


鋭い眼差しが突き刺さる。


 勇馬は必死に息を整え、声を絞り出した。


 「……俺は、日本人、いや、日本兵です。イギリスの捕虜収容所から脱け出してきました」


 将一の眉がわずかに動いた。

 

 「……そのズボンは?」


 「英軍の兵士から奪ったんです。脱走の時に。……だから、こんな格好で」


 勇馬は泥にまみれたジーンズを指でつまみ、苦笑を浮かべた。 上半身は空港の有名衣料店で買ったTシャツは、汗と泥で黄ばんでいたためか、汚れた下着程度にしか見えなかったのだろう。


 将一は黙って勇馬を見据える。


 「……正直に答えろ。お前、どこの部隊のもんや。軍服もなく、この山奥で何をしておる」


 勇馬は喉が焼けつくように乾き、唇を震わせた。


 何を言えばいい。気は焦る一方だ。


 「……俺は、その、あの……」


 また声が詰まる。だが胸の奥から、勝手に言葉が零れた。


 「……シッタン川を渡っちゃ駄目です。あそこは……地獄になる」


 一瞬、静寂が落ちた。


 「……今、何と言うた?」


 勇馬は顔面が蒼白になった。


(しまった……!またどうしてこんなことを……)


 「シッタン川の戦いなど、まだ軍の命令にも上がっとらん……」


今度は将一が訝しがった。


 勇馬は震える声を絞り出した。

 

 「敵の陣地は、この山を越えた先の谷にあります。谷を北から南へ川が流れ、その右岸の段丘上に砲座が二つ構築されている。高台からは谷全体が見渡せ、森を抜けて渡河する兵の動きもすぐに察知できます。夜間には斥候が森を巡回し、東側の斜面には小規模の見張り火がともる。南へ伸びる街道は補給路で、昼間はトラックがひっきりなしに行き来し、アメリカ軍に供与されたM3中戦車が数台待機している。ここで、撤退中の部隊を迎え撃つ――その作戦です、本当です!」


 言葉を吐きながら、勇馬の心臓は破裂しそうだった。


 ——さっきスマホで読んだ戦史の断片を、まるで自分が見てきたかのように語っている。


 将一は黙ったまま、改めて勇馬を見据えた。


 その瞳の奥では、疑念と信頼がせめぎ合っていた。


 (この若造……なぜ軍装もしてへんのに敵の動きを知っとるんや? 敵の手先かもしれん。しかし……)


 ふと、勇馬の横顔が月明かりに浮かんだ。


 その輪郭に、どこかで見たような面影が重なった。 将一は、戦死した弟の面影が、勇馬に重なり不思議な親近感を覚えた。もしかすると、遠い縁者なのか…


 喉元まで出かかった問いを呑み込み、将一は低くつぶやいた。


 「……お前、何者や?」


 兵士たちのざわめきが遠のき、二人だけの空気が流れる。


 やがて将一は一歩踏み出し、勇馬の耳元に押し殺した声で告げた。


 「ええか、この話は俺とお前だけのことや。他の兵に知られたら、スパイ扱いで撃ち殺されるやもしれん。……だがわしの黒影が選んで連れてきたんや。それに……なんとなくお前を見てると、妙に身内のような気がしてしゃぁない」


 勇馬は安堵と恐怖が入り混じる中、ただ必死に頷くことしかできなかった。


 

3.パゴダの連隊本部


 鬱蒼とした森に佇む苔むした古寺は 、今や瓦は崩れ、柱には弾痕が残り、雨漏りを防ぐために軍用のシートが粗雑に張られている。 かつては僧の読経が響いたであろう仏塔内は、今や地図や伝令の声に満たされ、祈りの場は完全に戦場の心臓部へと変わり果てていた。


 蝋燭とランプの明かりが揺らめき、仏像の影が壁に長く伸びて、どこか不気味な静けさを漂わせる。


 勇馬は、その張り詰めた空気に未だに現実とは思われない感覚が全身を支配していた。


 兵たちはなおも訝しげに唇を尖らせたが、将一は首を横に振った。


 「この部隊は補給と兵站が命や。人手は多い方がええ。こいつに荷運びの一つも任せてみたらどうや」


 勇馬はその瞬間、自分がもう後戻りできない道へと足を踏み入れたことを悟った。


 「あの、お、岡田伍長殿、僕は…いや、私は馬に乗れます!実家はかつて、いや、馬力運送業をしております!馬の扱いには慣れております!」


 勇馬はまたしても、“しまった!” と心の中で叫んでしまった。


 将一は驚いたように目を大きくして、間髪を入れずに言った。


 「ほぉ、馬力運送やと?お前んとこもわしと同じ商売をやっとるんか?偶然やなぁ、ほなわしの輜重部隊に入ってもらおか」


 持っていた煙草をぽいと地面に投げ捨てて、“ほな、頑張れよ” とだけ言って去っていった。


 

4.ゲリラ討伐戦


 夜明けとともに、古寺を拠点とした連隊本部に緊張が走った。


 師団長から直々の伝令が下ったのだ。


 ――大河の対岸に孤立した撤退兵を救い出し、無事にタイ国境まで送り届けよ。


 それは、連敗に次ぐ連敗で疲弊した友軍の最後の救出作戦だった。だが道中には、森の村落を拠点に日本軍の補給路を脅かすゲリラが潜む。彼らを排さねば渡河、救出作戦は成立しない。ゲリラの討伐、そして渡河――その成否が、本隊の命運を握っていた。


 イギリス軍に雇われたゲリラ部隊は敗走する日本軍を殲滅するために、蜘蛛の巣のように散在していた。彼らの任務は二つあった。一つは、日本軍の補給線を襲撃し、糧秣や弾薬の流れを寸断すること。もう一つは、密林に覆われて外からは決して見えない日本軍の拠点や集積所を嗅ぎ当て、座標をイギリス軍に報せることだった。


 日本兵が肌で感じるゲリラの脅威は、もっと切実だった。夜ごと響く銃声、補給隊の馬や牛がいつの間にか姿を消す。歩哨に立った兵士が朝には戻らず、見つかったときには喉を掻き切られていた。森のどこに潜み、誰が味方の顔をして密かにイギリス軍に通じているのか、誰にも分からない。


 “やはり、史実は間違ってなかったのか?”


 勇馬は事前に本や資料で調べていたことが、今まさに現実に目の前に起ころうとしていることに、背筋が凍る思いがした。


 「おい、これ持ってけ!」


 年配の兵が一丁の騎銃を手渡してきた。


 「四四式や、最新式のやつや。心許ないが丸腰よりはマシやろ」


 勇馬は震える手で騎銃を受け取り、手に馴染まぬ鉄の感触に身震いした。自分が持つにはあまりに場違いな道具。しかしこれを握った瞬間から、彼もまた「兵士」として数に数えられてしまったのだ。まだ状況がのみ込めぬまま、背嚢の重みと銃の冷たさだけが現実を告げていた。


 鬱蒼とした森の獣道を隊列はゆっくりと進みだした。湿気を帯びた空気の中で鳥の声は次第に消え、代わりに兵たちの荒い息と、補給部隊の馬たちの蹄鉄の音が響きわたる。勇馬は、黒影の黒々とした背を目にとどめながら、自分がいまどこへ向かおうとしているのかを必死に問い続けていた。


 列の先頭には、堂々たる黒鹿毛の軍馬――黒影が歩んでいた。だが、その背にいるのは勇馬が見知ったはずの主ではない。輜重兵の伍長である将一が黒影の手綱を取っていない。黒影の背を占めていたのは、小隊長の三田村曹長である。


 「この馬、実に従順で力強い。戦場で生き残るのはこういう軍馬だ!」


 手綱を握りしめながら、三田村は誇らしげに息巻いた。その横顔には、自信と同時にどこか苛烈な気配が漂っている。


 一方、将一の傍らには、ぬかるんだ泥道を重荷を背負った駄馬たちが、四脚を取られながらも黙々と進んでいた。鯨は山砲の砲身を、梅は砲架を、そして紀虎は弾薬箱を両脇に括り付けられている。汗に濡れた毛並みが鈍く光り、一歩踏み出すごとに泥の中へ沈む。


 「曹長、これ以上荷を増やすのは無茶ですわ。馬ら、持ちまへんで!」


 将一の三田村に対する言葉に、幾何かの反抗の意思が混じっている。


 三田村は振り返り、あざ笑うように言った。


 「ふん、伍長! 所詮、馬は道具だ。使えるうちに使い潰す。それが戦だろう!」


 黒影の耳が小さく揺れた。かつて主と駆けた誇り高き黒馬は、新たな主の冷たい声に違和を覚えているかのようだった。


 三田村の甲高い声が続いた。


 「遅れるな! この道は奴らが好んで仕掛けてくる。気を抜けば命はないぞ!」


 三田村は将一とは同い年だが、三田村は陸軍学校を出た正統派だ。浅黒い顔に刻まれた皺は厳しさよりも苛立ちを思わせ、鋭い目つきで兵たちを睨めつけている。軍帽の下から覗く額には玉の汗が光り、声はどこか怒鳴り散らすように耳障りだった。


「曹長、そんなに喚かんでも兵はついてきますがな…」


 将一が呆れたようにぼやいた。


 「黙れ!貴様は馬の世話だけしておればいいんだ。俺がこの部隊を率いる以上、命令に口を出すな!」


 その言葉に周囲の兵たちは小さく舌打ちをした。三田村の気性の荒さと自己顕示欲の強さはよく知られており、誰も進んで口を開こうとはしない。兵たちの中で彼は、指揮官であるにも関わらず部下の兵士たちから疎まれていた。


 勇馬はただ黙ってやりとりを見つめていたが、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。この男と同じ列に加わり、銃を握って進むことに奇妙な居心地の悪さを覚えたのだ。


 三田村は勇馬の存在にもすぐに目をとめた。


 「おい、そこの若造!見かけぬ顔だな。徴兵名簿にあったか?」


 勇馬は返答に窮した。だが将一が一歩前に出て遮った。


 「こいつは俺が面倒を見ますよって、余計な詮索はせんといてください…」


 「ふん……怪しいもんだ。まあいい、役に立たねば置いていくぞ!」


 吐き捨てるように言い放つと、三田村は前方へ歩みを進めた。


 勇馬は撃ち方も知らない騎銃を担ぎながら、


 ――この部隊には、ただ敵だけでなく、味方の中にも争いの火種があるな、と憂鬱な気になった。


 先行していた三田村曹長が黒影の歩みを止め、右手のこぶしを挙げて静止の合図を出した。茂みの向こうに何かの影を追っている。数人の兵士たちが音もなく前方に出て一斉に銃を低く構えた。


 湿った土と葉の匂いが充満する細い泥道で、将一と勇馬は馬たちを留めて息を殺し草むらに待機する。


 頭上に鉛色の雲が圧し掛かり、にわかに閃光が走り、轟き凄まじい豪雨が部隊を襲い始めた。


 「いたぞ!攻撃開始!」


 三田村の叫び声とともに茂みが割れ、森の木に身を隠していた数人のゲリラが飛び出してきた。粗末なライフルを手に、迷彩布で身を覆った彼らは素早い動きで撃ってくる。そして、すぐに森へ散っていく。


「一人も逃がすな!」


 三田村の声が馬上から響き、兵たちが一斉に追撃を開始し、銃声が土砂降りの雨脚を突いて木立の中に鈍く響いた。


 その中に——ひときわ勇馬の目を奪う影があった。


 汗と泥に塗れ、破れた軍服を身にまとった一人の女兵士。黒く長い髪を頭巾で押さえつけ、瞳は鋭く光っていた。


 女と目が合い勇馬は息を呑んだ。


 ——あの時、銃口を向けてきた女だ…アン


 刹那、彼女の瞳には獲物を狙う冷たさと、どこか躊躇うような影が同時に宿っていた。


 勇馬の胸が騒ぐ。なぜ撃ってこない? ほんの一瞬の間に彼女の唇が震えたように見えた。


 しかし、彼女は背後にいた仲間に促されるように木立の奥へと消えてしまった。


 勇馬は、自分も引き金を引けば狙える距離だったのに、身体が動かなかった。


 アン、その女の眼差しには、怒りと悲しみ、そして説明のつかぬ迷いを感じたからだ。


 銃弾が飛び交う中、三田村を乗せた黒影は電光石火の如く駆け出し、逃げるゲリラの一人を蹴り倒す。


「そいつを拘束しろ!」


 銃声と怒号が遠ざかり、森は再び湿った沈黙に包まれる。ゲリラ兵たちは森の奥に姿を消し、日本軍は深追いを避けて陣へ戻ることになった。


 縄で縛り上げられた男は、鋭い目つきで兵たちを睨み返していた。痩せた体格にくっきりとした鼻梁と褐色の肌。


 「ビルマ人か、国民軍の兵士じゃないか、俺たちの味方じゃないのか?!」


 日本語は通じず、部族訛りの英語で何かつぶやいている。


 「おい勇馬、通訳せえ!」


 将一が声をかけると、周囲の兵が一斉に勇馬を押し出した。


 戸惑いながらも勇馬は得意の英語で通訳をすると、男はしばし沈黙した後、薄笑いを浮かべ途切れ途切れに言った。


 “明日、朝、撤退する日本兵を、空と陸から焼き尽くす…”


 撤退する友軍を襲う罠——それは動かぬ事実だった。


 勇馬は思わず続けた。


 「それで、あの女、彼女な何者なんだ?」


 「……」


 「答えろっ!」


 三田村が拳で男を殴りつける。血が口端に滲むが、その顔には恐怖でも憎悪でもない、もっと深い何かが表れている。

 

 その時、勇馬の目の前で男が兵の腰から刀を奪い、躊躇うことなく喉へ突き立てた。鮮血が迸り、絞り出すような慟哭の声を上げた。


 「日本、万歳!」


 血に染まった唇がわずかに動き、勇馬の耳へ囁きのように細い声が届いた。


 「……ミオ……正義の戦いを……」


 幻か現実か判然としない。だが、その言葉が勇馬の胸に鋭く突き刺さる。


 今、目の前で命を絶った男は、彼女を守ろうとしていたのかもしれない――あり得ぬはずの推測が、逃げ場を失った影のように心の奥に居座った。


 勇馬は声を飲み込み、その秘密をひとり抱え込むしかなかった。


 “ミオ…?” ―アンにそっくりのその女の名は“ミオ”なのか?


 将一は横目に勇馬の硬い表情をとらえながらも、あえて何も言わず前を向き続けた。


 ――その瞬間から、勇馬は知らぬ間に、後戻りのできぬ運命へと踏み込んでいた。


 捕虜の男が自決するのを見ていた三田村は冷徹な眼差しで、


 「撃ち殺せば済むことだ!」 と吐き捨てた。


 将一は肩をすくめ、ため息交じりに言った。


 「明日また出直すしかないな」


 救出作戦を妨害するゲリラ掃討戦は、まだ終わりそうにない。


 だが、勇馬の胸には別の思いもあった。


 ―もう一度、“ミオ”に出くわすかもしれない。


 しかし、シッタン川までの道は遠く、二千メートル級の山々が幾重にも立ちはだかっていた。


 勇馬の胸には本で読んだあの惨劇の記憶が重なり、不穏な影を落としていた。


 試練は、まだ始まったばかりだった……。


(第5話に続く)

 

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