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第2話 記憶の地へ

1.菜穂子の渡航許可


 勇馬の心には、祖父、将一の日記に残された一文が、今も静かに揺らぎ続けていた。


 “ワシの代わりに探してきてくれ…”


 夢の中で祖父が語りかけるその声は、まるで何かを託すようだった。


 将一の日記に記された「黒影号」のことが、どうしても頭から離れない。


 “そうだ、祖父が戦った戦場へ―そして“あの馬”を探しに行こう”


 翌朝、勇馬は実家から持ち帰った古い木箱を、押し入れの奥からそっと取り出した。色褪せた写真と、あの日見た日記。軍服に身を包み、凛々しく軍馬にまたがる将一。その馬の額には、うっすらと星型の白い模様が浮かんでいた。


 “行くしかないな…”


 会社に入って五年、有給をまとめて取ったことはなかったが、勇馬は夏に一週間の休暇を申請した。学生時代、バックパックを担いで各国を旅した頃の冒険心が、再び胸を騒がせていた。


 勇馬には同い年の妻・菜穂子がいた。昨年結婚式を挙げ、彼女は映像制作会社に勤めている。タイへの新婚旅行以来、二人で旅行らしい旅行はしていなかったが、今回だけはどうしても一人で行きたかった。ある日の夕食時、勇馬は意を決して切り出した。


 「前に話してた祖父のことなんだけど……この夏の連休に、ミャンマーに行こうと思ってるんだ。祖父が戦った戦地を巡る旅というか。それに……」


 菜穂子は小首をかしげて続きをうながした。


 「それに?」


 「……“黒影”っていう馬のことなんだ」

 

 「ミャンマー? 黒影?」

 

 菜穂子は瞬きをして聞き返す。

 

 「なんだか時代劇に出てきそうな名前ね?」


 「将一爺さんの遺品に、その馬のことが書いてあったんだ。昔、戦地で一緒に活躍していたみたいで……ずっと気になってて」


 菜穂子は首を縦に振りながら、ふんふん、と頷いた。


 「で、その馬を探しに行くってわけ?」


 「実は夢に出てきたんだ。じいちゃんが『黒影はまだ向こうにおる』って」


「夢に?」


 少し驚いた顔をした後、彼女はふっと笑った。


 「なんだかロマンチックね。お爺さんからのメッセージみたい」


 「笑わないのか?」


 「笑わないよ。むしろ、そういうの、あなたらしいと思う」


 菜穂子はわざとらしく肩をすくめて、いたずらっぽく笑う。


 「うちの制作班に持ち込んだら、番組一本できそうな話だわ」


 勇馬は苦笑するしかなかった。


 「……いいわよ。私は高校時代の女友達と熱海にでも行ってのんびりしてくるから。あなたもちゃんと帰ってくること。それが条件」


 「うん、ありがとう。もちろん帰って来るさ、ははは」


 意外なほどあっさりした妻の言葉に、勇馬は拍子抜けしつつも背中を押された気がした。だが心はすでに遠い熱帯のジャングルへと飛んでいた。


 「ねえ、ちゃんと聞いてる? 私の手作りハンバーグ、美味しいでしょ?」


 少し怒ったような菜穂子の声に我に返り、慌てて答える。


 「う、うん、美味しいよ。いやぁ、実に美味しい!」


 「もう、心ここにあらずって顔して! 美味しくないのかと思ったわ!」


 呆れたように菜穂子は笑った。


 ―こうして妻、菜穂子からの“渡航許可”は難なく下りた。


 

 それからというもの、勇馬は仕事を終えると夜な夜な戦時資料に没頭するようになった。


 読書があまり好きではなかった勇馬だが、いきおい軍馬や戦争に関する書籍を買い集め読み漁った。ネットでは旧日本軍の輜重隊の記録映像や帰還兵の証言など調べ続けた。気になる書籍や資料があれば出版社や投稿者にも直接連絡をして情報を集めた。


 そして祖父・将一の稼業だった馬車運送業、岡田組の馬たちが戦時中に徴発され、南方の激戦地へ送られていた記録の断片も見つけた。だが詳細な資料は戦後の混乱や空襲で失われたのか、何も残っていない。


 なぜ自分のルーツに繋がる大切な手がかりだけが、歴史から抜け落ちてしまったのか、焦燥感が募るある晩、勇馬はふと一文に目を止めた。


 ―軍馬は物言わぬ兵器


 冷たく胸に沈む言葉。


 軍馬として徴発され戦地へ送られたが、彼らは恐れ、飢え、痛みに耐えながら命を賭して兵士と生死を共にした。砲弾をかいくぐり、死線を越えた彼らは、祖父の傍らにいた黒影は、まぎれもない戦友だったはずだ。


 祖父の言葉がよみがえる。


「馬を探しとるんや……黒影をな……」


 勇馬は目を閉じた。高層マンションの自宅の窓の外には都会のネオンが散らばり、灯火のように過去へ彼を導いているかのようだった。



2. 過去への旅立ち 


 数日後、朝の羽田空港。


 磨き上げられたガラス張りのターミナル、滑らかな金属のアームが伸びる搭乗ゲート。電子音が控えめに響き、ぼんやりとした無機質なアナウンスが空港内に流れていた。


 勇馬はチェックインを終え、出発ターミナルの奥まった静かなカフェの窓際のテーブルに、勇馬と菜穂子は向かい合って座っていた。 


 まるで世界の隙間にできた静かな止まり木のようだった。 控えめなジャズが流れ、磨かれたガラス越しに夏の朝の強い光が差し込んでいる。


 冷めかけたカプチーノと、口をつけただけのサンドウィッチ。


 「……本当に、ひとりで大丈夫?」


 菜穂子がカップを両手で包みながら訊ねる。


 勇馬はゆっくり頷いて口を開いた。


 「たぶん、大丈夫。 というか……今、行かなくちゃいけない気がするんだ。多分、自分の心が呼ばれてる感じかな、“自分探し”というより、“先祖探し”っていうのかな?」


 彼女は一瞬視線を伏せてから、窓の外を見た。滑走路に向かって飛行機がゆっくりと旋回していく。


 「”先祖探し”…変なこと言うね。でも、なんとなくわかる気がする。今のあなた、ちょっと“ここ”にいない感じするから」


 勇馬は目を細めて笑った。


 彼女の言葉が、どこか正確に胸を射抜いた気がした。


 「“心此処にあらず”、ははは、そうかもな?」


 勇馬は少し照れ笑いをしてコーヒーを飲みほした。


 滑走路で離陸していく飛行機のエンジン音が低く響き、熱気の揺らぎがガラス越しに風景を歪ませていた。二人は言葉を交わすことなく、その銀色の機影が一直線に空へと吸い込まれていく様を静かに見送っていた。


 「そろそろ行くよ、すぐに戻るさ。……お土産、必ず買ってくるよ」


 そう微笑んで菜穂子の頬にそっとキスをして、搭乗口へ歩き出した。


 勇馬の乗った機体がゆっくりと滑走を始め、徐々に加速し外の風景が矢のように流れていく。一瞬で地上から引き離され、眼下には東京湾とビル群が広がり、機体は雲の海を突き抜けていく。


 勇馬はエコノミーシートの窮屈な座席に体を沈めながら、“時の狭間”に吸い込まれるようにひとつの時代から、もうひとつの時代へと滑り込んでいくのを感じていた。


 勇馬は学生時代、偶然誘われた乗馬体験をきっかけに、馬の魅力にのめり込んだ。オーストラリアの大自然や、南国タイのビーチでも、馬に乗る楽しさを追い求めた。


 そして今の仕事…人とモノを運び、時をつなぐ「ロジスティクス」という仕事の選択も、どこかで先祖の稼業に導かれていたのかもしれない。馬を使って荷を運び、人とを繋ぐという営みの中に、勇馬は自分の中に流れる何かを感じていた。それは、もしかしたら先祖が代々馬と生きてきた、その“魂の記憶”に触れようとしているのではないか——


 シートベルト着用のサインが灯る。


 窓の外では、雲海が薄くちぎれ、その向こうに深い緑の大地がうっすらと顔を覗かせていた。緑のジャングルのところどころに黄金に輝くパゴダ(仏塔)が見え隠れする。国民の大半が上座部仏教を信仰しており、国中いたるところに仏教寺院が建っている。


 祖父、将一の色褪せた日記帳のページの中に、黄金色の丸い仏塔のスケッチを見たことを思い出す。上空から見下ろすその景色を、間近で自分の目で確かめてみたい、毎晩、ネットの地図を開いてはアラカン山脈を縦断する細い道路を辿り、かつての戦闘の激戦があった、見慣れないビルマ語の地名や、蛇のように曲がるジャングルの川の名前も覚えた。


 「過去への旅立ちだな…」


 タイ・バンコクで乗り換えた勇馬の乗ったプロペラ機は、ミャンマー中央部のネピドー国際空港へ滑るように降り立った。


 首都ネピドーは軍事政権になって以来、旧首都ヤンゴンから遷都された。軍部と民間の共用の空港内は殺風景で、数人の銃を肩にかけた兵士がロビーの片隅に立っていたり、発着の飛行機が少ないせいか、申し訳程度に営業してるラウンジにはほとんど人はいなかった。


 入国審査のカウンターも閑散としていて、列に並ぶのは欧米からの観光客らしい男女が数組と、地元に戻ってきた感じの乗客だけだった。勇馬は肩から斜め掛けにしたバッグを握り直し、ゆっくりと順番を待った。


 軍服のような制服を着た入国審査官は、無表情でパスポートをめくり無言のまま判を押す。その乾いた音がやけに大きく響いた。


 勇馬は係官に軽く会釈しゲートを抜ける。拍子抜けするほどあっけない入国だった。到着ロビーに出ると、湿った熱気とともに、鼻をつく香辛料か熟れた果物のような匂いが鼻をくすぐった。


 到着ロビーに人影はまばらだが、その中に手書きの日本語で「ユウマ・サクライ様」と書かれたボードを掲げている若い女性が立っていた。


 「ミスター・ユウマ? こんにちわ、ミャンマーへようこそ!」 


 彼女は流ちょうな日本語で勇馬に声をかけてきた。


 浅黒い肌に白い歯の笑顔、大きな瞳。胸元には旅行代理店の名札が揺れている。腰まで流れる藍と緑のロンジーをまとい、勇馬に話しかけてきた。


 勇馬は反射的に少し上ずった声になり、


 「ああ、あの…勇馬です。桜井勇馬。あの、今回は宜しくお願いします!」


 手に持っていたパスポートを鞄にしまう手が何故か震えている。


 「私はA,U,N,G…アンです、アンと呼んでください。これから村までご案内します」と告げた。


 アン—これから先、勇馬が異国の地で長く行動を共にすることになるミャンマー人のガイドだった。


 空港の外へ出た途端、太陽が頭上に居座り、熱気と湿気が一気に押し寄せる。


 人気のない広い駐車場の片隅に、古い日本製の四輪駆動車がぽつんと停まっていた。アンに案内され勇馬は後部座席に腰を下ろす。


 中古車とはいえ、海外でも日本車に乗れることにほっとした勇馬だったが、シートベルトが壊れていることに気づいたのは、すでに腰を落ち着けた後だった。


「アン、このシートベルト、壊れてますよ…」


 金具が噛み合わず、カチッという音がしない。運転手とアンが覗き込み、二人そろってニヤッと笑う。


 「ああ、ミャンマーの車ってたいていそんなものですよ、心配しないで、ほら?」


 そう言ってアンが自分の席の脇を指す。助手席も、運転席のシートベルトも壊れていたのだ。


「我社の運転手はベテランですからご心配なく!」


 勇馬は狼狽する気持ちを抑えながら作り笑いをするのが精いっぱいだった。


 アンは、勇馬から渡航前に依頼されていた祖父の日記に記されたスケッチや資料を、丹念に調べていた。特に、スケッチに添えられたビルマ語の文字列については、彼女自身が解読し、その意味を突き止めていたのだった。


 アンは調べた資料ファイルの数ページを揺れる車内で勇馬に見せながら、


 「はい、では今からこの村を目指して出発しますね」 


 「勇馬さんの資料を調べたら、これらの文字は村の名前と地名を示しています。そして、この仏塔は…実は私が生まれた故郷の村の近くにあるんです!」  


 勇馬は “えっ、そうなの?” と息を呑んだ…   


 アンは少し間を置き、静かに続けた。


「以前祖父から、昔日本の兵隊さんが来たと聞いたことがあります。祖母は子供のころ、険しい山道を行く、たくさんの兵隊さんと一緒に数頭の馬を見たと言っていました…」  


 勇馬はまた同じように少し声が上ずって飛び上がらんばかりに、


「えっ、そうなの?」と叫んだ。


 祖父、将一の描いた絵が、アンの故郷と結びつくとは驚きを隠せなかった——。その道筋は、勇馬が渡航前から想像を掻き立てながら、ネットの地図の上で何度もなぞっていたルートだった。祖父が残した痕跡を追い、かつての戦場で命をつないだ馬や人々の記憶を辿るためといえ、まさかアンの故郷の村を目指しているのかと思うと、勇馬は胸に不思議な鼓動を感じたのだった。 そしてアンの祖父が見たという、日本人の兵隊と馬たち…。


 勇馬は道中の安全を祈りながら、その“日本車”は静かに走り出す。


 空港周辺の無機質な政府建物の群を抜けるとすぐに赤土の道が始まった。窓の外には、バナナの葉や竹林が途切れなく流れ、時おり小さな村が現れては消えていく。赤土の道はさらに細くなり、湿った泥土の道に代わり、両側から迫るジャングルの緑が車を包み込むように覆い始めていた。


 やがて、空の色がじわじわと鈍く濁り、湿った空気が肌にまとわりつく。遠くで雷鳴が低く唸った。雨季特有の重たい雲が山の稜線に垂れこめ、まだ昼間というのに、薄暗くなった森の上空からは今にも大粒の雨が降り注いできそうだ。


—あの日、祖父・将一が見たのも、空はこんな色だったのだろうか。


 突然のスコールが行軍の列を襲い、視界は一瞬にして白い水煙に閉ざされた。ぬかるんだ山道で、前方で防戦を続ける陣地へ向けて、兵士と軍馬は荷の重みに耐えながら必死に踏ん張り、滑らぬよう慎重に足を運ぶ。自らは背に負った糧秣、弾薬箱、医療資材——どれひとつ欠けても前線は持たない。砲声と雷鳴が交互に響き、密林の湿った空気を震わせる。


 泥に足を取られるたび、兵たちは歯を食いしばり、馬の首筋を叩いて励ました。その中に、泥と汗で顔を汚しながらも前を見据える若き日の将一の姿があった。手綱を握る彼の横には、黒い鬣を雨に濡らした軍馬の影——祖父が語った「黒影」が、黙々と荷を運び続けていた。


——次の瞬間、勇馬ははっと目を瞬いた。


 耳に届いたのは砲声ではなく、天井を叩く大粒の雨音とワイパーがフロントガラスを擦る音だった。 現実の彼は、雨季の湿った空気と泥土の匂いの中、時折荒れた抜かるんだ道でスリップ音を立て、揺れる四輪駆動車の後部座席に座っている。


 シートベルトの金具は壊れたまま、腰は時折、車体のバウンドで浮き上がり、窓の外ではジャングルの葉が雨に光って流れていった。 勇馬は少し不安になりながら、


 「あの…なんだか豪雨のジャングルの中を走ってるようで、あの…この車で大丈夫ですか?」


 不安そうな声で尋ねる勇馬を励ますようにアンは笑みを浮かべて言った。


「この辺りの山道は雨季にはすぐに川みたいになります。でも運転手は慣れてますから大丈夫ですよ」


 それでも泥土の道にタイヤを取られ、左右に揺れながら坂道を上り、下りでは増水した小川が道路を横切り、さすがの運転手も慎重に減速して渡っていく。


「あああ…そうなんですね…」と、勇馬は一抹の不安に力なく答えるだけだった。勇馬の緊張のせいか、車内のフロントガラスが曇り、アンは手に持ったタオルで拭きながら、


「大丈夫ですよ、この谷を登れば村に着きます…」


 勇馬はアンの言葉を信じるしかなかったが、なるほど、滝のように降り注いでいた豪雨の雨脚が少し弱まり、車は谷を登り切った。車の通気口からか、湿った空気に焚き火の匂いが混ざる。


 平坦な道に出ると少し視野が広がり、低い雲の合間に竹の垣根や屋根の低い家が、ぽつぽつと現れる。


 「あれが私の生まれた村です…」


 アンが指差した先にひときわ背の高い木造家屋が現れた。それが彼女の生家だった。


 竹とチーク材で組まれた高床式住宅は、地面から大人の背丈ほど持ち上げられており、軒下の空間には編みかごや農具が吊るされ、数羽の鶏がのんびり歩き回っている。屋根は椰子の葉で葺かれていて、家屋の裏の方からは炊事の煙がゆっくりと吹き上がり、煮炊きの香りがふわりと漂っている。


 勇馬はその造りを見て、祖父の古いスケッチの片隅に描かれた、同じような高床の家を思い出した。戦時中、この高床の下で雨をしのぎ、馬の身体を拭き、蹄の手入れをした兵士たちがいたかもしれない——そんな想像が、湿った空気の中でふっと広がった。


 村の中では子どもたちが裸足で走り回り、車を珍しそうに見に集まって来た。アンは空港を出る前に町のスーパーで仕入れて来た大量のお菓子の箱を車から取り出し、その子供たちに分け与えていた。アンは忙しそうに子供たちにお菓子を配りながら勇馬に言った。


 「この辺にはスーパーもコンビニもないのよ、だからこうして時々、実家に戻る時は子供たちの好きなお菓子を買って帰って来るの…村の人々はほとんど自給自足の生活なのよ…」


「さぁ、うちの家族を紹介しますね、行きましょう!」 


 そう言って勇馬を手招きした。


 アンの生家の高床式の階段を上りきると、広い板張りの縁側に出た。そこで勇馬を出迎えたのは、がっしりとした体格の中年の男だった。褐色の肌に深い笑い皺、胸元まで開けたシャツからは力強い腕がのぞく。アンが一歩進み、ミャンマー語で何かを告げると、男は白い歯を見せて笑い、勇馬の手を両手で包み込んだ。


「ようこそ、我が村へユウマさん、アンの父、サンです。この村の村長をしています」


 サンはミャンマー人特有の抑制のない英語で自己紹介をしながら、勇馬の手を握った。勇馬は一礼をしてアンの父の大きな手を握り返した。


 サンの横に立つ年配の女性はアンの母、ヘインだ。淡い花柄のロンジーを身にまとい、笑みとともに勇馬の長旅を労うように、勇馬の両腕を軽く叩き歓迎した。


 奥からは、小さな足音とともにお菓子を手にした子どもたちが顔を出す。アンの弟や姪だろうか、好奇心に満ちた瞳が勇馬を上から下まで目で追っている。何処で覚えたのだろう、ミャンマーでも人気の日本のアニメの日本語を勇馬に浴びせ、初めて見る日本人の勇馬を歓迎していた。



3.古き影のさざめき


 「そして…」


 勇馬は、次に訪れる瞬間が、この旅の核心に触れる一歩になる予感を強く抱いた。 アンが奥の暗がりへ視線を送る。板戸が静かに開き、ひとりの老人が姿を現した。 背筋こそ少し曲がっているが、深い皺を刻んだ顔には、凛とした眼光が宿っている。


「私のおじいちゃん、ウー・ガン・ラインです」


 その視線は、初対面の異国人を測るというよりも、はるか昔に会った誰かの面影を探すような深さがあった。勇馬は一瞬、背筋が伸びるのを感じた。ウー・ガンと呼ばれるアンの祖父は無言のまま、縁側の籐製の椅子に深く腰を落とし、勇馬の顔を見つめていた。


 やがて、低くしわがれた声で問いかける。


 「……おまえ、日本から来たのか」


 勇馬は一瞬、息をのみ、ゆっくりと頷いた。


「はい。祖父が……かつて、この辺りに来ていたと聞いています」


 老人の目が、わずかに細まる。


 「その祖父の名は?」


 「将一、岡田将一といいます。陸軍の……輜重隊にいました」


 老人の眉が、かすかに動いた。


 「……あの時の。馬と一緒に山を越えて来た日本の兵隊たちか…」


 遠い記憶をたぐるように、老人はぽつりと言い目を伏せた。


 暫く沈黙が流れ、軒下の鶏が場違いな鳴き声を上げた。ウー・ガンは勇馬の顔をしばらく言葉もなく見つめていた。深い皺の間に、かすかな笑みともため息ともつかぬ表情が浮かぶ。


 やがて、老人は縁側の奥を顎で示し、低く一言だけつぶやいた。


 「……あの時のことを、忘れた日はない」


 勇馬はその言葉の重さを測りかねたが、胸の奥で何かがゆっくりと動き出すのを感じた。理由のわからない温かさと、得体の知れない緊張が同時に心に広がっていく。


—また雷鳴が低く唸り、重く湿った雨の匂いが近づいていた。


翌朝。


 到着した日の午後の豪雨と、まとわりつくような蒸し暑さとは別世界のように、標高千五百メートルの山の冷気は、肺の奥まで澄んだ水を流し込むように沁みわたった。 夜明けの村の空気は冷たく引き締まり、勇馬は長い移動の疲れを抱えたまま、村の朝の気配を確かめようと身体を起こした。肌寒さに身震いしながら廊下の向こうに目をやる。


 アンが、奥の部屋から祖父ウー・ガンの肩にそっと手を添えて現れた。


 「おはよう、勇馬さん。さぁ、みんなで朝食をいただきましょう」


 少し間を置き、彼女は笑顔を浮かべて続けた。 


 「今日は、あの仏塔のある寺院に行ってみましょう。何か手がかりが見つかるかもしれません」


 階下では鍋から立ち上る独特の香りが家中を満たしている。鯰の出汁にレモングラスとバナナの茎を煮込み、揚げたひよこ豆粉でとろみをつけたモヒンガー粥。刻んだコリアンダーと揚げ米麺が彩りを添え、湯気とともに香りが膨らんでいく。

 

 「私の母が作るモヒンガーは世界一美味しいのよ。どうぞ召し上がって」


 「写真でしか見たことなかったけど、ほんとに美味しそうですね」


 勇馬は器を受け取り熱いスープを口に運んだ。出汁の滋味が疲れた体に染み渡り、硬くなっていた心が少しずつほどけていく。


 そのとき、奥の薄暗い部屋からウー・ガンが現れた。アンに支えられた両腕には、桐の木箱が抱えられている。席に着くことも、箸を取ることもなく、まっすぐ勇馬の正面へ。老人は勇馬の前で静かに蓋を開けた。古びた革の匂いが香り、食卓の湯気と混ざり合う。中には柄巻のほつれた一本の軍刀。鍔には細かな錆、曇りを帯びた刀身。


 アンが祖父の耳元に身を寄せ、老人は短く言葉をつぶやく。言葉の切れ間に山鳥の声と子どもの笑い声が入り込み、空気が静まり返る。


 「……おまえの祖父は、黒い馬を連れていたか」


 アンがそのしわがれた声を日本語にして尋ねる。


 「はい……その馬は“黒影”と呼ばれていました」


 ウー・ガンはしばらく勇馬を見つめたまま沈黙し、やがて軍刀を持ち上げる。節くれだった手で鞘を軽く叩き、鉄と革の混じった匂いを確かめるように深く息を吸う。


 その重みを確かめながら、刀を勇馬の両掌にそっと置いた。


 山の冷たい空気が肌を刺す。だが、刀から伝わるぬくもりは、冷気とは違う不思議な重さを伴っていた。


 次の瞬間——視界が白く弾け、耳の奥で雷鳴のような轟音が炸裂した。


 世界が裏返ったかのように色と音が消え、気づけば勇馬は鬱蒼とした熱帯の森に立っていた。泥に足を取られ、灼けつく湿気が喉を焼く。鼓膜を突き破るような銃声、耳を裂く怒号。焼け焦げた枝の匂いと、硝煙の苦い臭いが喉を突く。


 目の前を、漆黒の馬体が閃光を切り裂くように駆け抜けた。鬣を振り、泥を蹴り上げ、戦場を疾走するその軍馬。


 ——間違いない、「黒影」だ。


 勇馬は息を呑む間もなく、唖然と立ち尽くしていると四方から銃声が木霊した。喉が乾き、心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。


 茂みをかき分けて現れた兵士たちは、みなカーキ色の制服に泥と血をまとっていた。


 その中のひとり——小柄な体に不釣り合いな大きなリュックと小銃を抱えた兵士が、勇馬に狙いを定める。


 つば広のブッシュハットの影からのぞく瞳を見た瞬間、勇馬の心臓は凍りついた。


 汗と泥に濡れた頬、結わえきれずに乱れた髪、敵を睨む鋭い目つき。しかし大きな瞳の奥に光る無垢な面差しは間違いようがなかった。


 ——アン…


 銃を構えるその兵士は、信じられないことに——アンと瓜二つの若い女兵士だった。


 「動かないで……日本兵!」


 引き金にかけられた指は微動だにせず、勇馬を冷たく見据えていた…


 

 (第3話に続く)

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