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第1話 祖父の馬、黒影

1. 東京の夜景と桜井勇馬


 高層ビルの谷間を縫うように吹き抜ける冷たい風。ネオンが反射するガラスの壁、遠くには東京タワーが淡いオレンジ色に輝き、首都高速をゆっくりと走る車のライトがまるで光の川のように流れている。


 東京の一等地にあるオフィス街の一角。午後十一時を過ぎても、桜井勇馬は無機質な会議室に籠り、明日のアメリカのアパレルメーカーの日本進出における物流プロジェクトのプレゼンテーションに備えていた。勇馬は念入りに分厚い資料をめくり、何度も繰り返しリハーサルをする。数字の羅列、効率化の計算、最適化された輸送ルート。どれも重要なはずなのに、虚しさが拭えない。


 勇馬は大手外資系の物流会社でベテランの中堅社員として、社内からも顧客からも好く評価されていた。だが、その評価に何の意味があるのか、時々わからなくなる。上司の顔色を伺い、無理な要求にも頷き、「頑張っている自分」を演じる日々。そうして積み上げた仕事は、誰のためになっているのか——いや、本当に必要とされているのかさえ疑わしく思えてくる。


 ふーっと深いため息をつき、机に広がる書類の山から視線を逸らす。スマホを手に取り、SNSの動画をぼんやりと眺めた。南国の海をバックに、笑顔で語る若い男がいる。


 「本当に大切なのは、自分が何をしたいかなんだ。会社のために働くんじゃなくて、自分のために生きよう——」。


 勇馬の指が止まる。明日、このプレゼンが成功したら、また次のプロジェクト。さらに多忙な日々。その先に何がある?それを繰り返し、気がつけば人生の大半が仕事に消えていく。


 「……俺は、何のためにこんなことをしてるんだ?」


 スマホの画面を見つめたまま、思わず呟く。


 学生時代から英語を学び、海外留学も経験し、憧れの外資系企業に就職した。成功するために、ずっとレールの上を走ってきた。でも、それが本当に自分の望んだ道だったのか……?


 会議室の窓に映る自分の姿が、まるで別人のように見えた。どこか遠い場所で、本当の自分が別の人生を歩んでいるような気さえする。勇馬は物思いにふけりながら、カップに残った、三杯目の冷めたコーヒーを啜った。


 その時、実家の母からのメッセージの着信音が鳴った。


 “お爺さんの書斎、片付けないとね。気になる箱があるの、なんだか怖くて開けられないの、今度の連休には帰ってくるんでしょ?”


 “気になる箱”…母のメッセージがなぜか勇馬の心を揺さぶった。そういえば、最近なぜか祖父の夢を見ることが増えた。



2. 祖父の夢


  勇馬は何処か知らない東南アジアの、山間の農家の縁側に座っている。


 陽射しが降り注ぎ、青々としたサトウキビ畑が広がる。鳥のさえずりと牛車の軋む音が響く中、ふと目を向けると、背の高い椰子の木の下から若き日の祖父・岡田将一が現れた。

 

 「勇馬、飲んでみぃ。搾りたてのサトウキビジュースは、ほんまにうまいぞ!」


 訛りの強い紀州弁で、祖父が笑顔で差し出した竹のカップから、黄金色の液体がこぼれそうになった。勇馬は一口飲む。甘さの中にほんのりとした酸味、喉を潤す冷たさは懐かしい味だった。


 「お爺ちゃん……こんなところで何してるんだ?」


 「馬、探しとるんや…」


 「馬?」


 「黒影をな……あいつは俺を助けてくれたんや」


 「お爺ちゃんを助けた……?」


 祖父、将一は遠くに見える森を指差して、ゆっくり空を見上げ言った。


 「ワシの代わりに探してきてくれ…」

 

 祖父の夢はいつもそこで終わる。


 (……黒影? 祖父が探してる? 俺に探せと?)


 夢の意味を考えながら、勇馬は母からのメッセージに返信を打とうとした。



3. 黒い馬の幻影


 一瞬、外の喧騒が凍りつき、静寂が勇馬を襲った。


 勇馬が見つめていたスマホの画面が、まるで生き物のように脈打ち、ゆらめく光とともに浮かび上がる。


 轟々と燃え盛る炎の壁。その向こうから、一頭の黒い馬が疾風のごとく飛び出してきた。闇よりなお黒く、その身を煤で染めたような馬が、血のように赤い月を背に、戦場で荒々しく嘶く。


——ヒヒィィィンッ!


 嘶きが空間を裂き、勇馬の鼓膜を震わせる。その馬の毛並みには燃え盛る火の粉がちらつくように光が揺らめいていた。その瞬間、馬の瞳が勇馬をじっと見つめ、何かを伝えようとしているようだった。まるで「来い」とでも言うように…


 勇馬の心臓が激しく脈打つ。


 その時一発の銃声がジャングルに響きわたった…


——バン!


 真っ暗な会議室の天井の灯りが付き、部屋がぱっと明るくなった。視界が一瞬で元に戻り、勇馬は驚いてスマホを取り落としそうになった。


 同僚の新田洋一が、ファーストフードのハンバーガーと勇馬にとっては四杯目のコーヒーを持って入ってきた。新田は剽軽に笑いながら部屋の灯りを点け勇馬に声を掛けて来た。


 「おいおい、真っ暗な部屋でなにやってんだよ、灯りくらいつけろよ、さぁ、食えよ…」


 「ありがとう、恩に着るよ、お互い遅くまで何やってんだか…もう少し頑張っていくよ。お疲れ様!」


 勇馬はまだ心臓が激しく脈打っているのを感じていた。オフィスの明かりは煌々とついていて、周囲の喧騒も聞こえる。だが、さっきの映像は夢でも幻覚でもなかった ——そう確信できるほど、生々しかった。


 「しかし、一体何なんだ、さっきのは……?」


 勇馬は携帯の画面を閉じ、机のパソコンから新幹線の座席の予約を入れた。


 「じいちゃん、俺は……何を見つけるんだろう」



4. 古びた木箱との出会い


 勇馬は、東京駅のホームに静かに滑り込んできた新幹線に乗り込み、深く息を吐いた。都会の喧騒を後にし久しぶりの帰省。三連休とあって、ホームは帰省客や旅行者、さらには海外からの観光客で溢れかえっていた。しかし、勇馬の意識は周囲の雑踏を遠ざけるように、スマートフォンの画面へと向けられていた。そこには母サチからのメッセージが残っている。

 

 (気になる箱があるの。なんだか怖くて開けられないの……)


 ――何のことだろう? そんな疑問を抱えたまま、新幹線に乗り込み窓際の席へと腰を下ろした。発車のアナウンスが流れ、列車がゆっくりと動き出す。流れゆく景色をぼんやりと眺めながら、勇馬は祖父との幼少期の記憶を手繰り寄せる。


 ある日、母が作ってくれた手作りのぬいぐるみの“くまさん”を商店街のどこかの店で置き忘れたことがあった。小さな勇馬にとって、その柔らかなタオル生地の肌さわりが何よりも大切な存在だった。


 “くまさん”を失くした日は家中が大騒ぎとなり、泣きじゃくる勇馬をよそに、家族総出で商店街を探し回った。しかし、その最中、普段は厳格で口数は多くなく、自宅の庭で大工仕事をしていた祖父・岡田将一は作業場から一本の木彫りの馬を取り出し、勇馬にそっと手渡した。小さな手には余るほどの木製の馬。赤茶色の塗装が施され、細部まで精巧に彫られていた。


 しかし、柔らかく温もりのある“くまさん”を失った幼い勇馬には、それは代わりにはならなかった。涙をためながらもきょとんとする勇馬を見て、母が祖父に言った。


 「おじいさん、勇馬にはまだ早いですよ……それに、その馬で何頭目ですか?」


 祖父は何も言わず、木彫りの馬を作業台に戻した。そこにはすでに十頭以上の木彫りの馬が並べられていた。


 結局、“くまさん”は商店街の菓子屋の店主によって発見され、無事に勇馬の元へと戻った。しかしその時、祖父の作業台の上に並ぶ木彫りの馬たちに、なぜか心を奪われたことを、勇馬は今でも覚えている。


 母親が見つけた木箱というのも、恐らく祖父が器用に作ったものであろうということは想像がついていた。


 勇馬を乗せた列車は速度を落とし、懐かしい故郷の景色が窓に映し出していた。勇馬はまた深く息を吸い込み降りる準備を始めた。



5.祖父の書斎と岡田組


 幼い頃から、祖父、将一の書斎には足を踏み入れるのを躊躇っていた。分厚い本が並ぶ古びた本棚、独特の木の香り、そして祖父が大切にしていた古い机。そして木彫りの馬たち。あの部屋には何かがある——そう子供心に感じていた。


 (……馬、探してるんや)


 夢の中で祖父が呟いた言葉が頭の中にこだまする。


 将一が言った“黒影”とは何なのか?


 答えを求めるように祖父の書斎へ足を踏み入れると、埃をかぶった本棚や、壁にかけられた古い書体で書かれた日本語の地図が目に入る。何処か外国の土地なのだろうか、地名らしき箇所がカタカナで書きこんであるが、何語なのか見当もつかない。その中で目を引いたのは、机の上に埃を被った焦げ茶色の小さな木箱だった。


 「なんだこれ……?」


 「そう、それなのよ、なんだか気味悪くて、開けられないのよ…」


 振り向くと母の幸子が、本棚の古い書籍を数冊段ボール箱に詰め込みながら、片手でその箱を指差して言った。


 勇馬は木箱を手に取り、埃を手のひらで払いのけ箱の表面を指でなぞった。見たことのない文字が浮かび上がる。


 「これって……何語なんだ? お母さん、見たことある?」


 「知らないわよ…だから開けられなかったのよ……」


 勇馬はゆっくりと蓋に手をかけた。


 ——キィーッ …

 

 小さな音とともに、箱がわずかに軋む。しかし、それ以外は何も起こらない。母が怖がっていたほどのこともない。ただ、埃の匂いが微かに鼻をついた。


 「なーんだ……」


 軽く肩をすくめながら勇馬は中を覗き込んだ。そこには、色褪せた白黒の写真と、一冊の日記帳が収められていた。


 「写真……?」


 勇馬はそっと写真を取り出した。写っていたのは、精悍な顔つきの軍馬に騎乗している祖父の凛々しい写真。その下には祖父の筆跡でこう記されている。


 “黒影(くろかげ)号 ―岡田組最後の名馬―”


 「黒影号……?」


 母が勇馬の肩越しに覗き込み、小さく息をのんだ。


 「やっぱり、あの馬のことかしら?」


 「え?」


 「ほら、昔、おじいちゃんが話していた馬じゃない? でも、こんな写真……うちにあったかしら?」


 勇馬は改めて写真を見つめた。古びた写真にしては妙にくっきりとしている。祖父が乗っている馬の目が、今にもこちらを見返してくるような気がした。


 「……なんだろうな、これは」


 祖父の日記帳に目を移す。ゆっくりとページを開くと、殴り書きのような血が付いたようなページや、汗か水で字が滲んだようなページには、戦地と思われる場所での馬の絵やジャングルのような地形図が描かれていた。勇馬には聞いたこともない、「一死報国」、「武運長久」などと大きな文字が書かれていたが、文章は唐突に途切れていた。

 

 「……これで終わり?」


 最後のページには、たった一行だけが書かれていた。


 “黒影号、ビルマの地で消える、今もどこかで生きているはずだ…”


 勇馬はもう一度、写真をじっと見つめた。


 “黒影号…もしかしてあの時の…?”


 その瞬間、オフィスで見た夢が鮮明に蘇る。燃え盛る炎の戦場を疾走する黒い影——あの馬だ。夢の中で確かに、何かを伝えようとしていたあの馬の写真に違いない。


 「……まさか、あれが黒影号……?」


 写真の中の馬の瞳が、今にも動き出しそうなほど、生々しくこちらを見つめていた。

 

 勇馬が手に持った木箱の底には馬の蹄鉄が一つ嵌められていた…


 「R.O.1944‥‥‥なんだこの刻印は?」



6.岡田組


 それは、勇馬の家系がかつて営んでいた馬車輸送の会社だ。


 明治時代から続く馬力運送業を営み、自動車の普及が始まるまで、馬による荷物運送を発展させてきた。創業当初は地方から届く農産物や木材の輸送が主であったが、次第に商人たちの護衛輸送や官庁への物資供給も請け負うようになり、地域に欠かせない運送業者へと成長していった。


 勇馬の故郷の町の中心部には、堂々とした岡田組の営業所が構えられ、事務所に併設された広大な厩舎には、三十頭以上の馬が飼育されていた。馬たちは、種類や用途に応じて分けられ、力強い馬が重荷を引き、機敏な馬が商人たちの護衛や人の移動に用いられた。馬車の整備や蹄鉄の交換を行う、二階建ての厩舎に作業場が併設されており、馬具の点検や補修もここで行われていた。


 従業員は十数名を超え、御者(ぎょしゃ)は長年の経験で馬を巧みに操り、悪路や吹雪の中でも正確に荷を運んだ。毛付(けづけ)人の職人たちは、馬の毛並みを整え、健康状態を常に気にかけた。装蹄師(そうていし)は、馬の蹄に合った鉄を打ち、長距離の輸送にも耐えられるよう工夫を凝らしていた。また、専属の獣医師が常駐し、馬の健康管理や怪我の治療を行い、長年にわたり岡田組の馬たちを支えてきた。


 岡田組の馬運業は、ただの輸送手段にとどまらず、町の人々の暮らしを支える生命線であり、信頼と誇りをもって受け継がれてきた。


 しかし、戦争によって国内の馬農家などから多くの馬が軍に徴用され、戦時中は軍との関わりを深めることとなり、馬匹徴発令により、岡田組の馬たちも軍馬としての供給を余儀なくされていった。


 終戦直前には数度に渡る米軍の大空襲にて、残っていた馬たちも命を落とし、その後の混乱の中で岡田組の商売は衰退。祖父の代で歴史に幕を閉じることとなった。 


 当時、岡田組に飼われていた馬は主に駄馬や輓馬が多かったが、一頭だけ「日本釧路種」の黒鹿毛(くろかげ)の馬がいた。

 

【注:黒鹿毛くろかげは、馬の毛色の一種で、全身が黒っぽいが、一部に茶色の毛が混じるのが特徴。英語では"dark bay"または"brown"と表記】


 「日本釧路種」は、サラブレッドのような西洋の大柄な馬とは異なり、日本人の体格に合わせて生み出された、外来種と日本の在来馬・道産子との交配種である。戦時中、こうした馬の多くが軍馬として徴発され「戦場の活兵器」と評され重用されていた。


 しかし、この黒鹿毛の馬は特別だった。北海道の将一の親戚が営む馬農家より、陸軍の「馬匹徴発令」が下る前に、密かに将一へ託したのである。軍馬として戦地へ送るよりも、馬を大切に扱う岡田組の将一のもとで生きる方が、この馬にとって幸せだと考えた。


 そしてこの馬が、今後の将一と勇馬の運命を大きく変えることになるとは、誰にも予想できなかった。



7.黒影の誇り


 将一は初めてその馬と対峙したとき、その毛色が漆黒の闇のように深く輝き、がっしりとした骨太の四肢、素朴で穏やかな表情の中に光る鋭い眼光、そして鼻筋に一本の大流星のマークを持つ、その黒鹿毛の馬に強く惹かれるものを感じた。


 差し込む日差しを遮るように、厩舎の奥で静かに佇んでいたその馬は、まるで影そのものが形を持ったかのように周囲に溶け込みながらも、ただ泰然と将一を見つめていた。その目には妙な知性と誇りが宿っており、気安く触れることを許さぬ気高さがあった。


 その佇まいに、将一はふと「黒影(くろかげ)」という名を思い浮かべた。


 将一はゆっくりと「黒影」に歩み寄り、そっと手を伸ばしてみたがその“影”は微動だにせず、ただまっすぐに大きな瞳で将一を見つめ続けた。その視線の強さに思わず息を呑む。まるでこちらの心を見透かされているような気がした。


 「ふん……ワイがどんな奴か、確かめようっちゅうんか?」


 将一は苦笑しながら、ポケットから角砂糖を取り出しそっと差し出した。しかし黒影は鼻先をわずかに動かしただけで、まったく興味を示さない。それどころかフンと鼻を鳴らし、まるで溜息をつくように将一を見つめ続ける。


 将一は覚悟を決め黒影の真正面に立ち、じっと馬の目を見つめる。黒影もまた、その鋭い眼差しを逸らすことなく将一と対峙した。


 どれほどの時間が流れただろうか。やがて、黒影は右前肢で地面を描くように、小さく鼻を鳴らしゆっくりと頸を下げた。


 まるで「お前を認めてやる」とでも言うように。


 将一は静かに黒影の鬣に手をやりそっと頸をなでおろした。


 「黒影、黒影号よ…」


 

 それからの日々、将一と黒影は共に過ごした。


 互いを知る時間を積み重ねていけばいくほど、将一は彼をただの馬ではなく、心を通わせるべき真の「友」として接するようになっていった。


 将一は黒影の力強い首筋をそっと撫で、その逞しさに改めて感嘆の息を漏らした。無駄のない引き締まった筋肉は、まるで鍛え上げられた鋼のようにしなやかで強靭だった。


 「お前、ほんまにええ躰しとるなぁ…」


 黒影は力強い頸筋を将一の方へ向け、深い信頼の気持ちを示した。


 ある日、ベテラン調教師の宮田が将一へ言った。


 「将一さん、そろそろ試し乗りといきませんか?」


 将一は、宮田がどこまで馴らしてくれたのか、正直なところまだ少し不安があったが、それ以上に黒影の実力をこの目で確かめてみたかった。 それに馬の調教においては、盤石の信頼を置く宮田が言うからには間違いないだろう。


 「よっしゃ、ほな一丁、宮田はんの腕前、確かめさせてもらおか?」


 将一は黒影の背に乗り、手綱を少し短めに持ち、厩舎の前の丘をゆっくりと下っていく。貨物列車の到着まではまだ時間があった。線路沿いを歩かせながら、遠くに広がる浜辺を目指す。 岡田組の厩舎の向こうには、トンネルのある小高い丘があり、鉄道の線路を越えると白砂の浜辺に出る。


 浜辺へ降りる道の途中、大きな花崗岩がごろごろと転がる土手があった。将一は、黒影を砂地の緩やかな坂へと導こうとした。しかし、その瞬間、黒影が突然向きを変え、大きな岩の前に立ち止まる。そして、わずかに膝を折ると、次の瞬間には前肢を振り上げ、二メートルほどの高さの岩を一気に飛び越え浜辺へと着地した。


 「——っ!」


 将一は驚き、思わず手綱を強く握る。


 黒影の飛越が浜辺に着地すると同時に、その四肢は砂を蹴り上げ、一気に駆け出した。将一は黒影の馬体の動きに咄嗟に身を前方へと傾ける。


 海風が頬を切り、耳元で風が唸る。黒影のたくましい筋肉がしなやかに躍動し、広い砂浜を勢いよく駆け抜けていく。蹄が砂を掻くたびに、白い飛沫が舞い上がり、その軌跡を残していく。


 最初は手綱を強く握っていた将一も、やがて黒影のリズムに乗り、わずかに手を緩めた。黒影はそれを察したかのように、さらに速度を上げる。海辺の潮騒が鼓動と混ざり合い、ただ風と馬の疾走する音だけが響く世界になった。


 「おまえ、よぉ走るのぉ……!」


 将一は思わず強い訛りで叫んだ。黒影の動きはまるで海を駆ける黒い稲妻のようだった。黒い鋼のような肢が砂を蹴り、力強く地を押し出すたびに、全身がしなやかに弾む。その走りには一頭の勇者の誇りすら感じられた。


 やがて、黒影は徐々に速度を緩め、潮風に揺れる砂浜の端へと歩みを戻していく。将一は黒影の頸をそっと撫で、その温もりと鼓動を感じながら、心の奥底から沸き上がる興奮を噛みしめていた。



8.友情と誓い


 馬小屋に戻った将一は、黒影の汗を拭きながら静かに言った。


 「わしら、ええ相棒になりそうやなぁ…」


 黒影はゆっくりと将一の肩に頭を預ける。それは服従の仕草ではない。対等な者同士の、信頼の証だった。


 ある日、季節外れの豪雨が村を襲った。


 未明から降り出した雨が激しさを増し、岡田組の厩舎裏を流れる小川がみるみる増水していった。


 厩舎の馬たちは、小川が轟々と音を立て始めるのを落ち着かない様子で、馬房の中で脚をばたつかせたり、不安げに小さく嘶いたりしていた。


 村の川沿いに住む住人たちは、慌ただしく荷物をまとめ高台へ避難し始めていた。現代のような立派な水防柵や堤防フェンスがない時代、激しい豪雨によって大きな被害を被ってきた歴史があったため、住民たちは素早く非難の準備をしていた。


 将一は厩舎の馬たちを落ち着かせようと、馬房の中の馬を一頭一頭なだめながら、厩舎の一番奥の黒影の前に来た時、屋根の塗炭に叩きつける激しい雨音と雷鳴に交じって、微かな女性の叫び声が響いた。


 「誰か助けてください! 子どもが! 向こう岸に取り残されて!誰か早く!」


 掻き消されるような女性の叫び声に将一は気づき、慌てて厩舎を出ようとしたが、馬房にいた黒影が前肢で木の扉を蹴りながら、小さなうめき声を上げている。


 将一は黒影に優しく声を掛け、


 「おい、黒影、大丈夫だ、落ち着け!」


 将一は黒影を落ち着かせようと頸を撫でた時、黒影の両耳がピンと立ち、声のする方へ向けた。


 「お願いです!誰か助けてください、子供が! 子供が!誰か早く!」


 今度は将一の耳にもはっきりと聞こえた。慌てて厩舎を飛び出し、川の対岸に目を凝らすと、対岸の崖の下に、小さな子どもがひとり泣いているのが見えた。そこは防空壕でもある小さな洞窟があり、普段は子供たちの遊び場になっていたが、川の増水で、急斜面の山肌を上って避難できない小さい子供が一人取り残されてしまったのだ。


 しかし、対岸に渡る橋はすでに流され、川は濁流と化している。激しい流れが渦を巻き、漂流した木々や岩が押し流されていた。


 「お母さん!助けて!お母さん!」


 泣き叫ぶ子供を前に、母親は成す術がなく涙声になり助けを呼んでいた。


 その光景を見て、将一が唇を噛みしめたその時——


 厩舎の奥から大きく嘶き、前肢を高く上げて後肢で立ち上がっている黒影が見えた。

 

 (もしや黒影なら…)


 将一は黒影の馬房へ走り寄った。


 「黒影、お前なら…」


 馬は何も言わず、将一を見返した。その漆黒の瞳には、迷いのない決意が宿っている。

 

 「黒影よ、やれるか?」


 将一はゆっくりと馬房を開き、素早く鞍を置き馬装を整え、畑まで濁流でえぐられた岸辺に連れて来た。いつもなら深いところでも五十センチもない小川が、今は一メートルほどの深さになり濁流が岸を削り取っている。

 

 将一は黒影にさっと跨った。


 黒影が、静かに川を見つめた。


 「よし、行ったれ!」


 将一の掛け声が早いか、黒影はまるで風を切るように地面を蹴って、濁流の中へ飛び込んだ。


 ―――ザバァン!


 濁流が黒影の脚をすくおうとする。将一は黒影の手綱を左右に引き寄せながら、頸を上流に向け慎重に進路を見極める。


 「もう少しや…!」


 猛烈な水流に飲まれそうになりながらも、襲い掛かる流木を避けながら黒影は懸命に川を渡る。将一との超絶な心の連携プレーを演じながらついに黒影の蹄が対岸の土を踏んだ。


 「よっしゃぁ!黒影、でかしたぁ!」


 将一は急いで子どもを抱え上げ、自分の胸で抱え込むように子どもを座らせた。


 「大丈夫や、しっかり掴まってぇや!」


 漆黒の巨体をさっと反転させたかと思うと、再び川へ飛び込む黒影。今度は、子どもを守るためにより一歩一歩慎重に進む。それでも、黒影の目には迷いがなかった。しかし、岸の手間に大きな流木と瓦礫が邪魔をして進路を塞がれてしまった。


 「しまった…岸へ上がれん、くそぉ!黒影、どないする?」


 将一は焦った声で黒影に尋ねた。


 黒影は「大丈夫だ、跳ぶぞ!」とでも言わんばかりに浅瀬の岩の上に登ったかと思うと、そこから四肢を揃え川岸へ勢いよく岩を蹴った。


 えぐられた赤土の土手を少し削り取りながらも、黒影は高台へと巨躯を動かした。


 野次馬で見物に来ていた村人たちは一斉に歓声を上げた。


 「助かった…!」 


 「なんちゅう馬や…!」


 将一は子どもを抱き下ろし母親に返した。母親は泣きながら子供を抱きしめ、何度も頭を下げて将一に感謝の言葉を連ねた。将一は黒影の首筋をポンポンと撫でながら深く息をつき言った。


 「あんた、礼を言うならワシやない、この黒影に言うたってくれんか?」


 黒影は降りしきる豪雨の中、まるで守護神のごとく静かに佇んでいた…。


(第2話へ続く)

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