いえもう離縁してますから、わたしは大丈夫です。あなたもお幸せに?
よろしくお願いします。
「チェリカ!邪魔な女め!俺はこれからトリッシュと真実の愛を確かめあうんだ!
その声を聞きたいか?嫌だったら荷物をまとめてさっさと出ていけ!二度と帰ってくるな!!」
元々立て付けが悪い納屋のドアは思いきり開いたために蝶番が壊れ、だらりと傾いた。
それをぼんやり眺めながら夫と言われる者へ目を向ける。この男と顔を合わせるのはいつぶりだろうか。
最後に会ったのは『新しい注文書』を持ってきた時だろう。納期も短くそのくせ難解な大きさと模様を注文つけてきた。そのせいで未だにクマがとれず体調も良くない。
その気遣いもなく愛人とこもるから出ていけと。ナメてるのかこの男は。『病人』でなければ殴ってたところよ。
ああそうですか、という意味を込めて「わかりました」と少ない荷物をまとめ門へと向かった。
早めに書棚を整理しておいて良かったわ、と思う。家の権利書とか資産の権利とかあるもの。
門に向かえば下品で派手なドレスを纏った淑女がニヤニヤとわたしを見ていた。
「あらぁ役立たずの奥様どうなされたのぉ?お出かけぇ?うっそぉ。それ旅行鞄なのぉ??荷物少なすぎじゃない?」
夫人なら普通大きい鞄ふたつは必要よねぇ?と笑いかけてきたが無視。
「ちょっとぉ!アタシを無視すんじゃないよ!」と言われても無視。素が出てますわよ、お嬢さん。
まったくこれで何人目かしら。ヒステリックに叫ぶ娼婦を慰める夫を呆れた目で一瞥し寂れた小さな邸を出ていった。
持って一週間くらいかしら。
チェリカはシステル男爵家に生まれた長女だった。
本来は婿をとってチェリカが家を継ぐはずだったのだが、親戚の侯爵家令息達が王子の婚約者を断罪したためその罰として令息達は廃嫡。
何もしていないが余波を受けて芋づる式に我が家も爵位を落とされてしまった。
本当は準貴族になることもできたけど領地もなかったのでシステル家は没落。
元々社交界よりも商売をしたりもの作りの方が性に合っている家系だったので気にはならなかった。
困ったことになったのは結婚することになった時だ。
廃嫡になった上に家も追い出されたから行き場がない、結婚してくれと元侯爵令息が泣きついてきたのだ。
一応親戚で幼なじみという間柄だったけど学園に通うようになってからは疎遠だった。
そして彼はわたしの初恋の相手だった。
親には断ってもいいと言われたけどどこかでまだ想いが燻っていたわたしはふたつ返事で元侯爵令息…ガレットと結婚した。
手が届かないと思っていた相手が振り返ってくれたのだ。こんな嬉しいことはない。
そう思ったが結婚した彼と幸せな生活ができたのは最初だけだった。
チェリカの家がもう貴族ではないとわかると結婚するんじゃなかったと嘆いた。彼は貴族でいたかったらしい。
そして働いたこともなく働く気もなかった。ただああしろ!こうしろ!と言うのは一人前で自分からは行動しない典型的なお貴族様だった。
給料も出せないのにお高い使用人を雇ったり、借金して邸宅を買ったり、いつか来るであろう招待状のために借金をしてパーティー用のスーツを新調したりと余計なことばかりする。
その尻拭いを妻であるわたしがするのは当然の帰結だが、それをガレットは悪いとも思っていなかった。
お金は用意されているもの。追い出されたのに実家に言えばなんとかなると思っているようだった。
現に『こんな大金この家にない』と言えば、端的に書いたメモを寄越してきてガレットの実家の侯爵家に渡せと命令してきた。
そうすれば融資してくれるだろうと。そんなわけないのに。
わたしもわたしで彼のためにと家計を切り詰め内職をして彼の借金返済のために奔走した。
しかし平民が稼げる金額とガレットが使うお金の差はなかなか埋まらない。むしろ離れていく。
実家に頼ってみたがすぐに限界が来てガレットに無駄な買い物を止めるように訴えた。わたし達は平民なのだから相応の生活をするべきだと。
その時はガレットも頷いてくれたがすぐに忘れて女遊びを始めた。元婚約者に似た女性を選りすぐっているのだそうだ。
愚かにもガレットはチェリカと結婚してからも自分が婚約破棄を突きつけ捨てたはずの元婚約者のご令嬢とよりを戻そうとしていた。
まだ自分には可能性があるとか、あの時は錯乱していてそんなつもりはなかったとか、あれは騙されたんだとか言って。
彼女と結婚できれば侯爵家当主に戻れる、そう信じているようだった。
それを聞いた時、彼は心を病んでしまったのだなと思った。侯爵家を追い出されて元婚約者とも白紙になったことを認められない哀れな人。
彼が頼れる人間はわたししかいない。支えてあげられるのはわたしだけだ。
今はまだ元婚約者に想いを馳せてるけどいつかきっと気づいてくれるだろう。
何も思わなければチェリカと結婚なんかしないはずだ。元婚約者のご令嬢よりは劣るけどわたしのことも憎からず想ってくれているはずだ。
そう信じた。思い込もうとした。
この時のわたしに会えるなら目を覚ませ!と平手打ちしていただろう。
彼以外に好きな人ができなかったわたしは盲目で愚かだった。
そんなわたしの気持ちも知らないバカなガレットは目に見えて愚かな行動をしだした。
家にもろくに帰らず何をしてるかと思いきや、元婚約者がどこにいるのかをリサーチして町歩きする日を狙っては見た目は美しいご令嬢(に見える娼婦)を雇ったり愛人にして見せびらかしに連れて歩くのだそうだ。
そうして出逢えたらにっこり微笑んで自分から話しかける。あたかも久しぶりに出逢えた友人のように。自分は幸せに見えるように。
気を許した彼女を誘い、お茶などをして話を弾ませ、家に招待するのだそうだ。
遊びに来た彼女に想いを打ち明け、楽しく二人きりで食事をし、酒とダンスで愛を再熱させ幸せな結婚をする………。
酔っぱらったガレットがうっとりしながらそんな夢を語っていたが初めて聞かされた時はショックでその日の食事が喉を通らなかったのを覚えてる。
結婚せず一人で頑張ってきた。こんな豪邸(実は寂れる)が買えるくらい財力を持ってるんだと言っていたからだ。そこにチェリカの存在はなかった。
失敗したら愛人を連れて帰り、朝までベッドでお楽しみになるのだそうだ。
ガレットの妄想を聞くまでは耳を塞ぎながら壁の薄い隣の部屋で耐えて寝ていたが(眠れなかったが)、知ってからはすぐに出ていけるようにいつも荷物を纏めている。
やめてくれと訴えたこともあったがガレットは話し半分でしか聞かない。わたしも途中から諦めた。
それでもガレットのために酒や食事を用意したりベッドシーツを変えて服を洗濯しているから彼は安心して浮気に走るのだ。
結局、ガレットが愛しているのは元婚約者。いや自分かしら。元婚約者だって自分の地位を確立させるための駒でしかないもの。
でもその元婚約者に固執したガレットは見た目だけは貴族のまま取り繕った。貴族の矜持と言えば聞こえはいいけど単なる見栄っ張り。小さな器を満たしたいだけ。
家に連れ込む女達も元婚約者の身代わりでしかない。
その身代わりにもなれなかったのはわたし。
わたしは愚かなガレットにしがみついた哀れな下僕だ。
その下僕は行き場もなく、夫がお楽しみの間おめおめ実家に避難するのだ。そして忠犬のように夫の迎えを待っている。
文句を言いながらもわたしには彼しかいないから。わたしが愛しているのはガレットだけだから。
―――――――――そんなわけないけどね!!
「白い結婚で三年経ちました。いい加減この関係を終わらせたいんです」
元婚約者を嵌めるために連れ込んだ浮気相手は今回でもう十八人目だ。いや二十人だったかしら?
途中から数えるのが面倒になって止めてしまった。
壊れた彼のために尽くす献身的な妻は、ガレットが酔っ払った時に話した独白の時に捨てた。
それまでは自分にも非があるのでは?と責めていたから余計に腹が立った。
巷でもガレットの奇行は有名で『俺は心の病を患っているんだ。優しく看病してくれたら報酬はいくらでも払うよ(チェリカが)』と言って誘っている。
まともな女性は引っ掛からないが一晩贅沢をさせてくれるから娼婦は大歓迎なのだそうだ。何人かはお互いキープしあってて定期的に不貞を重ねているという。
元婚約者に似ても似つかないチェリカは基準に満たないということで、結婚してから今まで指一本ガレットに触れられたことはなかった。
「それだけ奔放なのに君には触れていないと?」
「わたしに触れると浮気になるのだそうです」
わたしがガレットが〝壊れてる〟と思った所以はそこだ。
結婚するまでは、俺には君しかいない、俺の唯一、愛してる、こんな恋は始めてだ。などと耳当りの良い言葉を並べていたが、いざ結婚したら
〝元婚約者に浮気と勘違いされたらたまったものじゃない。俺の唯一は彼女だけだ。だから子供も作らないし寝ることもない。そもそもそんな女性的な魅力をチェリカに感じたことはない〟
と宣言された。
愛人達はその場限り、この家に住んでいないからカウントしない、もしくは元婚約者ということにしている。
そうガレットの頭の中で決められてるようだった。
ショックのあまりわたしも記憶を改竄してしまったのだろうけど今思い出しても不快だし、ガレットをこれからも支え続ける理由などこれっぽっちもなかった。
「ガレットが一方的に想うのは仕方ないことだと諦めてました。
ですが借金を重ねた先に、醜聞になる行動の先に、トリッシュ様がいてご迷惑になるようなら元貴族として断じて許してはいけないものだと考えました」
元婚約者の家からはすでに接近禁止命令が出ている。
その書類をガレットに見せたが〝トリッシュから手紙が来た〟というところで思考が止まっていて話にならない。
医療施設があればそこにぶちこむのだけどあるのは他国だ。それに多額のお金も必要になる。
この国にはそういった最新施設はまだない。だから本当はわたしがどうにかしなくてはならないのだけど心が折れてしまった。
調子に乗る愛人達も、その言葉に乗せられてどんどん言葉が悪くなり離縁をちらつかせるガレットにも疲れた。
膨らむ借金もどうしようもないところまで来ている。後はわたしが体を売るしか方法がないのだ。
見据えた先にいる男性に告げると彼は摘まんでいたカップを音もなく綺麗な所作で置き、チェリカに目を向けた。
「離縁するとしてその後はどうする?泣きつかれたら優しい君は許してしまうんじゃないかい?」
「そうならないためにもマイヤーズ様にお願いしているのです」
図星をさされてチェリカは呻いた。ガレットへの情などとっくに冷めている。それは間違いない。
けれど初恋を拗らせたのか自分を頼ってくるガレットをどうしてもつっぱねられないのだ。
実家に帰って離縁の書類をあとはサインを書くだけ、というところまで用意しても家族の前で土下座して、
『俺にはチェリカしかいないんだ!頼む!帰ってきてくれ!!これからは幸せにするから!』
と泣きつかれると今回は許してもいいのでは?となぜか思ってしまう。約束しても次の日にはケロリと忘れて浮気相手の元に行ってしまうのに。
だけど娼館に身を落とす間際になって改めて自分を振り返ってしまった。そしたらガレットとの結婚は間違いだったのでは?と思ってしまって。
折れてなければ、疲れきってなければもう少し、あともう少しと頑張っていただろうけど。それももうできそうにない。
「わたしがガレットを許してしまうのはきっと初恋の相手だったからです。
彼を見捨てたらわたしの恋も否定してしまうような気がして……でもこのままじゃいけないのはわかったんです。彼のためにも、わたしのためにも。
だからどうかわたしを何処かに監禁するとか、戒律が厳しい場所に送り込むとかしてほしいんです!」
貴族なら後妻なり新しい相手から釣書が来るのを待つか修道院に入るなりすればいいが、平民にはその縛りがない。
別れたければ別れればいいし仕事をしたければどんな仕事だってしようと思えば許される。
でも別れるには決定的な理由がない。けれども娼婦に落ちるのは嫌だ。
せめて暴力を振るわれてればわかりやすい理由になるのにそういうことはガレットはしない。ただ言葉でゆっくりとチェリカを追い詰めていくのだ。
「監禁って……そんなことをしたら私が人でなしになるじゃないか」
「それは……!でも、そうまでしないと今の関係に見切りがつけられない気がして……」
そこまでしないと自分を律せない気がしてテーブルを睨めば「じゃあ」と少し楽しげな声が聞こえた。
「私の妻になるかい?」
「………………えっ?!」
たっぷり時間を置いてからガタリと立ち上がり、でも失敗して足をぶつけ椅子に落ちた。
元とはいえ男爵家の名が泣くマナーに、母が見ていたら目を吊り上げていたことだろう。
けれど今は二人しかおらず―――端の方にメイドが控えているが――指摘する者はいなかった。
それにカップが運良く倒れなかったのもあってチェリカの粗相は見逃されたのかもしれない。
「じょ、冗談ですよね……?」
「この手の冗談を私がすると思うかい?」
「お、思いませんが、でも奥様に申し訳がたちません!それに折角収まってきた噂がまたぼうぼうと立ち上りますよ!」
「噂したい者にはさせておけばいい。醜聞なんて喧しいだけで社交界に行かなければたいして痛くもないしな。
それに妻に先立たれてからもう十三年になる。爵位も継いで引退した身だしそろそろ妻も許してくれるんじゃないかと思ってね」
パチンと片目を瞑る仕草はとても決まっていて格好良いけれど。でも父と同じくらいの年齢だったわよね?確かに娼婦になるよりはいい話だけど……。
「あ、愛人ですか…?」
「妻と言っただろう?後妻だがね。若いチェリカ嬢には私はおじさん過ぎて物足りないかもしれないが貴族間ではよくある話だ。
それともいつまでも白い結婚を続ける夫に操でも立ててるのかい?」
そう言われるとムッとしてしまうのはなぜだろう。
うっすら娼館かどこかで働いて半分をガレットに回せば生活に困らないだろうか、なんて計算していたのを見透かされたみたいだ。心臓がビックリしてる。
別れたいのに操なんて立ててたら本当にいつまで経ってもガレットから離れられない。自分の人生が歩めない。
けれども一方で肉体はなくとも奥様は気が気でないのでは?と思ってしまった。
とても仲の良いご夫婦だと聞いているし、たとえ添え物でもわたしが邪魔をするのは気が引ける。
それに。
「嬉しいお話ですが……でもわたしには女性的な魅力がありません。それに子を成せる体かどうかもわかりませんし…」
お洒落はそれなりにしかしてこなかった。結婚してからはほとんどしていない。外を歩いて異性として声をかけられたこともない。
後妻でチェリカは平民だから仮に産んだとしても庶子扱いになるだろう。けれど女性の価値は子を産むことだと聞かされてきたので魅力の中に含めてしまった。
言っていてとても空しい気持ちになる。ガレットのいう通りわたしにはなんの魅力もない。
それならいっそ修道院に入ってしまった方がいいのかもしれない。
諦めたように視線を下げると少なくなった紅茶がまだ揺れていた。わたしの心みたいだ。
何でこんなところに来てしまったのだろう。
こんな恥ずかしい話をマイヤーズ様に打ち明けてしまったのだろう。そう後悔した。
「チェリカ嬢」
「……はい、」
「なら私を本気にさせてみなさい。どんな手を使ってもいい。私も、君が私に本気になるように仕向けるから」
「……え?」
顔を上げるとまっすぐマイヤーズ様がチェリカを見つめていた。その視線にドキリとする。少し怖いくらいの目に震えたけど逸らすことはできない。
「これは、私達のゲームだ。どちらが本気に愛せるかのね」
「ゲーム……」
「勝負はどちらかが本気になるまで。やはりあの男が忘れられないと言うなら途中棄権するのも認めよう。どうかな?」
どうかな、と言われても。
「……それではマイヤーズ様には何も利益がないように思いますが」
ゲームとはいえわたしと戯れるほどマイヤーズ様は暇じゃないはず。だけど彼は余裕の笑みで微笑んだ。
「そう思ってもらえるなら上々。だけどゲーム開始と共に君は私の妻になる。それだけでも君にはかなりのリスクだ。だけど大変でも全部覚えてもらうよ」
言われた意味が半分くらいしかわからず困惑していると、テーブルの上に置いていた手の甲をするりと撫でられぶるりと震えた。
今さっきまで何もなかったはずの榛色の瞳から劣情の炎が揺れて見えた。それだけで体の体温が一気にあがった。
「青二才のことなどすぐに忘れさせてあげよう」
それから目まぐるしい日々が続いた。
宣言通り彼の妻として女主人の仕事を片っ端から覚えさせられた。家督を譲っても仕事はそれなりにあり妻にも責任が伴った。
その上で彼を本気にさせろだなんてどうしたらいいか悩んでも悩んでも出てこない。
だって歴戦の猛者みたいな人に何をどうやったら本気になってもらえるかわかるわけないじゃないか。
ベッドに誘ったところで未経験のわたしでは安直で品がないと思われるだろうし、そもそも手練手管もない。見た目も色気も薄い小娘だし高度な話もできない。
やれることといえば毎日笑顔でお話することと忘れかけたマナーを再勉強すること、あとは彼のことを研究して彼の好みを把握すること。
思いもよらず役立ったことは節約を兼ねて覚えた料理で彼を驚かせることができたこと。
それから内職で生活費を稼いでいたレース編みを褒められ王太子妃様のドレスの一部に採用されたことだった。
もう二度とご挨拶することはないだろう、と思っていた王太子妃様からお言葉をいただいた時は泣くほど嬉しかった。
繋いでくれた彼には本当に頭が下がる想いだがわたしが作った料理を美味しそうに食べてくれてる姿は意外だった。
また作ってほしいと言われた時も社交辞令でしょ、と思ったけど、ガレットには『貧乏臭い料理だ』と言って食べてもくれなかったから彼の優しさはとても染みた。
これで好きにならないなんてありえるだろうか。
向き合って食べる食事に二人で散歩、エスコートも完璧で髪型を少し変えるだけですぐ気づいてくれる。
褒める時も的確でお茶目なところも見せてくる。惹かれない方がおかしい。
「チェリカは他を知らなかっただけで好奇心もあるし勤勉家だ。それに自分のアピールポイントをよく理解している」
だから大丈夫。君はどこに出しても恥ずかしくない素敵な女性だよ。
彼にそう言ってもらえるだけでわたしは勇気づけられ、そしてこの想いを更に募らせた。
◇◇◇
今日はマイヤーズ邸でガーデンパーティーが行われていた。彼の親族や近しい友人が集まっており庭園はとても賑やかだ。
ホストである彼の補佐をしながらパーティーを楽しんでいると聞き覚えがある声が聞こえてきた。
視線を向ければ何年も前に見た草臥れたスーツを着たガレットがまた新しい娼婦を連れて練り歩いていた。
どこから入ってきたの?と目を配らせると使用人が申し訳なさそうに頭を下げていた。
ガレットが抜けた後に入った者だから押し負けてしまったのだろう。
後で彼からきつく言ってもらわないと、と視線を戻すと元婚約者に辿り着いたのか声高に話しかけている。
嫌だわ。元婚約者をトリッシュと呼び捨てにするなんて。
参加者は誰も彼もがガレットを知っているために皆顔をしかめていた。
しかしガレットの勢いもすぐに弱まった。ガレットの弟が彼女の前に出てきたからだ。
お父様そっくりな大きな体躯に威厳のあるお顔は睨むだけでガレットを震え上がらせた。
ガレットは奥様似だから見た目は細く女性受けはいいけど、男同士だと頼りなくて弱々しく見えるのよね。
「何しに来た」
「何しにとは失礼だな!俺はトリッシュと話を」
「我が妻を許可なく名前で呼ぶのは止めてくれ」
そう。ガレットの元婚約者はガレットの弟の妻になっていた。部外者の対処は弟侯爵にお任せすればいいとしても夫人は別でしょう。
居丈高に弟侯爵を罵るガレットを尻目にそっと夫人に近づきました。
「トリッシュ様。ここはお体に触ります。サロンへ参りましょう」
「ええ…」
「おい女!どこに連れていく?!そいつは俺の女だぞ!!」
元弟の妻を捕まえて俺の女とか何を言い出すの?夫人が青くなったじゃない。ガレットあなた元弟に殺されたいの?
「ご夫人はあなたのせいで具合が悪くなったのです。悪いと思うなら早くここから立ち去ってくださいませんか?」
家族の幸せも祝えないなんてなんて小さな男なのかしら。
こんな奴のために寝る間も惜しんで仕事をしていたのかと思うと溜め息が出る。
元婚約者の侯爵夫人を掴もうとガレットが手を伸ばしたので遮るように前に立った。するとガレットが目を剥いて喚いた。
「関係ない奴は引っ込んでろ!!」
「関係ない、とは言えないんじゃないですか?」
チェリカがガレットと一度結婚していることはそこそこ知られているので周りは戸惑った顔で此方を見ている。
連れて来られた娼婦も空気を察したのかニヤニヤと眺めていた顔を仕舞った。
「えっ…」
「わたしの顔をもうお忘れですか?ガレット」
手作りで編んだレースを被っていたのでガレットは気づかなかったのだろう。
そう思いベールを脱げば訝しげに見ていた彼の目が段々と見開いていき、そして口をぱかっと開けて指差した。
「お、おおおお、お前っチェリカなのか?!」
「はい。ご無沙汰をしております」
まったく会いたくありませんでしたが。
ガレットの視線がこちらに向いたので使用人に指示して侯爵夫人をそっと被害が及ばないところにまで下がってもらいました。
身重だというのに相変わらず空気を読まない男に呆れてものが言えません。
そのガレットと言えばチェリカを物珍しそうに頭から爪先まで何度も目を往復させ胸と腰周りを舐めるように見ていました。
元は整った顔立ちで学生時代はご令嬢なら誰もが振り向く美男子でしたが今は薄汚れているし品定めする目がとても気持ち悪い。
なにより鼻の穴を大きくして舌舐めずりしてる様が気持ち悪い。鳥肌が立って腕を擦ったくらいには気持ち悪かった。
「え、本当にお前、チェリカなのか?見違え……いやいや、どんな魔法を使ったんだよ!!まったくの別人じゃないか!
いやぁ~見れば見るほどいい女になったなぁ……今のお前なら俺の妻としてみんなに紹介してやってもいいぞ!さぁ、こっちにこい!」
「嫌ですわ」
何を言ってるのこの屑……いえ侵入者は。侯爵夫人が手が届かないところまで離れたのを確認して弟侯爵と目で合図したチェリカも後ろに下がった。
しかしその前に手首を捕まれてしまいヒエッと声が漏れ出た。うーやだやだ。気持ち悪い!許可もなく掴まないでよ!!
「何をしている?」
ざわざわとした声の中から渋く威厳のある声が響き、静かになった。
割れた人垣から現れたのはマイヤーズ様で、わたしと目が合うと優しく微笑んだがガレットを見て厳しい口調で手を離せと命令した。
「今日この場に貴様を呼んでいないが、なぜここにいる?」
「ち、父上。これはですね」
「貴様とは親子の縁を切ったはずだが?私の息子は侯爵家を継いでいる一人だけだ」
赤の他人に父親などと言われる筋合いはない、と睨み付けられガレットは涙目になった。
「俺……いえ私はチェリカを迎えに来たのです!この者は家を守らず遊び呆けていたので!やっと見つけて連れ戻すところなのです!!
もう貴族でもないのにこんなところで私の金を使い込んで何を考えている!これだから下位貴族は困るんだ!ほらっさっさと行くぞ!!」
「行くならどうぞ一人でお帰りください」
遊び呆けていたのもお金を使い込んでいたのもあなたですが。探していたのも遊べるお金がなくなって邸を管理するわたしがいなくなったからでしょうに。
後ろにいる場違いな娼婦に払うお金をせびりに来たんでしょう?
「何を馬鹿なことを!ここは貴様のいるべき場所じゃない!いつまでも貴族ぶるな!平民のくせに!」
「平民なのはあなたでしょう?」
ついっと彼……こと義父だったマイヤーズ前侯爵に視線をやるとひとつ頷いてチェリカの肩に手を置いた。
「ああ間違いない。平民は貴様とその後ろにいる者だけだ」
「え?」
「わたし、ジュール様と正式に結婚いたしましたの。なので今は平民ではなく侯爵夫人ですわ」
元男爵令嬢としても後妻にしても不相応な指輪をいただいてしまったが、今日こそ見せびらかすように自慢しても心が痛まない日はないなと思った。
「なっ!何を言っている?!お前は俺と結婚したはずだぞ?!浮気だ!不貞だ!!俺の義母上なんてあるはずがない!!」
「残念ですがあなたとはもうとっくに離縁していますわ。それにあなたはマイヤーズ家から出された身。義母と呼んでもらわなくて結構です」
虫酸が走るので。
それに倫理観がないガレットが相手でもさすがにそれくらいの法は守りますよ。
「平民は結婚も離縁も簡単ですのよ。夫婦のどちらかが報告するだけで成立するんですもの。
証明書を発行することもできますが結婚の際にあなたは〝そんなものがなくてもこの愛は本物だ〟と言ってケチりましたものね。証明書発行にはお金が要りますから」
お金で愛は買えませんが、愛の証明は買っておくべきでしたね。
「だ、だが俺は病人なんだぞ!!心の病だ!そんな俺を見捨てるのか?!お前はそんな薄情な奴だったのか?!」
「その病だが、本当に病んでいるのなら元王太子を選びお前を捨てた伯爵令嬢にその愛とやらを向けるはずじゃないか?何せ真実の愛に目覚めさせてくれた恩人なのだからな。
だというのにお前が望んで婚約を解消した義娘を追いかけ回している。おかしいと思わないのか?
貴様のことだ。彼女の優しさにつけこむつもりで追いかけ回しているのだろう?侯爵家に嫁いだ彼女なら言いくるめられると、自分が侯爵家に返り咲けるとでも考えたのだろうな」
「ち、違います!トリッシュは俺のことが好きだから、だから元気な姿を見せたくて…!」
「ならチェリカはどうだ?お前は私に〝チェリカがどうしてもというから仕方なく結婚することにした。だから援助をお願いしたい〟と言ってきたな。
しかし真実はお前が無様に泣きつきあまりにもしつこく纏わりつくから仕方なく結婚したと言うではないか。
……黙れ。まだあるぞ。その後ろの女に金を払ってプレイボーイを気取ってるそうだな?見栄を張るためと己の欲望解消のためにだ。それは誰の金だ?チェリカのものだろう?
私から借金しようとした時も自分ではなくチェリカに行くよう指示したな?お前では金を貸してくれないと理解していたのだろう?
貴様の行動には正常とおぼしき計算が見え隠れしている。確かに病んでいるが貴様の場合は貴族依存性だ。
……は?愛してるだと?誰をだ?
答えられんくせに愛を騙るな馬鹿者め。元婚約者もチェリカも大切にできなかった貴様に得られる幸せなどないわ」
振り払われたガレットは尻餅をつき使用人達に押さえ込まれた。
「チェリカ!チェリカは違うよな?俺のことが好きだろう?その指輪も俺を試してるだけだよな?な?
俺と一緒にあの家に帰ろう!夫婦に戻ろう!俺にはお前しかいないんだ!!」
涙ながらに訴えてくるガレットに少しばかり心が動いてしまったが自分を叱咤した。
そしたら肩に回っていた手がスルリと腕をなぞり、腰に回された。その流れるような動きと思い起こさせる記憶に頬が熱くなった。
「チェリカ……?」
わたしの初恋を蔑ろにした奴にかける情けなんて何もない。そう決めたじゃない。
「わたしがあなたのもとに戻ることはこの先もないわ。わたしの家はここだもの。わたしの旦那様はこの方だけ。あなたじゃないわ」
「そ、そんなはずはない!だって俺達は愛を誓ったはずだろう?…べ、ベッドの中で!お前の腹には俺の子がいるはずだ!」
「世迷言を……」
また衆目の中で女性を辱しめるか、とジュール様が青筋を立てたがそれを制してガレットをまっすぐ見据えた。
「そんな事実はないわ。だってあなたとは結婚してから三年間、関係は白いままでしたもの。その事実は後ろの方がよく知っているでしょう?」
そう言ってガレットから距離を取ろうとしていた娼婦を睨み付けると彼女はいつもの傲慢さを引っ込め、引きつった笑みを浮かべながら何度も頷いた。
わたしをバカにするネタのひとつに白い結婚だということもガレットから聞かされていたのでしょう。
それが女性にとってどれだけ傷つく言葉なのかガレットはまったく理解してなかったのだ。
「それにあなたの言う帰る家ももうないはずよ。あなたが増やし続けた借金は家と家財道具すべて売って返済に充てたの。
それでも足りないから借用書はすべてあなたの名前に書き直しておいたわ。あとは自分で稼いでね」
権利書関係は全部持ってきていたから取引がしやすかった。元婚約者が来た時のために内装も随分予算を費やしたからそこそこお金になるだろう。娼婦達に盗まれてなければ。
任せるだけ任せて何もしてこなかったのに、ガレットは衝撃を受けた顔で被害者ばりに叫んだ。
「何で!何でそんなことを!!俺とお前の家だろう?!」
「いいえ。わたしの家よ。わたしが稼いで手に入れたの。あなたは借金を作っただけでまったく働かず稼いでなかったじゃない。だから権利書もわたしが持っていたのよ」
「あっ……」
何で自分は愛想を尽かされないと思えたのかしら。無償の愛なんて聖母様にしかできない芸当よね。身に染みたわ。
「わたしがあなたにしてあげられるのはここまでよ。わたしはもう限界なの。だから、さようなら」
あとは自分一人で頑張ってください。
そう言うとガレットは愕然とした顔で使用人に連れられ出て行った。ついてきた娼婦も周りの目から逃げるように去っていき二度と見かけることはなかった。
その後、ガレットはわたしと住んでいた家を追い出され、愛人関係だった娼婦達にもあっさり見捨てられた。
しかし性懲りもなく元婚約者の周りをうろついたので憤慨した現マイヤーズ侯爵に捕まり、借金を返すため簡単には出られない鉱山に送られ物理的にお別れとなった。
「結局あれにお祝いを言わせられなかったな」
溜め息混じりに零す吐息にぞくりとして身じろぐと抱き寄せられ汗ばんだ肌が吸い付いた。
マイヤーズ様……いえ、ジュール様は結婚のお祝いをガレットに言わせたかったようだ。ガーデンパーティーはわたしとジュール様の結婚披露パーティーだった。
あの場にいるのだから知っていて来ていたと思うでしょうが、あの態度を見ると知らずに入ってきたのでしょう。ガレットならあり得る話だ。
結婚したと聞いてもそこだけ記憶から消えてるんでしょうから。
「言われたところでちっとも嬉しくないですわ」
思い出してもうんざりする彼に眉をひそめた。
「もしかしてまだ心残りがあるのかな?」
「んもう!そんなこと言わないでください!!」
違います!と焦って言い返せば彼はくつくつ笑ってわたしを抱きしめ額や髪にキスを落とした。くすぐったいけど心地好い。
「…ゲームはわたしの負けですね」
「どういうことだい?」
「だってわたしが先に本気になってしまいましたもの」
囁くような掠れた声に下腹部がきゅうっと締め付けられる。掠めるような撫で方に無意識に吐息が漏れてしまう。見つめられるだけでうっとりとなって頬も体もぽかぽかと熱くなってしまう。
何も知らなかった少女は旦那様の手によって大人の女性へと作り変えられてしまった。
でも嫌ではなかった。
望んだのはわたし。
ジュール様を受け入れた時、痛みよりも嫌悪よりも嬉しさと感動が大きかった。
手を伸ばし彼の髪の生え際や目尻のシワ、整った髭をなぞり、鍛え続けている厚い胸板にそっと手を充てた。
温かさと規則正しい心音にもう少し動揺してほしいと思いつつも安心する存在感に目を閉じた。
「チェリカが美しい女性だとやっと気づいたまでは良かったのにな。肝心なところは結局気づかないままだったか」
「旦那様。下品ですわよ」
目を開いたが細く吊り上げチクリとつねると「痛い痛い」と笑ってチェリカに覆い被さってきた。
口では引退したとか、もう老人だからとか言うのにこの体勢はどういうことかしら。全然お元気に見えますけど?
「ジュール、様、こ、れ以上は……」
「一応初夜だからね。寝坊しても何も言われないさ。それよりも、」
〝ジュール〟でいい。
そう囁かれるだけで心臓が止まってしまいそうだった。
「ジュールさま……ぁ、ジュール、」
「そう、それでいい。愛しい私のチェリカ」
すべて見られることにまだ慣れなくて視線を外すと手を取られ指先や手の平、手首にキスを落とされた。そのキスが顔や見える場所に増やされる度にぶるりと震えた。
これは期待の震えだと見抜かれた旦那様は嬉しそうに微笑みわたしを高みへと連れていく。
ついていくのがやっとなくらい情熱的な旦那様に翻弄されて溺れないように手を伸ばせば離れないようにしっかり繋ぎ止められた。
「ゲームの勝敗だけどチェリカが負けなら私はとうに負けてるよ」
「そう、なの、ですか…?」
「ああ。君が自分に魅力はないと、恥じらうように零した時にはもう私は負けていた。
このチェリカという女性の魅力を私が引き出したらどんな淑女になるか、想像したらとてもワクワクしてしまってね。
君が私のために努力している姿も、私の手で変わっていく君も見ていて好ましく愛しくなっていった」
「ジュール…」
「魅力的な私の可愛い奥さん。死が二人を別つまで私と共にいてくれるかい?」
汗がポタリと落ちる。そこから熱が広がって溶けてなくなりそうだ。生理的に滲む涙を拭ってチェリカは笑みを深くした。
「はい。生涯あなたの妻でいさせてください」
広く大きな背に手を回せば波が大きくなって、世界が白くなった。
夫人としてまだ未熟だけど旦那様が導いてくれるから怖くはない。
何も知らなかったわたしに女性としての喜びを教えてくれた旦那様には感謝してもしきれない。
わたしの髪を優しく撫でる彼の胸の中で幸せに浸りながら微睡む。
夜明けを告げる柔らかな日差しは二人を優しく包んだ。
読んでいただきありがとうございました。
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以下蛇足。
・ジュール……ジュゼペッド・マイヤーズ前侯爵。十三年前に妻を失いそれから男手ひとつで子供達を育てる。ガレットは妻に似ていたため甘やかす傾向があった。
・トリッシュ……ガレットの元婚約者。卒業パーティーで婚約破棄を突きつけられ、ショックのあまり修道院に行こうとしたがガレット弟に熱心に引き留められ結婚。溺愛されながら子供と幸せに暮らす。
・ガレット弟……現マイヤーズ侯爵。生真面目な性格。兄のガレットを許していない。新しい義母が自分の年に近いため戸惑いはあるがトリッシュと仲が良いので温かく見守っている。
・伯爵令嬢……やらかしヒロイン。断罪が失敗して平民落ち。元王太子と結婚もできず実家から籍も抜かれて放逐。そのためガレットと巡り会えなかった。
・元王太子……婚約者を断罪してあえなく弟に取って替わられた。現在幽閉中。
・ガレット……伯爵令嬢が平民落ちしたのは知っていたので追いかけなかった屑。トリッシュとの思い出に縋っていたいだけ。自分を守ってくれそうな人を探す嗅覚は秀逸。現在は鉱山夫としてチェリカとトリッシュが待っている家に帰るべく奮闘中。※すべて妄想。