44 『適者生存』⑩ 女性として
死をステラから宣告されて1週間後、この間俺は手首を切ったり、首を吊るための縄を見つけてきた。でも実際にそれらしき行為に走ったことは一度もなかった。恐怖心という障壁があまりにも分厚すぎて、高すぎて、俺はまだ一歩も登れてすらいない。しかし一歩踏み出せない一番の理由は、リリーがいるからであろう。この世界が虚構に過ぎない妄想の産物だと分かっていても、リリーを置いてこの世界から脱却する気は起きないのだ。一番の障壁はやはり彼女である。
ナイフを手首に近づけるほど、リリーの泣き顔が頭をよぎって、ナイフを握る指の力が緩む。俺が死んだら、この世界のリリーはどれだけ悲しむだろうか? 彼女もこの世界と同様に、実体のない偽物なのだが、そう理解していても、ナイフを肉に差しいれることは出来ない。
そんな俺の不安と葛藤に気づかず、リリーは相変わらずのほほんと生活を送っていた。この日常が偽物だとしても、手放す気には毛頭なれそうもない。
「ねえ、何を考えてるの?」
そんなこんな、意味のない悩みをかんがえあぐねていたらいつの間にか夜の11時を回っていた。酒場に敷かれた2つ布団。俺の右横には、息切れしながら顔を赤くして寝込んでいるリリーがいた。額には氷水が入った袋が置かれていて、苦しそうに息を切らしている。綺麗な白髪が布団上に軽やかに広がっていて、体の上には掛布団が敷かれている。
「何も考えなくて良いって。寝てなよ、無駄なことに頭を使うと回復が遅くなるぜ」
リリーはこの前の外出で軽い流行り病を拾ってきてしまったようだ。もうかれこれ2日は布団にこうやって寝込み続けてしまっており、ずっと苦しそうに息を切らしている。おっさんはなけなしの金を持って、薬を買いに街へ行った。俺はリリーの心配と、死への心配を交互に頭の中に張り巡らせながら、両者の対処法を見出そうと努めていた。
俺が出来ることと言えば、リリーのそばにいてあげることと、縄を見つけることだけだ。縄に首を掛けることも、リリーの病を治すこともできない。
医者に見せた所、そこまで重症になるほどの病気ではないらしいから、その点は安心である。しかし、リリーの辛そうな顔を見るのは心が苦しいのだ。たとえ彼女が虚構の存在だとしても。
リリーは小さい咳払いを数回繰り返す。
「ねえ、にいに。お風呂は?」
リリーの額に手を置き、温度を確認する。
「風呂は……駄目だ。熱も下がらないし、食欲もないんだろう? タオルを持ってくるから、それで我慢だな」
「え~~」
リリーは不満を露わにした声を出す。まあそれもそうだろう。年頃の女の子が風呂に入りたくないわけがない。
俺は立ち上がってタオルを取り、厨房でそれをお湯にさらした。桶にお湯を入れ、タオルと共にリリーの元へもっていく。
「ほら、拭きなよ」
「ん~~、体動かすの辛い」
リリーは辛そうな顔をしながら答える。
「でも拭かないとムズムズするだろ? ほら、早く」
俺はリリーにタオルを差し出し、胡坐をかいた足を解き、その場から離れようとする。するとリリーは俺の服をつまんで止めた。
「リリーがやるのは、ちょっときついって……にいにがやってよ」
リリーは必死に話しかける。俺はその様子を見て、彼女のことを不憫に思う気持ちが芽生えてきた。
「俺がリリーの体を拭くのかァ? 駄目だろ……」
「何が駄目なの?」
「いや……特には」
特に断る理由もなければ、特に禁止されうる理由もないので俺はタオルを持って再びベットに座る。
リリーは寝巻の白い無地のシャツを脱ぎ始める。白く透き通った肌と、成長した胸のふくらみが露わになる。俺はその光景を見て目をそらした。何となく見てはいけない物を見た気になってしまった。
リリーは柔らかい綿で出来た淡い色のランジェリーも脱ぎ始める。胸の輪郭が完全に露わになり、彼女は後ろを向いていたが、それでも女性特有のラインは目立ってしまう。
リリーは長い白髪を束ね、口に噛んでいるゴムを使って一つにまとめる。首筋とうなじが顔を出す。
「早く……」
「分かったよ」
俺は彼女の背中にタオルを置く、タオルから湯気が出ていたので「熱くないか?」と毒にも薬にもならない言葉を口に出す。それから、彼女の肌の上を滑らせるようにタオルを動かしていく。ずっと沈黙が続いている。
すると沈黙を破って「ねえ」というリリーの声掛けが響いた。
「何?」
「なんだか懐かしいね、昔はこうやって体を洗いあっていたよね?」
今までの暮らしの様子が鮮明に思い出されていく。リリーがまだ小さかったとき、やせ細かったとき、よく二人で風呂に入ったりしてたっけ。
「ああ、昔はな。リリーは石鹸を怖がるから大変だったよ」
「だって、にいにのこすり方が強すぎるんだもん」
「リリーこそ、俺の髪の黒色を汚れと勘違いして、強く洗いまくってたじゃんか」
リリーは少し笑顔を見せる。横顔しか見えないが、彼女が笑みを浮かべていることが容易に推測できる。リリーが笑うのと同時に、背中がピクピクと震えて拭きづらい。
リリーは笑いを止めた後、神妙なトーンで真剣に話し始める。
「いつからだろうね、一緒に入らなくなったのは」
「あ~いつの間にか、だな。リリーの方から入りたくないって泣き叫ばれたからだぞ」
「いや違うよ、にいにがいつの間にか入ってくれなくなったんだよ」
「え~~そう……だっけ?」
「そうだよ、どうせリリーと一緒に入るのが恥ずかしくなったんでしょ? リリーも大人に成長しちゃったからねぇ~~」
リリーは冗談であることを強調するかのように、わざとおどけて言う。
「ははは……」
「……出た、にいにの噓笑い。反応に困ったとき、誤魔化すためにそうやって笑う」
一瞬で見抜かれる。もう彼女相手に嘘は通じない。
「でも誤魔化すってことは、図星ってことでしょ?」
俺は彼女の冗談の入り混じった発言に上手く言葉を返せなかった。否、認めたくなかったのだ。彼女が今言ったことが真実だと。
いつしかリリーのことをそうゆう目で見始めた自分がいたこと。家族の一員で、血は繋がっていないが大切な妹である彼女に性的な目線を少なからずも送ってしまう時があるという、心底気持ち悪い自分を認めたくなかった。そうゆう目線を送った後、決まって自分を卑下する。生物としての性なのだろうか? 認めればいいことをかっこつけて認めたくなかった。
情けなく図星をつかれた。だからこそ他愛もないこの冗談に笑って帰すことが出来なかった。彼女を性的にみてしまう可能性を排除できないからこそ、彼女の裸を見ることに対してある種の拒絶反応が生じるのだ。
誰が見ても、異性として魅力的であるリリー。それは俺の目からもそう映るのだろうか? 答えは決まりきっている。ただ、俺が認めたくないだけなのかもしれない。リリーが一人の女性でしかないという事実を無視し、家族として何度も定義しなおす。
屁理屈をこねているだけだ、端的に言えば、彼女を一人の女性として見たくなかったのだ。いつまでもただの妹でいてほしかったのかもしれない。
「…………え?」
リリーは反応はないことに驚いたような声を発する。彼女も予想していたのだろう「馬鹿か」と呆れた返答を返す兄の姿を。しかし予想とは異なった返答が彼女を動揺させる。
「……」
また沈黙が流れる。先ほどよりもさらに気まずい沈黙が広がり、紆余曲折しながら空間を支配していく。俺の顔は赤くなっているだろう、だからリリーがこちらを振り向かないことを願い続けた。
「気持ち悪ィ~~とか、言えよな」
俺は焦りながら声を紡ぐ。必死におどけた声を出す。
「……別……に、お互い様だもの」
お互い様? 俺とリリーどの部分が? どこを指しているのか分からなくなって、リリーの肌を滑らせていたタオルが止まる。もう訳が分からなくなり、硬直する。恥ずかしながら、確認せざるを得なかった。
「お互い様? 一緒ってこと……か? てことはリリーも俺と同じように思ってたってこと?」
「……うん」
心臓の鼓動がひたすら高まるのを感じる。なんだこの感情、知らない、知りたくない。分からないままでいたい。俺の中のリリーの想像図が跡形もなく崩れ落ちていく。
彼女の顔が赤くなっているのがここからでも確認できる。熱が出ているからだろう。きっとそうだ、そうに違いない。そうじゃなければ顔を赤くして照れる必要などない。
やめろ、開けるな。閉じておけ、開いてはいけない。その先に行ったらきっと元の関係には戻れない。長年培ってきた関係だ。どのような契りよりも重く、どのような結束よりも硬いはず。その関係が一瞬にして壊れてしまう。戻れない、戻れない、戻れない。
頭ではわかっている、それ以上進んではいけないと。それでも止められなかった。いつの間にかタオルが手の内からこぼれており、何も掴む物がなくなった俺の両手は、導かれるかのようにリリーの脇の下を通過した後、彼女の腹部を掴んでいた。
リリーはまだ動かない、ただずっと正座をしながら硬直している。両手でリリーの白い肌を掴んでいる。彼女は何も言わない、肯定も否定もしない。
「いいのか?」
小さく彼女の耳元で呟く。リリーは顔を見せぬまま、小さく頷いた。それと同時に、両手を上へと上げていく。へその上あたりを通りながら、俺の両手は上がっていく。リリーの吐息が荒くなっているのを感じる。
リリーの胸のふくらみに到達する直前、俺は上げていった両手を止めた。意識を回復したかのように頭が冷静に冴えはじめ、視界がクリアになっていく。自分を客観視して、俺が今何をしようとしているのかを再確認することが可能となった。
その理由は彼女の右わき腹にある、ある堀跡に起因する。シミ一つも傷一つもない彼女の肌の上に、線が通っているのが確認できた。その存在をずっと見つめていると、それがある記号であることが理解できた。つまり意味を持った言葉であるということだ。
目を凝らすと、それが何であるかは容易に確認できた。2センチほどの幅の小さい堀跡である。
B-102 という文字列が俺の目に入ってきた。読み取りずらいが確実にそう書いてある。
「リリーッ!! これは……?」
俺は声を出して、彼女の右腕をつかみ、上げ、強引に脇腹を指さす。リリーは顔を赤らめながら、こちらを振り向き、照れているのか目線をこちらに合わせようとしない。
「優しく……してね」
「リリー、これはどうしたんだよ」
俺はリリーの顔を見てこう質問をする。リリーはこちらの質問に気づいたのか、自分の脇腹を確認した後
「え……ああ、これは、リリーが生まれた時からあった模様だよ」
「模様って……どう考えても人工的なもんだろ」
「タトゥーが入ってるのやだ?」
「いや、別に入っててもいいんだけどな……俺はタトゥーじゃなくて、このB-102っつー文字列が何かを聞いてるんだ」
「分からないよ、そんなの。奴隷のマークとかじゃないの?」
「そうか……」
B-102、俺の能力の注射にもこう記載されていたし、一条響一も何かとこの文字列に固執していた。ここまでくると無関係とはいえない。
「……あ~ァ、ムードが壊れちゃったな~」
「ん? なんか言ったか今?」
「い、いや何でもないよ!」
リリーは焦りながら強く否定する。俺は彼女が裸であることを再び意識し始めてしまい、ぶっきらぼうにタオルを彼女の頭に置いた。もう冷静さは取り戻していた。
「じゃあ続けてよ」
「前は自分で拭けよな、兄ちゃんはもう向こういってるぞ」
俺はリリーの頭をタオルごしで撫でてから、奥の厨房へと歩み始める。
リリーは頭に乗せられたタオルを取ってから、脇と胸と腹を拭き始める。不服そうな顔をしながら、小さく声を呟く。
「……意気地なし……」
しかし声音が小さすぎて、俺の耳ではその発言を受け取ることが出来なかった。
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