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31の花言葉  作者: 夏川 流美
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7.アスター

 荒く軋むベッドが、動かなくなった。静まり返る室内に、小さな豆電気が光を落とす。私は伸ばしていた腕を引っ込めると、虚な目で夫を見下ろした。



 首筋に痛々しく主張する、私の手の跡。随分と醜くなった表情が、先程までの苦しみを物語っている。


 今となっては、楽しかった思い出が脳裏を過ぎる。手を繋いで歩いた桜並木の道。イルカショーで大盛り上がりした水族館。数えきれないほどの思い出は、どれも幸せだった。



 愛していた。離婚なんてあり得ないと思っていた。なのに夫は、私を裏切った。



 少し前、たまには夫を迎えに行こうと家を出た日のこと。会社から出てきた夫は、見知らぬ女性と肩を並べていた。そのままあちこち買い物に出歩き、大きな買い物袋を手にすると、あろうことか、女性の家に入っていった。


 あまり時間が経たずに出てきたが、持っていたはずの買い物袋がなくなっていた。女性のために何かを買ったのか。夫が女性の家で過ごせるように買った生活用品なのか。何にせよ、私から隠したいものに違いはない。



 それを知ってしまった私は、憤った。問い詰めもした。だけど夫は首を横に振ったまま「何でもない」と繰り返すだけだった。



 その日から、関係はぎこちなくなった。私の顔色を伺う夫。素っ気なく対応する私。夫が謝って本当のことを話せば済む話なのに、決してそうしてくれなかった。


 ふつふつと日々煮え深まっていく怒り。夫と、あの女への恨み、悔しさ。感じたことのない感情の昂りは、夫に対する愛を消し去り、殺意へと移り変わったのだった。



 ベッドから降り、リビングに向かう。夫が今日、家に帰ってきていた証拠を無くさなければいけない。


 飲食物、床の髪の毛。放り投げられた鞄をゴミ袋に押し込んで、夫が触ったであろう箇所すべてを、丁寧に拭きあげる。まるで年末掃除のように、隅々まで綺麗にした。



 あとは着替えに寄っていた夫の部屋。おそらく、私に隠している物も他にあるはずだ。


 ゆっくりとドアを開ける。部屋主の帰ってこなくなった空間は、ひどく寂しそうに見えた。


 壁にかけられた仕事着をゴミ袋に押し込む。机の上は整頓されていて、証拠になりそうなものはない。私は嫌な緊張感を抱えながら、引き出しへと手をかけた。


 筆記用具と仕事書類の束。その上に、2つ折りにされたクリーム色の便箋が置かれていた。



 どう見ても、仕事関係のものではない。夫がこんな便箋を持っていた記憶もない。となれば、あの女から貰った手紙の可能性がある。


 眉間にシワを寄せ、誰に聞かせるわけでもない舌打ちをする。今すぐ破ってやりたい気持ちを堪えて、便箋を持ち上げた。すると、便箋の間から何かが落ちていった。



 足元から拾い上げると、それは1本の花だった。これもあの女に関わることだろうか。苛立ちに任せて、茎の部分を握りしめる。このまま、手紙の内容に目を移した。



――愛する妻、早紀へ。



 その手紙は驚くことに、そんな一文から始まっていた。夫の優しい字面。私に、宛てた手紙。


 不倫の謝罪文、とかだろうか。急速に脈を打つ心臓の音が、全身に鳴り響く。震える指先で、文字をなぞるように読み進める。






*夫からの手紙



 愛する妻、早紀へ


 君は今、この手紙をどのような状況で読んでいるのだろうか。私はちゃんと君に、手渡しで渡せているだろうか。勇気が出なくて、引き出しに入ったままかもしれないが(笑)



 君と結婚してから今日で6年になるね。お互い遠慮しながら話していた時期が、すごく懐かしく、遠い記憶のように思えるよ。最近では何も遠慮せず、言いたいことを言い合って、わがまま放題の夫婦になってしまったけどね。


 そのせいで、喧嘩も多々あった。けれどその度に仲直りができて、私はとても安堵していた。私が嫌になって早紀が離れていってしまう日を、心の底から恐れていたんだ。




 早紀。


 こんな私に、いつも美味しいお弁当を作ってくれてありがとう。

こんな私に、いつも「行ってらっしゃい」と「お帰り」を言ってくれてありがとう。

こんな私を、いつも幸せにしてくれてありがとう。


 こんな私を、愛してくれてありがとう。



 これからもずっとずっと、早紀のことを幸せにできるよう努める。だからどうか、死ぬまで隣に居てほしい。


 末長く、宜しくお願いします。



 20XX年、XX月15日

 正晴より



***




 全身の力が抜けるのを感じて、崩れ落ちる。視界が揺らぎ、間も無く涙もぼたぼたと流れていく。



 すっかり忘れていた。明日は私達の結婚記念日だ。手紙の日付も、明日になっている。最近、酷い態度を向けてばかりだったのに、夫は記念日のために手紙を書いてくれたらしい。



「ぁぁ……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!!」



 頭を項垂れ謝る先は、もう生きていない。私が殺したのだ。この手で。ついさっき。表情を歪め、足をバタつかせ、一言も口を聞かぬまま、死んでいった。


 私は、なんてことをしてしまったのだろう。


 もう取り返しのつかないことをした。いっときの怒りに身を任せて、こんなにも愛してくれていた夫を、私は。



 人生で初めて、号哭した。延々と号哭を続けた。手紙をびしょびしょに濡らして、床に水溜りを作って。それでも涙はしばらくの間、止まることを知らなかった。







――窓からうっすらと、陽が差し込む。座り込んだ私は呆然と、虚空を見つめていた。


 いったい、どれほどの時間が経ったのか。時計を見ることさえ、億劫だ。俯いて、握りしめていた花にぼんやり意識を向ける。


 細長い花弁がいくつもついて、紫色の花火のよう。雰囲気を明るくさせている黄色の筒状花は、控えめに見えた。



 この花は、なんて言うんだろう。覚束ない足取りで時間をかけて立ち上がると、寝室に置いていったスマホを取りに行く。


 ドアを開けると、ベッドに横たわったままの夫。動いてたら怖いよね、なんてつまらない思いに、乾いた笑いをこぼす。


 夫の横に腰かけて、特徴で画像検索をかけた。ぜんぜん特徴に合っていない花ばかりが並べられていく。その中で根気よく検索を続けていると、似た花の画像を見つけることができた。



 名を『アスター』と言うらしい。またの名を、エゾギク。一般的な花言葉は『追憶』『変化』など。


 夫は花言葉を調べてまでこの花を挟んだのか。それとも、見た目で選んだだけなのか。どっちなんだろうなぁと、冴えない頭で考えながら、画像が載ったサイトを読み進めていく。


 花言葉なんて縁がないものだと思い込んでいた。こうしてじっくり花に関する情報を読むのも、初めてだった。どことなく居心地の悪さを感じて、夫の冷たくなった手に、空いた自身の手を重ねる。



 アスターには紫以外に、白や赤色もあって、それぞれに花言葉が存在するらしい。では、紫の花言葉は、何だろうか。


 もし、夫が意味を知った上で

 アスターを私に贈ろうとしていたのなら。


 なんだかその意味を知りたくないような気がして、画面を操作する指が躊躇した。重ねた手を夫と絡める。優しく握ると、そこに夫の体温があるような錯覚を覚えた。



 速度の増してく心音の中、少しずつ、画面を進めていく。


『紫のアスターの花言葉』


 近付いてくる夫からの思いに、脂汗が浮かび上がった。横目で夫の姿を確認する。変わらずそこに居てくれることに、限りない安堵と苦しさがあった。


 そして紫のアスターの花言葉は――




『私の愛はあなたの愛よりも深い』




――これだった。私は一度目にしただけでは、どうにも理解ができなくて、二度も、三度も、四度だって読み返した。


 読み返すたびに視界が溺れ、指先が震え、身体の芯まで冷え、私にはどうしようもない、だけど自業自得でしかない苦しみと、悔しさと、寂しさと、行き場のない想いに、叫び声を上げた。





 夫が意味を知っていたのなら、馬鹿だよね。

 あぁ、ほんとに、ばかだ。


 だって私に、殺されてるくせに。

 殺しちゃったくらいに、本当は貴方が大好きな私に、殺されてるくせに。


 そんな私よりも、愛が深いのだと言うのだから。

 私の手にはおえない、愚か者だ。





 一度枯れたと思っていた涙は、滝のように再び溢れた。カサカサの喉は、それでも感情を吐き出そうと叫び続けた。手の震えは止まらなくなった。過呼吸にもなった。だけれど自覚した、夫への愛情は、やっぱり遅いものだから――






「……もしもし…………。











 ………………私、夫を、殺しました」






アスター(紫)

『私の愛はあなたの愛よりも深い』

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