4.バーベナ
蝉の声が、脳内を染め上げる。
アブラゼミ。ミンミンゼミ。……ツクツクボウシは、いるだろうか。
真夏の日差しは、道路を照らし、建物を照らし、草木を照らした。それから、僕の乗ってる車のことも。
エンジンの止められた車内。涼しい風は勿論どこにも存在しない。窓から入ってくる太陽光を避け、隅っこで膝を抱えて、両親の入って行った建物に目を向け続ける。
『パチンコ』
入り口そばに立てられたいくつもの旗に、そう書かれていた。他にも、難しい漢字を使っていろいろ書いてある。
パチンコ、がなんなのか、僕には分からない。ご飯なのか、遊ぶところなのか、おもちゃなのかも分からない。だけど、お母さんもお父さんも大好きなんだってことは、よく知っていた。
家にいるときも、パチンコの話しかしない。
お出かけはいつも、ここに来る。
それで、僕を置いて行っちゃう。
つまり僕より、パチンコが好きなんだっていうのも、分かっていた。
汗がだらだらと止まらない。背中に張り付いたシャツが気持ち悪くて、不快だ。拭っても拭っても、額から汗が落ちてくるし、時々目に入ると、すごく痛かった。
――早くもどってこないかな。
建物から、お母さん達が出てくる様子はない。中に何があるんだろう。そんなに楽しいのなら、僕も一度でいいから行ってみたい。
でも、連れてってとお願いしたら怒られるから、もう言わないんだ。お母さんもお父さんも、酷い剣幕で怒ってくる。ワガママは言わないって、約束もした。
ひとりぼっちの車内は、とてもつまらない。何もすることがないし、お腹が空いても食べるものもない。暗くなるまで、待っていなきゃいけなかった。
辺りをぐるりと見回す。青い空と、大きな白い雲。ざわざわと揺れてる細長い木。なんにも楽しくないな、って、建物にまた視線を移そうと思ったら。
車から数歩進んだ先、草が生い茂っているところ。そこに咲いていた、鮮やかなピンクのお花に目を奪われた。
あんなにきれいなお花、見たことない。
僕は無意識のうちにドアを開けようとして、空振りの音でハッとなった。勝手に車から降りたら、怒られる。それを主張するかのように、左腕の痣が痛んだ。
でも……。一目惚れしてしまったお花から、目が離せなかった。あのお花をお母さんにあげたら、喜んでくれるかもしれない。ずっと昔みたいに、ありがとう、って笑ってくれるかもしれない。
鍵を静かに解除する。
建物の入り口をよく観察してから、車の周りもしっかりと確認する。どこにもお母さん達の姿が見えないのを確かめて、ゆっくりとドアを開いた。
鼓動が、今までにないほど煩く、全身に鳴り響く。心なしか息もし難く、手足は震えて力が入らない。
バレたら、おこられる。
圧倒的恐怖が、僕の足を竦ませる。それでも、喜んでほしいから。笑ってほしいから。褒めてほしいから。音を立てないようにドアを閉めると、意を決してお花の方へ駆け出した。
途中でふらりと足元が揺れた。けれど無事に、お花の元に辿り着くことができた。近付いてみると、本当に綺麗で、可愛いお花だった。少しの間、見惚れてしまった僕は焦燥感に駆られ、お花の茎を折って手に入れると、車へ走って戻る。
車内に駆け込むと、ドアをしっかり閉めて息を吐いた。周囲を見て、お母さん達はまだ戻ってきてないことに安堵した。
手の中で強く握りしめたお花。よく見ると、小さなお花がいくつも付いて出来ていた。僕はその小さなお花に、どこか見覚えがある。
どこだろう、どこで見たかな。頭をうんうんと悩ませて、すごくすごく悩ませて、それからやっと思い出した。
前にお母さん達と一緒に、公園に行ったときに見た、桜だ。これは小振りの桜のお花に、そっくりだ。
これは、喜んでくれるに違いない。特にお母さん。だってあの時、お母さんは「綺麗だね」って言って笑顔だった。
早く戻ってきてほしくて視線を向けた建物から、誰一人出てきそうにはない。
ぼんやりと、考える。このお花をプレゼントしたら、お母さんも、お父さんも、なかよくなるのかな。
ぼくのこと、もうおこらなくなるのかな。
また、前みたいに、手をつないでお出かけできるのかな。
……いっしょに、いたいな。
――そこで僕は朦朧としていく意識に身を任せ、
重い目蓋に耐えきれず目を閉じて、
だけど絶対にお花は手放さないぞ、って
一生懸命に握りしめた。
***
「優真、おきて。ご飯できてるよ」
目が覚めると、見慣れた天井があった。馴染みのある匂いと、空気。体を起こして辺りを確認すると、ここは紛れもなく僕の家だった。
目を擦ると、次第に視界が明瞭になり、優しく笑うお母さんと目線が合う。お母さんが起こしてくれるなんて、何があったんだろう。
不思議なドキドキ感に身動きが取れないでいると、お母さんの背後からお父さんが出てきて、楽しそうに僕を抱き抱えた。
一瞬、身を竦めた僕だけど、抱っこされたまま何事もなく食卓に連れて行かれる。テーブルの上には、僕の大好きなハムエッグとウインナーが並べられていた。
お母さんの隣に僕が座って、向かい側にお父さん。同時にいただきますをして、みんなで食べる。朝ご飯どころか、3人で食べるなんて、一体いつ振りなんだろう。どうして、急に?
僕の気持ちなんてつゆ知らず、お母さん達はどんどん食べ進める。それを見て、僕も恐る恐るご飯を口に運ぶ。
あったかくて、ほんのり甘いご飯。まだお米しか食べてないのに、涙が出そうなくらいに美味しくて。ハムエッグも、ウインナーも頬張るうちに、いつの間にか涙が溢れ出ていた。
「なぁに、どうして泣いてるの……!」
「おいおい、ママのご飯がそんなに美味しかったか?」
お母さん達が慌てて僕を慰めてくれる。抱きしめてくれるお母さん。頭をわしゃわしゃと撫でてくれるお父さん。その温もりもまた、僕の涙に拍車をかけた。
……暫く泣き続けて、ようやく落ち着いてくると、お父さんが言った。
「早くご飯食べて、3人で公園行くぞ!」
続けてお母さんも、にっこりと笑って言う。
「そうよ〜。だから泣くのはやめて、食べちゃいましょう」
僕はその言葉に深く頷いて、目元を強く拭い、食事を再開した。
ご飯と、着替えを済ませると、玄関で靴を履く。本当に、公園に行くのだろうか。いつも行くお店には、行かなくて良いのだろうか。
置いていかれるんじゃないかと、不安な気持ちでお母さんを見上げる。お母さんは首を傾げてから、僕の右手をそっと取った。
驚いて肩が跳ね上がったけれど、懐かしい優しさに、なんだか顔が紅潮する。
続いて、お父さんが僕の左手をぎゅっと握った。僕は胸がいっぱいになって、泣きそうなのを必死に堪えて、3人で手を繋いだまま歩き出した。
昔、桜を見にきた公園。辿り着くと、入り口の花壇には鮮やかなお花が隙間なく広がっていた。
このお花は、僕がお母さんにあげようと思ってあの時摘んだのと同じだ。つい足を止めて、再びお母さんを見上げた。僕の行動に気付いて、しゃがみ込み、お花に顔を向ける。
「すごいね。とっても綺麗だね」
お母さんが微笑んで言うと、僕の心は晴れ渡るようだった。
そう、そうなの。このお花、すっごくきれいでしょ。お母さんにあげようと思ってたんだよ。
……そういえば、あの時に摘んだお花は、どうしたんだっけ。
記憶を辿るけれど、全く覚えていない。まぁでも、今お母さんが喜んでくれてるから、いっか。
「ほら優真、こっちおいで!」
ブランコの側で、お父さんが僕を呼ぶ。元気に返事をして、走り出した。
――お母さんもお父さんもなかよしで、ぼくもなかよし。
ずっとずっと のぞんでいたこと。
ずっとずっと ねがっていたこと。
だから、
今日は今までで いちばん しあわせだなぁ。
***
「…………XX市にあるパチンコ店の駐車場に車を止め、車内に長時間放置し、熱中症で死亡させたとして…………」
バーベナ
『家族の団らん』