28.ブライダルベール
「ただいま」
といつもの癖で玄関を開ける。
物音ひとつしない、真っ暗な室内で、ハッと我に変える。
先日まで一緒に住んでいた彼とは、もう、別れたんだった。
帰ったらそこに居てくれるような、おかえり、と優しい声で出迎えてくれるような、そんな期待が拭えない日々を、私はまだ過ごしている。
電気をつけると、横目で一室を見る。彼の自室だったそこは、当然のように何もなく。綺麗に掃除されたフローリングが、部屋を冷たく感じさせた。
荷物を置き、仕事着から着替え、1人分の夜ご飯の支度をする。
何回か作り過ぎては、ここに彼がいれば、なんてことを思う。きっと、美味しい美味しいって全部食べちゃうのに。
無言で進める家事も、食事も、今は何も心が踊らない。心にぽっかり穴が空いたようで、何をしていても埋まらない。
そりゃ、当たり前だよな。
布団に寝転んで、いつものようにスマホを弄りながら、頭の片隅で考える。
長年付き合ってた人と別れたんだし。
そりゃ付き合いが長ければ長いだけ、思い出があるのも当然。情と恩があるのも当然。
嫌なところも良いところも、山程知ってる。
いくら覚悟決めていたって、辛いものは辛いに決まってる。例え「いつかきっと訪れる気がしていた別れ」とか思い込んだって、そんなんで簡単に吹っ切れられたら泣くことなんてない。
泣くのも、辛いのも、苦しいのも、
良い思い出ばかり、好きなところばかり頭に浮かんでしまうのも、
憎くて仕方ない、人間の仕組みなんだと思う。というか、これが普通。じゃなきゃ、多分、冷たすぎる。
スマホを弄る手を止め、勝手にぼろぼろ落ちていた涙を拭って起き上がる。寝室の机上に飾った、ひとつの鉢植えに足を向けた。
彼が出ていった翌日。家に帰りたくなくて出掛けた先で見つけた花。ブライダルベールという名前と、店員さんに教えてもらった花言葉に惹かれて買ってしまったもの。
結婚式の話、したなぁ。何色のドレスがいい、とか、どこがいい、とか。
そんなことをぼんやり考えてしまうのは心が苦しいけれど、彼の居ない部屋に、今は耐えられなくて。
土の表面に触れる。もうとっくに乾いていた様子のカラカラした土に、私はそっと水をあげた。
一緒に幸せになることは
できなかったけれど。
どうか
お互い幸せになれますように。
そんなことを願いながら。
ブライダルベール
『幸せを願い続ける』




