27.カキツバタ
今日、別れを告げた。学生の頃から大人になって、累計10年付き合った彼氏だった。
お互い定職についた後、私達はすぐに同棲を始めた。同棲をしてからは、4年が経とうとしていた日のことだ。
お互いのちょっとした思いやりのなさが目につくようになり、不快感として胸の内に積もり、段々と口を交わさなくなっていた。
夜ご飯は何を食べるのか。それとも、各々勝手に済ませるのか。業務連絡のようなことだけをやり取りし、過ごして1ヶ月。
どこかで分かっていた。彼も、私も。このままじゃいけないことを。
彼の、言わなきゃ家事をしてくれないところが嫌いで。簡単に不機嫌になるところが嫌いで。買った食材を使い切らないところが嫌いで。疲れると八つ当たりしてくるところが嫌いで。
そう。思えば嫌いなところなんて山盛り出てくる。散々不愉快にさせられて、散々気を遣ってきて、同じような理由の大喧嘩だって、これで何回目だろうか。もういい加減、疲れたってものだ。
だから、別れを告げた。
この先、どうしたいの。と意を決して聞いてきた彼に、私は「別れたい」と言い放った。
しんと静まり返る部屋で、彼は顔を覆った。私のほうは見なかった。私は彼の背中を、伏せた目で見つめていた。
長い長い、恐ろしく長い沈黙が流れた後で、彼はようやく口を開いた。絞り出すような微かな声で、震えた力ない声で、
「なんで」
と、その3文字だけを置いた。
それは、私にとって想定外だった。きっと彼も、簡単に「わかった」と言ってくれると思っていた。
その3文字に、彼が言い表せない拒否が詰まっているのだと一瞬で察して、瞼を膨らませた。
私は、ひとつずつ理由を並べていった。
何回も喧嘩を繰り返していること。お互い直すことはできそうにもないこと。いつだって向き合ってくれず、話し合いから逃げられていたこと。
思いつく限りの理由をいくつも並べた。彼は耳を両手で塞いで、まるで聞いてないフリをしていたが、その肩は、震えていた。
理由を並べ終わったあと、再び重苦しい沈黙が流れた。私は彼の、弱々しく縮こまった背中を、涙の落ちていく瞳で見つめていた。
そうして彼は、また、ようやく口を開いて
「別れたくない」
と絞り出した。
自分は情で流されやすいことを、自身がよく知っている。だから、いつかきっと訪れる気がしていた別れがここまで引き延ばされていたことも、私はよく知っている。
何度も何度も別れ話をして、その度に私が謝ってやり直していた。でも、もう
「もう、無理だよ。
……疲れたの」
彼は、堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。
「僕は君のためにずっと頑張ってきた。
同じ屋根の下に君がいるから、仕事でどんなに辛いことがあっても大丈夫だって思えた。
わかってる。そんな君に甘えて何もしなくなったのは僕だ。
僕が悪いことなんてわかってる。
こうなってしまってから、こんなこと言って縋ったってとっくに遅いのも、取り返しがつかないことも当然わかってる。
疲れさせてごめん。
たくさん迷惑かけてきてごめん。
でも君がいたから頑張れたんだ。
君は僕の人生の全てなんだ。
君がいなければ僕には、何もなくなってしまうんだ。
今まで君を疲れさせてしまった分、今度は僕がちゃんとするから。
お願い。
頑張るから。頑張らせて。
もう一度、頑張らせて。
やり直させてよ……」
今まで見たことのないくらいに泣きじゃくる彼の姿は、私の心を握り潰すかのように痛く、酷く、辛く、苦しかった。
抱きしめたかった。
幼子のように泣きじゃくる彼を、抱きしめ、背中を摩り、頭を撫で、
ごめんね。こんなことを言って、ごめんね。
と、謝ってこんな話を終わらせてしまいたかった。
でも、そうしたら今までと変わらない。そうしてきっと繰り返すんだ。私を頑張る理由にしている限り、彼の人生は豊かにならないし、私の一喜一憂で簡単に綻びがでる。
だから、私は優しくしなかった。
優しくしたくて伸ばした手を、私は静かに下ろして言った。
「頑張る理由にされるのも、疲れるよ」
彼は一瞬、震える肩を落ち着け、しかし直ぐに背中を丸めて静々と泣き出した。
優しくして、終わらすことができたらどんなに良かっただろう。
手を伸ばして、彼に触れることができたらどんなに良かっただろう。
愛する人が、目の前でこんなにも弱っているというのに。
優しくしてしまえば、それが痛いくらい残酷になってしまうこの状況を、私はどう乗り越えたら良いんだろう。
小さな呻き声を聞きながら、その姿を見ていられなくて遠くの机へ目線を移した。
そこには2人で撮った写真と、その時に彼から貰ったキーホルダーが飾ってあった。
カキツバタの花弁が封じ込まれたキーホルダー。2人で幸せになろうね、とお互いに贈りあった、大切な思い出の品。
――あぁ、私から別れを切り出したくせに。
彼と出かけたたくさんの思い出が。
彼と繋いだ手の温もりが。
彼と話した時の楽しそうな笑い声が。
頭の中に際限なく流れ込んできて、私の涙を次々に溢れさせる。
今なら間に合う。
今ならやり直せる。
そう思ってしまう心が憎い。
話を切り出す前に決めた覚悟を、簡単に弱らせてしまう思い出の数々が憎い。
ずっと好きだった。
人生で最も大切で
人生で最も信用して
人生で最も
誰よりも
何よりも
私の心の支えになった、愛していた人。
だからこそ、
貴方の毒になってしまって、
ごめんなさい。
カキツバタ
『幸せは必ず来る』




