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31の花言葉  作者: 夏川 流美
17/32

17.キンセンカ / チューリップ

 始業のチャイムが鳴った。教卓の前に立つ先生は目を輝かせて生き生きとした様子だ。「はい、ちゅうも〜く」と言いながら手を鳴らして生徒の視線を集める。



 お昼ご飯を食べたことによる睡魔に未だ襲われる6時間目。本日最後の授業は芸術だった。芸術は嫌いではないし、どちらかというと好きな部類に入る方ではあるが、いかんせんこの時間は眠くて集中できない。



「今日は隣の席とペアになって、絵を描いてもらいます」


「えー! せんせー、真衣香と一緒がいいー!」


「だーめ、今日は自由ペアにはしません!」



 真衣香、と私の名前を出して我儘を言う生徒は、移動教室もお昼ご飯も共にしているクラスメイトだった。ぶすっと頬を膨らませて、悲しそうに眉を下げた彼女が私に目線を向ける。


 仕方ないよ、という思いを身振りだけで伝えてみせると、彼女は大袈裟に肩を落として前に向き直った。



「課題は、相手を象徴する花をひとつ、選んで描くこと。画材は自由ですが色塗りは強制ではありませんので、細部まで表現することを大事にしてください」



 先生の言葉を聞いて、横目でペアの子を見る。私はいろんなクラスメイトと話せるし、皆同じくらい親しいと思っているが、隣の席の男子だけはあまり会話をしたことがなかった。


 目にかかるほど長い前髪と、マッシュと呼ばれる丸い髪型。薄い縁のフレームの眼鏡が勤勉さを感じさせる。いつも教室で彼は何をしているかと問われると、悩んでしまうような存在感。象徴する花、と言われても何も出てこない。



「では、始めてください」



 先生の合図で、私は机と椅子を彼の方に向けた。彼も同じように机と椅子をこちらに向ける。向ける必要があろうとなかろうと、ペアがいる芸術の時間は、こうすることがルールだった。



「象徴する花、だなんて難しいね」



 手始めに共感を得ようと話しかけてみたが、彼からの返事が来る前に私の頭上から声が降ってきた。先程のクラスメイトだ。



「ねーえー真衣香ー、花ってなにがあるのー? あたし全然わかんないんだけどー」


「花は私もあんまり詳しくないよ……。ひまわりとか、ユリとか、チューリップとか、そういうのしか知らないなぁ」


「だよねだよね! だけど真衣香なら、ひまわりもユリもチューリップも、どれ選んでも真衣香って感じするよ!」


「そう? それ、もちろん褒め言葉でいいんだよね?」


「当たり前じゃん! ひまわりみたいに輝いててー、でもユリみたいに女の子らしくてー、チューリップみたいに可愛いって感じ!」




 褒められるような私じゃないのに。


 そう思いながら軽くお礼を言うと、彼女は満足そうに「いえいえー」と返して自分の席へと戻って行った。


 私は、まだ手をつけていない白紙に向き直る。そこで初めて気が付いたが、彼は既に課題に着手していた。今の彼女の言葉を聞いて決めたのだろうかと少し観察してみたが、彼女が挙げた花ではないように見えた。



「ねえ、私の花は何にしてくれたの?」



 そう聞くと彼は手を止めた。前髪の隙間から、上目遣いで見てきているのが分かる。数秒の間を挟んだ後、彼は淡々と「キンセンカにしたよ」と返事した。



「キンセンカ? なぁにその花、聞いたことない」


「有名じゃないから。でも、選んだ理由は聞いたら納得してくれると思う。……多分だけど」


「へえ、どういう理由? 教えて」


「完成したら教える。俺のことは適当に……チューリップでいいんじゃない? ほら、髪型が似てるだなんとか言ってさ」



 彼からの提案に、思わず声を上げて笑ってしまった。こう言ってはなんだけど、見た目に反してすごくユーモアがある。あまり話したことがなかったから知らなかったけど、実はすごく親しみやすいのかも。



「笑うのはいいけど、早く描いたほうがいいよ。あの先生のことだから、終わらなかったら宿題にされるよ」


「あー、そうだね。ふふふ、面白くってつい笑っちゃった。じゃあお言葉通り、私はチューリップにするね」



 私の返答を最後に会話は終わった。先生から借りた資料や、検索した画像と睨めっこして、お互い黙々と作業を進めていく。結局、彼は終わったけれど私は宿題になってしまった。



 クラスメイトとひと言、ふた言交わして教室を出る放課後。遠くの木々の隙間から突き刺してくるような夕陽に目を細め、私は重い足取りでひとり、歩く。


 帰路だけはいつもひとりになる。というか、ひとりになっている。すぐに帰ってバイトに行くしかないから……というのが皆についている嘘。本当はバイトなんてしていない。


 別にお金に困っているわけでも、欲しいものがあるわけでも、年頃の皆のようにお洒落して出かけたいわけでもない。ただ、私の家まで友達に着いてきてほしくなかった。



 ただいま、とドアを開ける。しん、と静まり返っている家の中。今日は物音がしない。もしかしたら出かけているのか、それとも――


 ――あぁ。と、リビングを覗いた私は肩を落とした。




 床一面を埋め尽くす程の、割れたガラスの破片。その中に、ぐちゃぐちゃになった料理らしき物も落ちている。


 そして、ソファの側で動かない、私の妹。



「愛香!!」



 名前を叫び、ガラスに気をつけながら近寄る。まだ小学1年生の妹の愛香は、心地良さそうに寝息を立てていた。生きていることに安堵すると共に、再度声をかけて起こす。



「愛香、お姉ちゃん帰ってきたよ」


「……んー……おねえちゃん?」


「そうだよ、ただいま。どこか痛いところはない? お母さんは?」


「おかえりなさい……! さっきお母さんに手首つかまれたのがちょっと痛いかも……」



 そう言われて手をそっと取る。目立った外傷はない。どのくらいの強さで掴まれたのかわからないが、アザになっているようにも見えない。とりあえずは大丈夫そうだ、と手を置いた。


 私たちは、母と私と妹の3人家族。父はいない。2人目は要らないと言っていた父に対し、内緒でピルを飲まないで妊娠した母に呆れてどこかに行った。


 しかし、母は父に依存していた。家庭の全ての物事は、父の思考と判断と感情で決まっていた。


 だから、勝手にピルを飲むのをやめたのは母なのに。産むことを決めたのも母なのに。妹が産まれると「産まなきゃ良かった」としょっちゅうヒステリックになった。家中の物を壊さないと気が鎮まらなくなってしまった。



「お母さんは外?」


「『あんたなんか産まなきゃ良かった』って言ってお外でていっちゃった」


「また、そんなこと言われたの……?」


「うん。でも愛香へーきだよ。おねえちゃんがいてくれるもん」



 へにゃ、と微笑む愛香。その頬には一昨日ガラスでついたばかりの傷が痛々しく主張していた。


 母は決して、私には暴力を向けない。私は父に愛されていたからなのか、年齢なのか、どちらかなのかは分からないが、母のヒステリックが私に向けられたことはない。


 それゆえ、嫌になる。私には何もできない無力感。妹が怒られているのを黙って見過ごすことしかできない、自分の弱さが、嫌だった。



「いつも守ってあげられなくて、ごめんね……」



 そう言って妹を抱きしめる。こんな言葉を吐くことはできるのに「やめて」の一言、言えたことがない。外に相談しようにも、どこに、誰に話したらいいか分からないまま。



「お片付けするから、愛香はお姉ちゃんの鞄をお部屋に持って行ってくれる?」


「うん、いいよー!」



 私の鞄を両手で抱えて、足元をよく見ながらとたとたと部屋に駆けていく。その背中を見送ってから、もう一度肩を落とした。この部屋を片付けるのも、今月これで何回目になるのだろう……。







 翌日。妹と一緒に家を出て学校に向かった今朝。学校に着くと、教室内には"いつも朝早い組"の数名が既に到着していた。その中に隣の席の男子がいた。


 そういえば宿題を終わらせてきたんだと、鞄から芸術の宿題を取り出し、男子に声をかけた。



「おはよっ。みてみて、チューリップ。上手く描けたでしょ」


「あぁ…………。……うん、花弁の繊細さが表現できていて、綺麗だ。……ところで、チューリップの花言葉は知ってる?」


「え? チューリップの花言葉どころか、なんの花も知らないなぁ……」


「チューリップは"思いやり"という花言葉の他、色で花言葉が変わる。例えば、色の塗っていないこの白いチューリップには"失われた愛"という意味がある」



彼は私の宿題を指差して、淡々と説明をした。花言葉の話など他の誰ともしたことがない。知らない知識に、相槌を打って聞き入る。



「だがこのチューリップに色を塗ってあげることで途端に意味が変わる。一般的な赤色は"真実の愛"という意味があるし、紫に塗ったとすると"不滅の愛"という意味がある」



 色の塗っていないチューリップを白に例えた後、チューリップの色を塗ると表す彼の語彙に密かに関心しながら、私は話を聞き続けた。



「桃色も良い。桃色は"愛の芽生え"という意味を持つ。だが、黄色にしてしまうと"望みのない恋"という意味になる。折角色を塗るのなら、黄色以外にしてあげるともっと素敵になるよ」



 そこまで一気に話し終え、彼はハッとしたように目を見開き顔を背けた。こんなに喋ってくれたのは見たことがない。きっと照れ臭いのかもしれない、と感じて思わず笑みをこぼした。


 花には花言葉があるという事だけは知っていたけれど、詳しく調べたことも興味を持ったことも無かった。それが、まさか隣の男子から教えてもらえるなんて。


 心から湧き上がった、もっと知りたい、の感情。私は彼の目線を呼ぶように机を指で軽く叩いた。



「花言葉ってとっても面白いんだね! ねぇ、それなら私に描いてくれた……キンセンカ? にはどんな意味があるの?」



 ゆっくりとこちらに振り向くと、私の目をじっと見つめた。なかなか言い出さない様子に、少したじろいでしまう。彼の瞳が、やけに透き通っているような錯覚を覚える凛とした目線だった。



 彼は暫し言葉を溜めた後、まだ数名しかいない他の生徒の話し声に、混ざってしまうくらいの囁き声で言った。



「"暗い悲しみ"という意味。君は向日葵も百合も似合うが、本当は何か抱えている」



 彼の言葉に胸の奥が大きく鼓動した。


 学校に来ている間は忘れようとしていた出来事が、家の中の荒れた光景が、妹の頬にできた傷が、それでも笑ってくれる妹の哀しい表情が、襲い掛かるように脳裏によぎった。




「……と思ったんだが、勘違いだったら本当に申し訳ない。忘れてほし――……!!」




 目を見開き、言葉を失った彼がポケットから慌てた手つきでティッシュを差し出してくれた。私は音もなく、泣いていた。両目からぼろぼろ溢れる涙は、自分の意思ではない。止められない。




 ずっと誰かに助けを求めたくて、でもどうしたらいいのかずっと分からないままで。


 本当は学校から帰りたくないけれど、私が帰ってあげなければ妹がひとりになってしまう、なんて偽善に苦しくなって。


 私と妹の産まれる順番が逆だったら良かった。そんな有り得るわけのない願いだけを繰り返して眠りについて、動かない身体を無理矢理起こして学校に向かう日々。




 具体的に何か指摘されたわけではない。まだ助けを求めたわけでもない。それでも、彼の瞳に、彼の言葉に、苦しかった心が少しだけ緩んだ気がして。



「嫌じゃなければ、話せるところだけでも聴かせてくれる? 大丈夫。ちゃんと力になる」



 優しく寄り添ってくれるその言葉に、私はより一層、涙が止められなくなった。






キンセンカ

『暗い悲しみ』


チューリップ

『思いやり』


白 『失われた愛 』

赤 『真実の愛  』

紫 『不滅の愛  』

桃色『愛の芽生え 』

黄色『望みのない恋』

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