11.曼珠沙華
同じ香水。
……同じ髪型。
…………同じピアス穴。
じり、と背中に火傷のような鈍い痛みが走った。最初は快感に紛れそうだった痛みも、次第に無視できないようになってきて。
「あ”ー……萎えた、帰るわ」
「っは!? ちょ、ちょっと待ってよ」
そばにあったバスタオルを腰に巻き付け、追いかけてくる女を乱雑に振り払う。さっきまでだらしなく喘いでたくせに、一変してキレだした女が枕を投げてきたので、舌打ちを残してその場を去った。
すっきりしない気持ちでホテルを出ると、脳裏に前に付き合っていた彼女の姿がチラつく。一番長く続いた相手だった。
別れたのは自業自得なんだけど。どこかあいつと共通点があるやつをどれだけ抱いても満たされなくて。むしろ抱くたびに心が空っぽになっていくみたいで。隣の存在がどれだけ支えになっていたか、思い知らされる。
ホテルを出て数分もすれば、感じていた背中の痛みはすっかり消えた。もやもやした気持ちのまま帰るのも勿体ない。スマホを片手に、暇そうな女に片っ端から連絡を飛ばす。
予想通り、女は簡単に捕まった。歩いて数分のホテルまで呼び出せば、息を切らして嬉しそうに駆け寄ってくる。
「急だったのにごめんね。君にどうしても会いたくてさ」
適当な甘言を吐いて肩を抱き寄せた。何の疑いもなく喜ぶ女を、冷めた目で見下す。部屋に入ったらやる事は勿論、決まっている。
シャワーを浴びたそうにする女に口付けて、優しくベッドに押し倒す。あっという間に物欲しそうな顔をする、獣みたいな女。この女は、あいつと……目元がよく似ていた。
目を見つめたまま、悦ばせた。あぁ、気持ちよさそうに細めた目元も、そっくりだ。そんなことを思って、離れた意識の中で絡んでいると、じり、と火傷のような鈍い痛みは再び背中を襲ってきた。
俺の行動を伺う顔をした女から離れて、背中の痛みに足を引きずり、洗面台に向かう。ドアを閉めて鏡に背を向けると、そこには
「なんだ、これ…………花、か……!?」
大きく反り返った、鮮やかな赤い花が咲いていた。俺の背中の中心から、いくつも咲いていた。この花を、知っている。紛れもない、これは、彼岸花。
恐る恐る背中に手を伸ばす。指先に触れる、確かな花弁の感触。引っ張ると、背中から全身にかけて電流が走ったような痛みがあった。抜くことは不可能だ。
なんで、俺の体から……人間の体から、花が咲いているんだ。
見たことも、聞いたこともない事象。手足が震え、脳内は真っ白になり、とにかくパニックだった。
新しい病気か?
なぜ、突然。どうして、俺が。
怖い。怖い。怖い、なんだ、これは。
人間の体から、花が咲くなんて。
「ねぇ、どうしたのー……?」
「入るな!!」
コンコンと叩かれるドア。ドアノブに手をかけられることを恐れ、つい怒鳴りつけてしまった。いやしかし、こんな不気味なもの、見られるわけにいかない。
「なんで? 急に意味わかんない、どうしたのか教えてよ」
「悪いけど帰ってくれ」
「ねぇ本当にどうしたの。具合が悪いの? なんかあるなら言ってよ。それとも私、なんかした?」
「いいから、帰れ。俺に構うな」
「……なにその態度。呼び出しといて途中でこれとか、ほんっとありえない。わかった、もういい、帰る」
女が部屋を出ていく音を耳にして、ようやく一息ついた。これで、見られる心配はなくなった。しかし、咲いてしまった花はどうしたらいいのか。じりじりとした痛みは、継続的に背中に広がっている。
洗面台を出てスマホを手に取った。背中に花が咲く病気。…………そんなもん、調べたって出てきやしなかった。
不安と恐怖で、満たされていく。頭も心も怯え、もう他の女に連絡を取る気にはなれなかった。
ふと脳裏に浮かぶのは、好きだったあいつの顔。あいつだったら、逆ギレする勢いで心配してくれるんだろう。そんで、泣きそうな瞳で真っ直ぐに俺を見つめて心配してくれるんだろう。……あぁなんて、未練がましい。
全く忘れられていない。あいつのこと、何もかも。振られたくせに、ずっと頭から離れなかった。できることならもう一度、などと何回考えて止めたことか。
すぐ泣いてすぐ怒って、すぐ笑った。俺と居る時だけ子どもっぽい、そういうところが愛おしかった。
じりり、と背中の花が主張した。それは孤独感と苦しみに追い討ちをかけた。助けてほしかった。他の誰でもない、あいつに。「大丈夫?」って声をかけてもらえれば、それだけで治るような気がするくらい、あいつを欲していた。
振られたのに。別れたのに。それは俺の自業自得だったのに。
情けない。
そうと分かっていても、電話をかける手は止まらなかった。
「――もしもし。どうしたの?」
今や懐かしい声が、スマホの向こう側から聞こえる。いつまでも変わらない優しい温度が、俺の感情全部を包み込み、溶かしてくれるように思えた。正直、目の奥が熱い。
詰まりながらもようやく言い放った「会いたい」の言葉。彼女は少し悩んではいたが、明るく返事をくれた。
会ったら背中を見てもらおう。何か分かるかもしれない…………いや、分からなくていい。ただ、彼女に知ってほしい。俺の苦しみを、彼女だけに共感してほしかった。
待ち合わせは午後、とあるカフェのそばで。10分前に到着したにも関わらず、彼女は既にそこに立っていた。
久々に顔を合わせた。どれだけ他の女を抱こうと記憶から薄れなかった彼女が、ここに来てくれていることが嬉しかった。
蝶のような声。柔和な表情。へその前で両手を組む癖。当たり前なんだけれど、どれもこれも俺が求めていた彼女の姿そのものもで。
気付けばぼろぼろと涙が溢れ出た。
他の女に見せていた見栄とか、ずっと見ないフリして責任逃れしようとしていた自分の悪いところとか。
何もかも、ぜんぶ崩れおちていくみたいに。
安心の沼の底に落ちていくみたいに。
抑えていた言葉は、簡単に口を出ていった。
「ごめん。ずっと好きだった。忘れられなかった。……やり直したい」
だけど彼女は、困った表情であっさりと返した。
「ありがとう、ごめんね。私、もうお付き合いしている人がいるの」
全身の血の気が引くようだった。でも、そりゃそうか。当たり前だよな、と変に納得もした。
だって、彼女は俺の数倍、数億倍も良い子だし。なにせ別れてから半年以上も経っている。こうやって寄りを戻そうとするのが、おかしかったんだ。
拳をきつく握り締めた。歪んだ地面を固く踏みしめた。
「そうだよな、今更ごめんな。まぁそれとは別で、ひとつだけ聞いて欲しいお願いがあるんだけど」
冗談っぽく、笑って返せただろうか。
込み上げた涙を喉に流し込んで、背中の彼岸花だけどうしても確認してほしいと懇願する。彼女は困った表情のままだが、快諾をしてくれた。
*
「ごめんね、力になれなくて」
「いや……気にすることない。助かったよ」
結局のところ、彼女と確認した背中には花が咲いていなかった。彼女には見えないのかと思ったけれど、その時は自分の目にも見えなかった。背中の痛みも引いていた。
へその前で組んだ両手を、落ち着きなく動かしている彼女。もう別れなければいけない。きっと、新しい彼氏が待っているのだろう。
別れたくない。離れたくない。あと1時間、否たった30分でもいいから、一緒にいたい。付き合っていた頃のように、他愛もない会話をしたい。したい、けれど。
「突然呼んだのに、来てくれてありがとう。助かったよ」
それじゃあ、かっこ悪い。
「ううん、少しでも力になれたなら嬉しい」
「俺は……この後用事あるから帰るけど、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
「わかった。本当にありがとう。
幸せになって」
最後くらい、かっこ良く想いたい。
俺といた頃よりも
目一杯、笑ってくれますように。
曼珠沙華 / 彼岸花
『思うはあなた一人』




