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挨拶の懊悩

作者: 吟遊蜆

 元気は元気であることに疲れていた。誰かと久しぶりに会うたび、いちいち「お元気ですか?」と訊かれるのが面倒で仕方なかったのである。


 そんなのはもちろん単なる挨拶の常套句であって、本当に目の前の相手が元気か元気でないかなど誰も気にしているわけではない。それはわかっているのだが、元気に許されているのはいつだって「元気です!」という快活な返事ただ一択のみであった。元気にはそれが不本意で仕方ない。自分がたいして元気でないときには、それは嘘をついていることになってしまうからだ。


 元気はかつて一度だけ正直に、「お元気ですか?」との挨拶に「それほどでもないです」と正直に答えてみたことがあった。その日は本当になんとなく体調がイマイチだったのでそう答えたのだが、相手は思いがけぬ返事にすっかり面食らったようで、うっすらと苦笑いを浮かべたままそそくさと立ち去ってしまった。


 こんなときは、むしろ明確な病気にでもかかっていたほうが、話は盛りあがるものなのかもしれない。


「実は先週まで、インフルで寝込んでまして」

「それはそれは、大変でしたね。じゃあ鼻の奥にあの長いの、突っ込まれました?」

「ええ、それはもうグイグイで。脳みそ突き抜けるかと思いましたよ、ハハハ」


 盛りあがったとてなんの中身もない会話だが、気まずく別れるよりはいくらかマシであるように思える。元気が元気でないと答えるくらいならば、元気が元気に病気の話をしたほうがいい。しかし元気は基本元気であるため派手な病気などしないから、やはり元気は「元気です」と答えるしかないのだ。元気は元気にとり憑かれて生きていた。


 おはようは近ごろ、おはようがますますわからなくなってきた。おはようは漢字で書けば「お早う」となる。お互いにまだ時間が早いということを報せあうことに、いったいなんの意味があるというのか。おはようは自分に存在価値などいっさいないのではないかと、そう思いはじめていた。


 そのうえおはようは、いったい何時から何時までがおはようの守備範囲であるのかを、いまだはっきりとは自覚していない。オフィスで午前十一時に「おはようございます」と上司に挨拶したところ、「いやもう『こんにちは』の時間帯だろ」と注意されたこともあったし、もっと嫌味な先輩には、「はい、おそようございますぅ」と当てこすりを言われたこともあった。


 かと思えば、テレビCMの撮影現場に立ちあった際には、午後三時にスタジオ入りした主役の人気子役タレントから開口一番、元気に「おはようございます!」と挨拶されてたじろいだこともあった。芸能界では何時であろうと挨拶は「おはよう」一辺倒だと言われているが、このときおはようは、自らの意味が脳天からふわっと抜けてゆくような虚脱感をおぼえた。


 悩ましいおはようは、ある夜行きつけのバーで隣人のこんにちにこの件について相談することにした。するとこんにちはお悩みに答えるどころか、「俺のほうがもっと意味不明だよ!」と逆に愚痴をこぼしはじめたのだった。


「こんにちは」という挨拶は、漢字で書けば言うまでもなく「今日は」である。会ったばかりの相手の目の前に、ただ文章の主語だけがいきなりポンと置かれた状態。お互いに同じ「今日」という孤独な主語だけを投げかけあうのみで、それに続くべき文章のいっさいがどういうわけか省略されてしまっている。こんにちは「だからなんなんだよ」といつも強く感じながら、それでも義務感からこんにちはを言い続けているという。


「いやほんと、まったくだよな」


 先ほどからカウンターの隅で聞き耳を立てていた男が、二人の会話に割り込んで賛同の意を示してきた。こんにちの意見に激しくうなずいた男は、自らの名を「こんばん」と名乗った。


 おつかれは、たいして仕事もしていない一日の終わりに「おつかれさま」と挨拶することに強い罪悪感を感じている。相手に「おつかれさま」と言われたら、こちらも「おつかれさま」と返さなければいけないことにどうやらなっているが、ここで素直に「それほどでもないです」と答えてみたら、人間関係はいったいどうなってしまうのだろうとおつかれは考える。


 ある日そんなおつかれの職場に、かつて何度か仕事でかかわったことのある、関連会社社員の元気が久々に現れた。


 おつかれは元気に「お元気ですか?」とご機嫌うかがいの挨拶を投げ、一方でちょうど会社への用件を終えた元気はおつかれに「おつかれさまです」とねぎらいの挨拶を述べた。それからお互いが相手の挨拶に対して、同じく「それほどでもないです」と正直に答えることを果敢にも選んだのだった。そのときオフィスにいた全員が、数年間放置された倉庫のような空気の澱みを感じたという。


 元気でもつかれてもいないときにふさわしい挨拶の言葉を、我々は至急発明する必要があるのかもしれない。さらには、「今日は」と「今晩は」の先にあるなにかしらの言葉を。

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