契約
壱成は真香の言葉を聞き、自分がなぜ彼女の婚約相手に選ばれたのか少しわかった気がした。
青炎の使い手として有名な彼ならば、娘を任せることができると塚田正太郎は考えたのだろう。
……真意は別にあるのだが、彼に知る由はない。
「今まで外に出るとき……特に夜はどうしていた? 夜会に出たことが一度あっただろう」
げ、と千影は心の中で嫌な記憶を思い出す。
巷で話題の恋愛小説が、令嬢と王子が夜会で出会うところから始まるもので、真香サマはその話にどハマり。自分も夜会に出たい、なんて騒ぎ出した。
彼女に甘い両親もこれには戸惑っていたが、結局夜会に真香自身が出ることを許した。
千影は屋敷と会場までの往復をずっと悪霊を祓い、夜会では真香の側について誰とどのような話をしたか把握する必要があった。
真香は初めての社交界で、案の定、落ち着きがなく、放っておけば何か目立つミスをしそうだった。
そんなことはわかりきっていたので、それを補うのはもちろん千影。
正太郎の命令で男装して、真香をサポートすることになっていた。
男の体に見えるようにと、体にいろいろ細工をし、顔も特殊な化粧を仕込まれた。
腐っても医者である正太郎が監修したので、完成度は高かった。
真香の好みで形成されたので、彼女に近づくのは簡単。
読んでいた恋愛小説や真香の話から、どんな振る舞いをすれば彼女を自分に惹きつけられるかはわかっていた。
接触すると、真香が他の人と関わらないように誘惑する。
これが想像以上に真香の瞳を乙女のそれにしてしまい、千影は辛かった。
何が悲しくて、女、それも血の繋がった姉妹を口説かなくてはならないんだ。と虚しくなったのは言うまでもない。
夜会が終わって、屋敷に帰った真香は「王子を見つけたの」なんて芙美子に話しており、どうやら本気にさせてしまったようだった。
また夜会に行く、なんて言われては、いつボロを出すかわからないので、真香の王子になりすまし、文通することに。
うまく彼女を操って、それからは夜会に出ることはなくなった。
(……男装だけは、もう御免だな)
人に純粋な好意を向けられるのは、疲れるのだ。
真香がいなくなったので、もう彼女の王子になることはないが、思い出すだけでどっと疲れが湧いた。
「……父がなんとかしてくれました。きっと私の知らないところで護衛を沢山つけてくれていたのだと思います」
「まぁ、そうだろう。塚田は専属祓いの登録数が多いからな」
壱成は軍の人間だ。祓い人の情報は知っているらしい。
(となると、「緒方 かげ」を知っている可能性が高い……)
千影として表で動くときの名前だ。
緒方は照子からもらった氏。彼女は履歴では照子の養子になっている。
外で素の顔を出したことはないのでバレることはないと思うが、避けたい話題だ。
「そうなのですか。そういうことはあまり教えてもらえなくて……」
知りません、と千影はそこで話を打ち切った。
壱成は琴吹に席を外させる。
今日早く帰って来たのは、もとより彼女と取引きをするためだ。
様子が変わった壱成に、千影は警戒する。
「俺が婚約を三度破棄していることは知っているだろ?」
「……はい。承知しております」
まさかもう婚約を破棄されるのかと、千影は焦った。
(まずい。まだ1ヶ月も経っていないのに……)
何もしていないことが裏目に出てしまったのだろうか。
いや、それにしたって、理不尽な解約である。
彼の表情は読みにくいが、無礼を働いた記憶はないし、うまくやっていたはず。
さあっと血の気が引いたが、冷静に次の言葉を待った。
「俺は結婚しないつもりだ。それは誰であろうと」
ぐっと千影は拳に力を入れる。
彼を脅して裏から操ることができれば、どれほど楽なことか。
「では、私はもういらないということでしょうか……」
腹の奥底に溜まった黒い感情を出さないように、庇護を誘うような表情を作り出す。
「いや。そこで君に話がある」
もちろんこの男が、今貼り付けた女々しい真香の面に惹かれたわけではないことはわかっている。
「話、ですか」
「ああ。そちらもまさかこの婚約がうまくいくとは思っていないだろう?」
皮肉のこもった言葉に、千影は何かが冷めた。
(ええ、微塵も思っていませんとも)
自分が “真香” になることができれば、それは口に出ていたことだろう。真香であれば、塚田家に守ってもらえるのだから。
それは出来ない、だが自分は真香だ。
不自由は今に始まったことではない。
「では、なぜ婚約を?」
感情を押し殺し、キョトンとして、千影は首を傾げる。
——その気がないなら、受けなければよかったものを、何故受けた?
そのせいでこちらは苦労しているんだぞ。
心の中では、そう文句を漏らしながら。
「単刀直入に、君が塚田の娘だからだ」
これも想定内の答え。
千影は何か自分を驚かせるような、違う答えが聞きたかった。
わかっているのに、どうしようもできないことに腹が立ってくるから、彼女は “想定内” のことに、げんなりしてしまう。
だからといって、想定の範疇を大きく超えられても困りはするが……。
「医学界では、塚田は力を持ちますからね」
「十分すぎるだろう。正直、俺に娘を任せてくるとは思わなかった」
それはそうだ。
何せ、彼女は本当の真香ではない。
箱入り娘の姫さまとは扱いが違う。
「……壱成さまには、塚田にはない力をお持ちです。私はこのような身ですので、徳永の方と結ばれることは、理にかなっているでしょう」
「意外だな。彼らが理を考えて、君を嫁にやるとは思えないが」
「父は、お強い方でないと私を任せられないと考えていましたよ」
これは一応、本当の話だ。
そのせいで千影が血反吐を吐くほどの努力をさせられた。真香を守るためにと。
そこまでさせておいて、か弱い娘の皮を被った化け物だと、正太郎に疎まれていたことも知っている。
でも、千影には彼らに化け物と呼ばれようと、どうでもよかった。
照子さえ生きて、自分を支えてくれていれば、それだけで頑張れる。
正太郎や芙美子が異常に真香を大切にしたように、千影も照子に執着していた。
そういった面では彼女も塚田の一員だった。
「そうか。だが、俺は君を生涯守ることはできない」
「……私も覚悟はして参りました。それでも、このような形であなたにお会いしたからには、少しでも親睦を深めたいと思うのはいけないことでしょうか?」
千影はかなり核心に迫った質問をしたつもりだった。ここで断られれば、後がない。
「親睦を深める、か。それは確実に婚約破棄されるとわかっていてか?」
しつこい質問にうんざりしたが、顔には出せない。
「もしもの時には、王子が迎えに来てくださる予定ですので」
フフ、と馬鹿っぽい台詞に笑顔を添える。
一度だけ出席した夜会のことを調べてもらえれば、“王子” の存在が口から出まかせではないことがわかるはずだ。まぁ、その王子はすでに出国しており、姿を消したことになっているが。
(王子? 子供染みたことを……)
壱成は訝しげな顔をしたが、気にしない。
これくらいハメを外してもいいだろう。
彼女はそう考えるに違いないから。
「……本題に入ろうか」
壱成は、真香が婚約破棄覚悟でここにいることを確認した。
そこからの話は、双方にとってメリットしかない話だった。
「——つまり、あと九ヶ月後の一月に婚約破棄したいと?」
「ああ。そのつもりだ」
千影は話を聞き終え、ほくそ笑む。
(よし。最長記録更新だ。とりあえず第一関門は突破できそう)
照子の身の安全は一月まではなんとかなりそうだ。その後は、どんな手を使ってでも、ふたりで幸せに暮らそうと、千影は固く決意した。
「……九ヶ月、何があるかはわかりませんが、それまではこちらでお守りいただけるということでしたら、私も父に支援の方を提案したいと思います」
これは契約だ。千影と壱成の。
千影は正太郎と一戦交えなくてはならないが、勝算はある。
千影が照子の名を出されて大人しくするのと同じように、正太郎も真香の名を出せば話を無下にできない。たとえ本人は死んでいても、だ。
「決まったな」
壱成は風間を呼んで契約書を用意させる。
千影は壱成の背後にある窓の外で、見張り役がこちらを見て手話で合図を送ってくるのを見て、内心とても喜んだ。
(今日の見張りは、伊代だったのか!)
こんなに幸運なことはない。
伊代は塚田の隠密組織で、千影と協力関係にある娘だ。
塚田は病気の家族を人質にとって、使える人材を縛るのが定型で、伊代も妹を人質に取られて働かされている。
裏切り行為を通告すると治療費が削減されるので、隠密組織内ではパノプティコンが形成されているが、その中でも地道にやり取りをしている関係だ。
千影は心の許せる同志に安心して、「塚田真香」と当たり前のように名前を記す。
きっと伊代が手を回して、自分の見張りをできるように仕組んだのだろう。
監視の網に穴が空いた。
「最後にひとつ。君はさっき、九ヶ月何が起こるかわからないと言ったが、俺はこの契約を破棄するつもりはない。それだけは忘れるな」
「……承知しました」
言葉に詰まったふりをして、千影は頷く。
彼女は自分が塚田家でよかったと初めて思った。ほかの家だった場合、こんな契約は結べなかっただろう。
部屋に戻ると、今日は壱成とよく喋ったなと、先ほどのことを振り返る。
結局、あの男が女を嫌うのか結婚を嫌うのかは曖昧なままだが、それを気にする必要もなくなった。
(運がよかった……)
真香は死んだ。
塚田には娘を有力な家に嫁がせることによって得られる利益はなくなったが、後継者は既に決まっており、一族の仲も決して悪くない。
彼女は死んだのだ。
今は正太郎が「影」を使って、最後に一稼ぎさせようとしているだけ。
そんなニセモノは必要ない。
(うまく消えよう。真香は死んだ。それが正しい世界なんだから。言うなれば、これは正しい婚約破棄だ)
徳永壱成との婚約は不運なものに見えたが、逆だった。
期限を迎えれば、彼とは別れることができる。終わりのあるトンネルだ。先に待つのは闇じゃない。
そして、伊代とうまくやれば、塚田の目もかいくぐって、セカンドライフの準備ができるはず。
欲を言えば、少しでも恋愛感情を持ってもらい、貢がせて、それを逃亡の資金に当てたかった。
(まぁ、無理だな)
彼が何を考えているか、わからないことが多いが、それだけは断言できる。
あれだけの美人と、心の優しい娘さんたちを退けてきた男だ。
噂のひとつに、彼には死んでしまった想い人がいて、生涯独身を貫くつもりだというものがある。
なんの証拠もない話なのだが、それもありえる理由だな、と千影は思う。
(軍に所属しているし、相手が女とは限らないか)
勝手な憶測を脳内で繰り広げ満足すると、彼女はやりかけの刺繍に手を伸ばすのだった。