お出かけ
まだ肌寒い日が続くなか、壱成は八時ごろに目を覚ます。広いベッドはこだわって買った一品で寝心地いい。彼はカーテンの隙間から漏れた日差しから逃れるようにむくりと寝返りをうった。
昨日家に帰った時刻は朝の四時。
最近この屋敷の周りで、悪霊が多く目撃されるようになり、壱成が対処をしていた。
(眠い……)
二時出勤であるから、まだ起きなくてもいい。彼は起き上がろうとはしなかった。
目を瞑れば再び睡魔に襲われ、壱成はもうひと眠りする。
次に目を開いたのは、この屋敷で一番彼が信頼を置いている使用人の 風間右近 に起こされたときだ。
「壱成さま。ご昼飯は?」
風間はテキパキと動いて、壱成が仕事に行く準備を整える。
「軽く食べる。昨日は何か変わったことはあったか」
寝間着からアイロンのかかったワイシャツに袖を通し、ボタンを留めた。
彼がここで聞いているのは、真香のことである。
「昨日も部屋で刺繍をなさっていました。それと琴吹の方から、真香さまを連れて本を買いに外出してもよいかと」
「本?」
「退屈凌ぎでございましょう。新聞も読まれるそうですよ」
真香の学については、情報が少ない。
学校に通っておらず、家庭教師を雇って勉強をしていたようだが、その実力については謎だ。新聞を読むくらいには、教養のある人物だと思っていいのだろうか。
「外出は許可する。……あまり金遣いが荒ければやめさせろ」
「では、そのように」
(……塚田の箱入り娘が外出か)
塚田真香は同じ世代の他の令嬢と比べれば、姿を表すことが少なく、わからないことが多い。学校に通っていなかったことが大きな原因だろう。箱入り娘だからだといって、見たところ体が弱いことはなく、性格も当たり障りのない社交性がある。
となると、あの両親が彼女を外に出したがらなかったと推測するのが正しいだろう。
部屋にこもっていた年頃の娘が、見慣れない街に興味を持つのも当然の成り行きか。
いきなり持ち上がった縁談だったので、壱成が手を打つ前に半ば強制的に婚約が決まってしまった。まさか塚田の娘が婚約破棄を繰り返す壱成に縁談を持ってくるとは思っていなかったのだ。
今回も結婚するつもりがない壱成だが、相手は医学界に顔が広い塚田家だ。慎重にことを運ぶ必要がある。
それと、彼はもとから塚田の能力には関心があった。千影が考えた通り、壱成は他人を治す能力があれば彼女を無下にすることはできないと考えていた。結果はそうではなかったが、まだわからない。もしかすると何かをきっかけに能力が目覚めるかもしれない。
ここで見切りをつけるのはまだ早い。
悪霊祓いの減少に伴い、今まで壱成の伴侶として候補が上がっていた女性たちは、表の世界に生きるものたちだった。
しかし、今回の相手は裏の世界の住人。
夜に仕事をしている理由について説明しなくとも理解してくれる。今まで散々誤解されてきたが、真香にはそこまで気を使う必要がないだろう。
彼女を利用すれば、塚田から軍に援助が受けられるかもしれない。人ならざるものとの対戦では、怪我人も多いのだ。
円満な別れ方をしなくては、支援がうまくいっても別れた後に破断される可能性が高い。
(難しいな)
そもそも円満な別れなどあるのか。
真香が喜んで婚約を破棄してくれれば、それ以上望むことはない。
しかし今の様子をみたところ、彼女はちゃんと婚約者としてこの屋敷に居座っている。そのうち他の女性と同じように、壱成と距離を近づけようと努力するだろう。
彼にはそれが苦痛だというのに。
(この際、話をつけて協力させるか。流石に婚約破棄されないとは思っていないだろ)
あれだけ断ってきたのだ。
今更心変わりを起こすなどと希望を持って婚約させることもないだろう。
初日に釘も刺してある。
嫌な顔はされなかったので、それなりの覚悟があるはずだ。
(俺以外にも選択肢はあったはずだからな)
むしろ塚田は婚約破棄を望んでいるのではないのか、という疑問さえ出てくる。
今日ははやく仕事を終わらせて帰ってこようと決めて、壱成は真香と顔を合わせることもなく準備を終えるとすぐに職場に向かうのだった。
*
壱成にも外出を承諾してもらったので、千影はさっそくその日、昼食を食べてから出かけることにした。
琴吹が選んでくれた洋服に身を包む。この格好が今、真環郡の女性が好むものだそうだ。
スカートがひらひらと風に揺られて心もとない気持ちになるが、周りをみると確かに自分と同じような服装が多かった。
可愛らしいものが好きな真香に合わせたためか、シンプルではあるもののレースやリボンがついた服はどうにも落ち着かない。
千影は真環郡に来た時は和装か、洋服を着たとしてもズボンを履くので慣れないのも仕方ないだろう。
もちろんそんな事は言えないので、「可愛らしい服でとても好みです」なんて琴吹に感想を言ってしまい、千影的には墓穴を掘っている。
電車に揺られて街の中心に出ると、琴吹に案内してもらい本屋へ。
平日の二時頃ということもあり、客は少なかった。
店に入ってすぐ目に付いたのは、鈴村音八が自ら執筆したという自伝。
今一番売れている作品のようだ。
読んでみたいという衝動に駆られたが、見つめるだけで手は伸ばさなかった。
代わりに違う人が横から本を持ったので、千影は思わずそちらを目で追う。
本を取ったのは琴吹だった。
少なからず驚いていると、彼女は壱成からの使いだと言う。そのほうが更に驚きなのだが、たとえ支持しなくともそれだけ読む価値がある書なのかと千影は納得した。
それからしばらく棚を物色し、彼女は安価で分厚い本を選んだ。琴吹からは色んな本を読むんですね、と言われたが理由はそんなものだ。ちなみに恋愛小説も買ったが、あらすじを読んだところ、どちらかというとサスペンスに近いもので、ハッピーエンドではないらしい。それを手にしてしまう自分にも呆れてしまうが、この本の内容のほうが現実味を帯びていて千影には丁度いい。
本屋を出ると商店街を通り、適当に時間を過ごす。
千影は服や装飾品、甘い洋菓子などには興味がないので、年の離れた琴吹のほうが楽しそうに店を覗いていた。
真環郡に本社を構える店が多数なので、新聞社や通信社、郵便局、銀行、病院などのほうが彼女にとってはよっぽど重要だ。
新しくできた店がないか、それがどこと繋がっているのか、ということを考えながら道を進む。ひとつ路地に入れば、治安の悪い道もあり、意外とそこで情報が集まったりするのは余談だ。真香が知っているようなことではない。
壱成が仕事をするなか、自分は楽しくお出かけしたので、彼に土産を買い、屋敷に戻ろうと路面電車に乗った。
その間に日は沈み始め、夜はやってくる。
(……まずいな)
悪霊の気配を察知し、千影は視線をゆっくり動かして状況を確認する。
電車の中は帰宅時間と重なり、人が多い。
簡単に身動きが取れる状況ではない。
「真香さま」
どうやら琴吹も気がついたらしい。
手を引いて、出入り口の方へ誘導される。
この時点で悪霊に気がつけるとは、彼女もなかなかの祓い人だ。
あと一駅で降りて、五分も歩けば徳永の屋敷に着く。屋敷には結界が張ってあるので、悪霊たちは近付くことができない。
(ぎりぎりか……)
真香として逃げるのと、悪霊に追いつかれるのは際どいところだ。
もちろん千影になれば、簡単に祓うことはできる。
しかし、それだけはできない。
彼女は、正太郎がいう「しくじったら」の内容について、自分が一番やってはいけない事の答えを出していた。
それは、自分が真香ではないと露見すること。
真香でないと思われる素ぶりはしてはならない。そうと知られれば、塚田家の面子に関わる大問題に発展するからだ。
影武者の存在くらいは許容範囲だろうが、それを使っての暴力的な人体実験は、医学に精通する塚田がやってはならないことだ。
つまり、今の真香が偽物だとバレて、千影の存在まで辿り着かせてはいけない、ということになる。
芙美子が精神を病むくらいは、まだマシというわけである。
こんなことになるなら、最初から千影を真香として育て、真香はずっと屋敷の奥で静かにしていればよかったのだ。下手に自由を与え、社交界に出そうとしたから、真香の性格を基礎に千影がわざわざ演じる羽目になっている。親馬鹿もいい加減にして欲しいものだ。
あれだけ千影が補っていれば、もし真香を幸せにするためにいいところの御坊ちゃまと縁談を成立させても、本物は聞いていた性格と違う、なんてことになっただろう。何せ、千影が演じる真香は完璧だから。
今となっては真香は死んだので、千影こそが塚田家以外にとって本物の真香だ。
(……だとしても、こんな運動能力の高い、殺しに慣れてるお嬢様はいないか)
あの医者のせいで、真香と千影には差が出てしまった。同じような体質のままであれば、難なく自分が真香として生きることができただろう。
身体に染み付いてしまった殺傷能力は、どこで発揮してしまうかわからない。
残念ながら、千影はどう頑張っても、千影だった。
真香を完璧に演じることができても、真香にはなれないのだ。
塚田の名を捨てない限り、一生このふたつの人格を持って生きることになるだろう。
そういうわけで、死んでも真香を演じるのが千影の使命だ。
自分の能力的に簡単に死ぬとは思っていないが、痛いのは好きじゃない。
(無事に屋敷に帰れますように)
心の中で祈りを捧げた。
きっと琴吹がなんとかしてくれると、彼女は信じる。
「真香さま。屋敷まで走ります」
「 ……は、はいっ」
電車から降りると、琴吹はバッグから何かを取り出し、それを物凄い力で空に投げた。
空に飛んで行った何かは、空中で弾ける。
「い、今のは?」
「祓い人にしかわからない、のろしのようなものです」
失念していたが、琴吹の能力は怪力。
女性にはあり得ない力で信号を投げたので、素で驚いてしまった。
(やっぱり動かないと鈍るな……)
反省しながら、千影は琴吹と共に走る。
ちらりと横を見れば、街灯が当たらない暗闇に、悪霊たちが蠢いている。
どうやら、塚田の血を引いていれば誰でも悪霊に狙われるらしい。これはどう見ても自分が追われている。
昨日、月のものがきたので、血の匂いに釣られているのだろう。
今考えてみれば、これの日には悪霊の量が多かった。
女性の塚田が狙われやすいのも、そのせいだと合点がいく。
琴吹に腕を引かれて屋敷に走るが、すぐそこに悪霊は迫っている。
今までは、自ら悪霊に向かっていたので、追われる側になるとは新鮮だ。
「きゃっ」
足首を掴まれるのを見計らって、千影は声を上げて転ぶ。こういう時の声は、素が出やすいので最大の注意を払う必要がある。
「真香さま!」
あともう少しで屋敷だったが、これが自然な流れだ。
琴吹が足を掴む悪霊を、暗器を投げつけて祓うが、自分の身を守りながら千影を守れるほど戦闘力がないようだ。大口開けた悪霊が、千影めがけて飛びかかる。
彼女は目をつぶり、腕で顔を隠す動作に移る。
(死ななくて済みそう)
千影には、屋敷から誰かが走り込んでくる音が聞こえていた。
ぶわりと頭上を青い炎がよぎる。
人に害はないみたいだが、空気が揺れるのがわかった。
ギャーーー、と悪霊が青い炎に包まれて悶えるのが聞こえる。一般人に見えるほど強い悪霊ではないので、簡単に姿を消していく。
「無事か」
そこには、ワイシャツ姿で抜刀した壱成が、颯爽と祓いを終えて立っていた。
千影は戦闘を盗み見ていたが、そっと顔を上げて壱成を見直す。
「は、はい。お助けくださり、ありがとうございます」
屋敷では和装であるのに洋服を着ているところから察するに、仕事から帰ったところ、琴吹からの合図に気がつき、屋敷から出てきたところを助けてもらったようだ。
「……足を掴まれたか」
壱成は千影の前にしゃがむ。
青炎を間近で見て興奮した千影は、壱成を見てぶるりと震えた。
言わずもがな、武者震いだったが壱成にそれがわかるはずもなく、彼は少し考えたあと自然な流れで彼女を持ち上げる。
(え……)
悪霊が湧いてくる前に結界で安全な屋敷のなかに運ぼうとしたようだが、千影はどう反応すれば正解なのか困ってしまった。
真香ならば赤面するところだが、密偵として花街に紛れることもある千影からすればどうってことはない。
「すみません……」
壱成の腕の中でうなだれて、彼と顔を合わせないようにする。
頭の中では、少し痩せたほうがよかったかと反省中だ。乙女の回路とは外れて、見た目にはわかりにくいが筋肉でそこそこ重さがあることを怪しまれることを危惧してのことだった。
移動すると、琴吹が心配そうな顔で千影の無事を確認する。
「すみません。わたしが不甲斐ないばかりに」
椅子に座らされて、掴まれた足を診られる。かなりの力で握られたので、痣になっていた。
手当をしようとする琴吹は、どうやら千影の能力を忘れているらしい。
「大丈夫ですよ。もう治ります」
「え……。あ、」
痣の色が変わっていくことに気がつき、琴吹は目を丸くする。側で様子を見ていた壱成も、初めてみる回復能力に視線を奪われていた。
すっかり痣が消えて元に戻ると、壱成が口を開く。
「塚田が悪霊に狙われるというのは、噂話ではなかったようだな」
「……はい」
自分も今確信しました、という言葉は飲み込んだ。
婚約破棄が濃厚であっても塚田のことについて、壱成は調べていることがわかり、ますます油断ならない。
「父に、安易に外に出てはいけないと言われた意味がやっとわかりました……」
さも、“自分は本当は外に出たかったのだけれど、親に止められていました” と本当は、お転婆なところがありますよーと匂わせる。
本物の真香が死んで、千影が彼女となって塚田の屋敷を出てしまった以上、「箱入り娘」という面倒な設定を違和感なく払拭していかねばならない。
繰り返しになるが対外用真香は、ホンモノと比べて出来た娘だ。礼儀正しく、美しく。社交性にも長けて、教養もあり、学業も十分優れている。
そんなニセモノが、箱入り娘とは多少無理があるのだ。