一年後
壱成は冬物の軍服にコートを着て、閑静な住宅街を歩く。今年は例年よりも寒く、雪がチラチラ降り始めていた。今夜の夜警は榎本の当番なので「雪の中働かせるなんて、労働基準局に訴えてやる!」と愚痴をこぼして来そうだ。
黒い扉が看板代わりの喫茶店に入ると、
「よっ。徳永!」
カウンターに座る男が手をあげる。
高等学校からの付き合いである吾妻鉄平だ。
鈴村喜助と塚田が捕まった日、夜分遅くに帰宅した壱成の屋敷には一つの小瓶が届いていた。
その中身は血だったが、それが何なのか、壱成にはすぐわかった。
塚田の血だ。
殴られた腹が痛み、頭も混乱していたが、壱成は鉄平の元へ行き、その血で友の傷を治した。吾妻の傷は嘘のように消えて無くなり、体力の回復に伴い数日後目を覚ました。
あれから一年経った今も、吾妻は変わりなく新聞記者をしている。
重たいコートを脱ぐと、壱成はその隣に腰掛け、コーヒーを頼む。
吾妻がじーっとその様子を見つめてくるので、「何だよ?」と壱成は問う。
「……悪い、壱成。やっぱり今回も見つけられなかった」
吾妻はしゅんとして応えた。
「何を」いや、「誰を」と言わなくても、それが指しているものはひとり。
「そうか」
壱成も目を伏せた。
塚田真香、否。
影風こと、緒方かげが消えてから、驚かされることばかりあった。
死亡した塚田真香の死体が司法解剖されると、肉体の硬直は見られないのに、胃の内容物からして少なくとも死後数ヵ月が経っていることがわかったのだ。
そのことについて、塚田正太郎に問い詰めたところ、壱成の婚約者をしていたのは、影武者——登録では「緒方かげ」という名の娘がしていたことが判明した。
それも彼女は正太郎と芙美子の間に生まれた実の子で、娘は双子だったのだ。
正直、その名前すら、彼女の本当の名前と言っていいかすら怪しい。
彼女は、あの家で、塚田真香の影でしかなかったのだから。
壱成の知る塚田真香が、薬を作るための実験台になり、記録簿に記された苦しみを耐え抜いていた。
壱成との婚約も、厄介払いのために急遽取り付けられたもので、彼女の護衛だと思っていたものは皆見張り役でしかなかった。
『……照子さんが、死んじゃったら、どうしようぅ』
彼は、見張りがいない時に彼女が見せた涙を思い出さずにはいられなかった。
「照子」とは、彼女が塚田に取られた人質に違いなかった。
彼女はずっと必死に戦っていたのだ。
誰がいつ牙を剥いてくるかもわからない状況で、暗闇の中で一つ一つピースを手探りで見つけて行くような努力を強いられていた。
(俺は何も知らなかった)
彼女の、いつも変わらない笑顔。
決して人を不快にさせることのない立ち回り。
——どれも、作りものだったのだろうか?
いや。壱成は知っている。
倒れた時に、大事な人の名前を呼ぶ彼女の姿。
矢田島で自分を庇うなと言った、彼女の強かさ。
食べることが好きで、出された料理に目を輝かせて、美味しそうに食べる姿。
誕生日に見せた、泣くのを堪えてくしゃりと笑う表情。
影風の身のこなしと、聡明さ…………。
死んでいたはずの塚田真香が残した遺書にはこう書かれていた。
『わたしは、わたしであるために、この世から消えます。さようなら。 塚田真香』
それは全てを語っていた。
塚田の屋敷から押収された中には、塚田真香の勉強道具もあった。そこに残されたノートの文字と、遺書、そして今はもう期限はとっくに過ぎた婚約破棄の誓約書は全く同じ筆跡。
壱成の知る彼女は、塚田真香であり、塚田真香ではなかった。
真香を演じていようが、鳥の面をつけて影風でいようが、彼女の存在それ自体が、壱成の心を突き動かしたことに変わりない——。
*
「はい、どうぞ」
すっかり顔馴染みのマスターが、湯気がのぼるコーヒーを壱成の前に置いた。
彼はカップを持ち上げて、ゆっくり口をつける。
壱成はあれから緒方かげを探し続けている。
吾妻も、自分の怪我について壱成から聞かされ、彼女を探す手伝いをしていた。
「なあ、壱成。ずっと引っかかってる事があるんだけど」
「何?」
「なんで緒方かげは、塚田真香が死んだ動機を『白須黒夜』のせいにしたんだろうな? 何か恨みでもあんのか?」
それは壱成もずっと考えていた事だった。
矢田島のとき緒方かげに協力したのが、白須だとすれば、恨みを持つのは不自然だ。
それに、部下が描いた白須の絵を見て、彼女は彼が殺されないよう咄嗟に取り計らっている。
「俺も考えたんだが、わからないんだ。彼女の行動からその男に恨みがあるとは、考え辛い」
「うーん。意味わかんねぇ。ほんと、何者なんだよ……」
吾妻は唸る。
「そうだ! それに、おれが助かったのは、匿名で連絡があったからだろ? 誰が通報したのかすら、謎のままかよぉ!」
ああ〜、これがわかればスクープなのに! と、吾妻は頭を掻いた。
壱成もコーヒーを飲みながら、頭の中では忙しなく情報を処理する。
「はぁ……。そういえば、中佐、また婚姻申し込まれたんだって?」
嫌味っぽく吾妻が言う。
「断った」
しれっと答える壱成に、「こいつ!」と内心苛立ったがぎりぎりのところで溜飲を下げる。
「ははーん。そうだよな、断るよなー。お前には影風がいるもんな〜。殴られて、止められなかった、実は元・婚約者がな〜」
いや。彼の文句は止まらなかった。
吾妻鉄平27歳。絶賛、彼女募集中である。
嫌味タラタラの吾妻を壱成は一瞥した。
「そうだけど、何?」
それだけ言って、カップに口をつける。
「え? んん??」
吾妻は本気で空耳が聞こえたと思って、周囲を見回す。開いたばかりなので、二人以外に客はいない。
「なんだ。聞き間違いか」
彼はフウ、と息を吐いてコーヒーを飲む。
「……なぁ」
「ん?」
壱成は、吾妻を呼ぶ。
「白須と緒方かげは、付き合ってると思うか?」
「ブフッーーーー!!!」
吾妻は吹いた。
それは盛大に吹いた。
「汚ねぇ……。すみません、マスター」
「ハハ。今のは仕方ないね」
マスターは、タオルを渡す。
それでも、吾妻は開いた口が塞がらなかった。
「お、お、おま、おまえが?! 高校のときに、影ではおれと出来てるんじゃないかと噂されるほど、女性を相手してこなかった、おまえが?!」
わなわなと吾妻は震える。
「いいから拭けよ」
壱成はタオルを押し付ける。
「よくねぇよ。そのせいでおれが、いつも可哀想な目に遭ってきたのを知らないだろう? うう、これは想像以上にくるわぁ。やっと、壱成に春が来たのかぁ〜」
口は動いたままだが、吾妻はタオルで隅々まで磨く。「すみません」と、この国ではチップの習慣がないが、詫びにマスターにお金を置いた。
「いいか、徳永。白い稚魚なんて気にすんな!
恋愛に、ルールなんてない!好きなら、当たって砕けろ!!」
「……お前に聞いた俺が悪かった」
「えぇー? そんなのおれにもわかんねぇに決まってんだろ? 早く本人見つけて、自分で聞け! そんで、フられろ!」
「お前、そういうところがモテないんだろ?」
吾妻はぐうの音も出なかった。
*
昼食を食べて吾妻と別れた壱成は、統国軍本部へ。
路面電車から降りて建物に入り、自分のデスクに荷物を置くと向かった先は今年新設された陽光と月光の統合機関——蓮明。
昨年の反省を活かし、常人と祓い人、双方のより豊かな暮らしを推進、保護するべく設けられた機関だ。
「月光、徳永中佐です」
「入れ」
必要に応じて、陽光と月光から人が選抜されるシステムなので、壱成の所属と基本勤務は変わっていない。
「徳永中佐。君にはVIPの警護に当たってもらう。要人は盛岡源一郎氏だ」
「承知しました」
「これが資料だ」
「拝見します」
壱成は渡された資料に目を通す。
「これは……」
上官に視線を移すと、彼は重々しく頷く。
「予知能力者の生き残りがいたようだ。すでに今までのやり取りから本物だと認められている。本来であれば政府が保護するべきところなのだが、それを拒否されている。警戒してこちらに出向くつもりもないらしいので、盛岡氏は自ら赴く意向だ。
これはレベル5の重要任務になる。今回、蓮明を通し君に任務を任せることになったが、やれるか」
「ハイ」
「よろしい。呉々も内密に。頼んだぞ」
「ハッ」
壱成は再び資料に目を落とす。
(予知能力者が、『能力者の働き方改革』を提案……。場所は、亜夢洲登呂か)
パッと、彼の脳裏にある写真が思い浮かぶ。
それは亜夢洲登呂の北部にある、山と湖が織りなす絶景。
緒方かげが、壱成の屋敷に残していった観光の雑誌にマークがついていた場所だ。
パサリと資料を閉じて、気持ちを切り替える。
席を立ち退室すると、任務の準備を始めた。




