矢田島 3
壱成の意識が覚醒する。
ガバリと起き上がった彼は、周囲を確認し、困惑した。
(ここは、ホテルのベッド——?)
おもむろに頭に手を当てて、傷がないことに更に当惑する。
自分の手のひらを見て、これは何かの夢なのではないかと思ったが、ちゃんと感覚がある。
(夢じゃない)
そこで、真香の姿がないことに、頭が真っ白にになる。
壱成はベッドを抜けると、気配を消してドアを少し開けた。
部屋を伺うと、そこには千影がソファで湯気がのぼるカップを手にしている。膝にはブランケットが。とても監禁されているようには見えない。
「あ。目を覚まされましたか? ご気分は?」
それに気がついた千影はカップを机に置きながら、そう声をかけた。
壱成は切羽詰まった形相で、千影の元へ。
「怪我は?!」
彼女の腕を掴む。
今までで見た事がないほど、冷静さを失った表情だった。
その様子に千影も面食らって反応に遅れる。
「撃たれただろ。見せろ」
壱成は彼女の上着を脱がせようとした。
「も、もう、治りましたから、大丈夫です!」
千影は驚いて伸びてきた壱成の腕を両手で掴んだ。
「大丈夫です」
余裕のない彼に、もう一度繰り返す。
壱成もそれで我に返ったのか、ピタリと手を止めた。
上着から手を離したかと思えば、片手で顔を覆って、千影の前にしゃがみこむ。
「ハアア——」と大きく溜息が吐かれるが、その肩は微かに震えていた。
「もう大丈夫ですよ」
千影は出し掛けた手を行き場もなく彷徨わせたのち、躊躇いつつ壱成の頭に乗せる。
照子がやってくれると自分が安心するように、ポンポンと優しく撫でた。
壱成はちょっとすれば、顔を上げる。
「あれからどうなった。ここは俺たちの部屋か? 晩餐会は?」
そこにはいつもの彼がいた。
軍人というだけあって、切り替えは早いらしい。
「今は朝の五時。晩餐会はとっくに終わりましたよ。ここは私たちの部屋で間違いありません。壱成さまが気を失った後、途方に暮れていたら、黒夜さまが助けに来てくれました。私たちは何も無かったことにして、帰ればいいと」
「白須黒夜が?」
「はい。極秘の任務中だから、いなかったことにしてくれと言われました」
壱成を座らせると、「食欲はありますか?」と千影は持ってきてもらっていた机に並ぶ軽食を進めた。お湯を沸かしたばかりだったので、コーヒーを注ぎ、カップを手渡す。
彼はそれを受け取りながら、必死に自分が気を失う前までのことを思い出した。
「俺の服は?」
服が変わっていることに今更気がつき、大事な証拠品が胸にないことに慌てる。
「処分されてますよ。資料は既に細工したトランクに隠してあります」
指さされたトランクを確認すれば、間違いなく自分が盗んできた資料があった。
淡々としている彼女に、壱成は一体自分が寝ている間、何があったのか一抹の不安をおぼえる。
「色々気になることはあるが、取り敢えず白須が何とかしたのは分かった。でも、俺の傷がないことはどう説明する?」
無事にここに戻って茶をすするには、当然彼女にはできない芸当だと思ったので、協力者がいたことは理解できた。
しかし銃弾をかすめたはずの腕や、岩にぶつけた頭に傷がないのは、訳がわからない。
千影は目を伏せた。
ここは白状するしかなさそうだ。
「今から言うことは、誰にも漏らさないと約束できますか?」
「それは内容に依る」
「守っていただかないと、私の身が危ないと言えば?」
真摯な瞳に射抜かれる。
彼女の言葉は本気だ。
「わかった。誰にも他言しないことを誓おう」
「お願いします。たとえ父に問われても、言わないでください」
「正太郎殿もか?」
壱成は怪訝な表情を深くする。
「はい。これは塚田でも私しか知らないことなんです」
そこまで釘を刺されて、聞かないわけにもいかない。彼は千影の告白を待つ。
彼女は周囲に聞き耳を立てている奴が居ないか確認して、口を開く。
「あなたの怪我は私が治しました」
壱成はその内容に、さほど驚きはしなかった。
あれだけの傷を消すなんて事ができるのは、能力者しかあり得ない。となると、そんな能力を持ち得そうなのは、彼女だけなのだ。
「……そんな気はしていたが、どうやって? 塚田の能力は自己の驚異的な回復力だろう?」
「そこにあるナイフで、どこか傷つけてくださいますか? 実際に見たほうが早い」
壱成は頷いて、置いてあったナイフで腕を傷つけた。
「ナイフ、貸していただいても?」
受け取った千影もナイフを強く拳で握り込む。
「何を——」
「腕を出してください」
戸惑っている壱成を置いて、彼女は切れた腕に自分の血を塗りつけた。
塚田の血が傷口に触れると、細胞が活性化されて、傷が塞がっていく。
壱成は刮目して、自分の腕を見た。
「治っている」
「こういうことです。これは塚田でも私しか知りません。このことが知られれば、今まで通りの生活はできなくなるでしょう。……お願いします。誰にも言わないでください」
千影は頭を下げる。
こんなことが正太郎にでも知られれば、自分は日の目を見ることができなくなるだろう。
たとえ壱成でもバラそうとするなら、消す。
そんな考えが滲む千影に、ひとときの沈黙の後あと壱成は言う。
「約束する。この事は口にしない」
千影の目を見て、ゆっくり頷いた。
壱成も、その能力が知られれば真香が今までの暮らしが出来なくなることくらい、容易に想像できた。
「必ず守ってください」
——まだ、あなたを殺す訳にはいかないから。
彼女はそう願った。
その後、壱成の質問に答えながら、裏合わせをする。
壱成の体調は良くなって、後はお家に帰るだけだ。
彼女は一息つくと、ソファに背中を押し倒した。疲れの見える顔で目を瞑る。
色々なことがあって頭をフル回転させたので、少し眠りたかった。
「身体は本当に大丈夫なのか?」
「……はい。私 “は” 大丈夫です」
壱成はいつもの真香より棘を感じさせる彼女に、引っかかりを覚える。
千影は壱成に視線を移すと、むくりと身体を立てる。
どうしてもこれだけは言って置かないと気が済まないことがあったのだ。
「壱成さま。……もう二度と、私を庇うようなことはしないでください」
怒りと拒絶を含んだ声。
壱成は固まった。
「私は塚田です。傷は治りますし、治せるけれど、死んだ人を助けることはできません。今回だって、あなたが死んでいたら、どうにもならなかったんですよ?」
女性に、それも歳下の婚約者に怒られたのは初めてだ。加えて彼女の言うことは正しい。
しかし頭のどこかで、それは違うと思う。
「確かにそうだが。たとえ治るとしても、傷つくのは痛いだろ。もっと自分の身を大事にするべきだ」
「そのお言葉はそのまま壱成さまに返させて貰います。私も痛い思いはしたくないので、もう力は使いませんよ?」
「……」
言いくるめられそうになるが、心の中ではまだ否定している。言葉に詰まった。
気難しい顔をしている壱成に、千影も尖った言葉は鞘に納める。
「何はともあれ、無事でよかったです。少し寝てもいいですか?」
「……ああ。寝なかったのか」
「壱成さまが寝ている間、何が起こるかわからないのに寝れませんよ」
彼女は苦笑混じりに立ち上がり、ベッドルームに向かう。
(言い過ぎたかな……)
壱成に庇われたり、島を飛び交い工作に追われ、口封じにちょっとした戦闘もしてきた千影の八つ当たりに違いなかった。
ドアノブにかけた手を止める。
「……でも、その。
……守ろうとしてくれて、ありがとうございました」
真香だったら、礼くらい言わなくてはいけない。
言っていて変な気分になるのを堪え、千影は扉の向こうに消えていく。
その背中はとても頼りなく見えた。
壱成には、彼女が自分より小さなその体で、銃撃から庇ってくれた瞬間がフラッシュバックする。
心がざわりと揺れた。
それは何かに胸を掴まれるような感覚でもあった。
*
朝食の時間になり、外が慌ただしくなるのがわかった千影は目を覚ました。
二時間は眠れたので、頭がすっきりしている。
「おはようございます」
「……おはよう」
仮眠を取る前とは打って変わって、明るく挨拶した真香に壱成は拍子抜けした。
彼女は、普段通りだった。
一緒にレストランでビュッフェの食事を済ませ、当たり障りのない会話をし、出航の時刻に合わせてホテルを出る。
外は雨上がりで緑が生き生きと輝き、昨日の惨事など本当は夢だったのではないかと思う。
「ああ、徳永くん。目が覚めたんだね。よかった!」
「ご心配をお掛けしました。疲れが溜まっていたようで」
音八に声をかけられ、壱成は設定通りに演じる。
「うん、うん。君の部隊は忙しいそうだからね。息子からもよく話を聞いているよ。もし、困ったことがあったら、わたしを頼ってくれていいからね。塚田さんとも仲良くやるんだよ?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
彼は人当たりの良い笑みを張り付けた。
(その化けの皮、今に剥いでやる)
胸中では微塵も、敬う心はなかった。
本土に戻ったら源一郎と接触し、すぐにでも鈴村の失脚を狙う。それは喜助を含めてだ。
この事が表沙汰になれば、彼にも疑いの目が向くはず。
準備しなければいけないピースはまだあるが、着々と前進していた。
大型船に乗り込むと、壱成は外の風景を眺める千影を見る。
(今回の件で、彼女は知りすぎた。これ以上、巻き込んで危険な目に合わせるわけにはいかない……)
傷は消えても、彼女が自分の為に傷ついたことを忘れてはいけない。
彼は、真香がこのまま見据えた遥か遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。
「真香」
「はい?」
気がつけば、普段はあまり口にしない彼女の名前が滑り出ていた。
「……いや、何でもない」
そんな自分に驚き、壱成は口元に手を置いて視線を逸らした。
「そうですか?」
彼女は、出会った時から変わらぬ笑みを浮かべている。
それがどうにも、壱成の心のモヤを増やしていくのだった。




