矢田島 2
千影は焦る。
どう考えても、危ない匂いがプンプンする。
邪魔になった靴を脱ぎ、裸足で走った。
(なんでこんなことにっ)
「実は身体能力が高く、軍人の壱成についていくことも可能である」と、真香の性格を修正しなくてはならない。キャラの崩壊を危惧したが、追いかけてしまった以上、後には引けない。
「壱成さま」
逃さまいと、強く袖を引いた。
「ッ?!」
壱成は彼女がついてきたことに驚く。
「わ、私、怪我ならすぐ治ります。迷惑にならないようにするので、お願いします。……置いてかないで」
こうなったら、媚びでもなんでも売ってついていくしかないと千影は思う。
「ついてきたのか?」
壱成は足を止めた。
「……もう、夜になるから」
彼女はうなだれる。
聞き分けの良い真香が、言うことを聞かないでついてきたのは、悪霊に狙われる恐怖を知っているからだと気がついた壱成は、怒れなかった。
彼女は折れた靴を持ち、裸足で自分についてきたのだ。酷いことをしたかもしれない。
「俺の言うことが聞けるな」
「はい」
「何かあったら、迷わず逃げろ。いいな?」
「はい」
力強く頷いた千影を見て、壱成も心を決めた。
片腕で軽々と彼女を持ち上げ、全神経を集中し、気配を探る。
風にのって微かに硝煙の匂いがした。
(向こうか……)
彼はそちらに走り出す。
人の気配を感じて速度を落とし、身を隠した。
ズル、ズル、と男が何かを引きずっている。
それは若い男の死体。
「お見事です。お館さま」
黒い装束を着た男が五人。
二人は猟銃を手に。ほかの三人は死体を処理している。
「いやぁ。今回は狐が沢山紛れ込んだみたいだね。選挙前に掃除できるし、体も動かせて。この会を開いて良かったよ」
その声は、鈴村音八に間違いなかった。
「おっと。そろそろ夕食の時間だね。戻ろうか」
音八たちは森を進む。
壱成はちらりと千影の表情を伺ったが、言葉を失っているものの、置いて行かれる方が困ると目が語っている。
気配を殺して、尾行を続けた。
日は沈み、夜を迎える。
二人がたどり着いたのは、地図では崖になっているので、立ち入り禁止の区域になっていた場所。
そこには、悪気を一切感じさせない施設が佇んでいた。
「裸足で大丈夫なので、下ろしてください」
千影は壱成に囁く。
彼は少し迷っていたが、予備の靴などないし、自分のものを履かせて転ばれでもしたら困るので、言われた通りに下ろした。
黒い装束の男たちは、中に入っていく。
「ここまでで、いいんじゃないですか?」
もう十分だろう。千影は壱成を宥めにかかる。
「これ以上は危険です」
「いや……。ここで何をしているのかわかっていないし、悪事だったら証拠が必要だ」
壱成は施設を確認し、侵入方法を決めた。
「君はここにいてくれ。悪霊は護符でなんとかなる。三十分経っても俺が戻らなかったら、先にホテルに向かってくれ。車だと時間がかかるだろうが、森を抜ければ直ぐに着くはずだ」
「どうしても、行かれるんですか?」
「ああ」
「……待ってますから。絶対無理はしないでください」
壱成は頷いて、二階の窓から侵入した。
まさか、ここまで侵入者が来るとは思っていないのかもしれない。警備は手薄。人の気配は近くにない。
彼の忍び込んだ部屋には何もなく、違う部屋を目指す。
廊下に出て、紙とインクの匂いが強い部屋を選んで中に入ると、そこにあったのは設計図。
それも、戦闘機や潜水艦、新型の爆弾が書かれている。
壱成は何枚かそれを畳むと、胸ポケットにしまった。
後は窓から出て真香を拾い、逃走すればいい。
「困りますね。それを持って行かれると」
壱成の心臓が跳ねる。
動揺を悟られまいとゆっくり背後を振り返ると、いつのまにか女が立っていた。
「御機嫌よう。侵入者さん。どうやって入ってきたのかは知らないけれど、死んでくださいな」
女の手には拳銃。
壱成の体めがけて、それは放たれた。
彼は瞬時に身を守ったが、どうやってこの女がここに現れたのかがわからない。
「あら、すごい。もしかして、あなたもお化けが見えたりする?」
彼女は簡単に銃撃を躱した壱成に、目を丸くする。
「まあ、死んでもらうから、別に答えなくていいけど」
銃声に気がついた人間が、この部屋に向かってくる足音がする。
壱成は真香が先に逃げることを願ったが、「待ってますから」と言った彼女の顔が脳裏に浮かび、行かなくてはならないと感じた。
彼は一気に女と間合いを詰める。
拳銃を向ける腕と肩を掴み、力任せに関節を外す。鮮やかな手並みだ。刀はないが、近接戦も壱成の得意分野だったりした。
拳銃を奪うと、容赦なく撃ち殺す。
窓に足をかけて脱出し、真香のもとへ。
外はすっかり暗くなっていた。
「逃げるぞ」
余裕がない壱成は、問答無用で俵担ぎにし、走り出す。
「コラコラ。人のものを盗んじゃいけないって、習わなかったか?」
背後で声がした。
かなりの速さで走っているのだが、追いついてくるとはつまり、
「能力者か」
先ほどの女の言葉を思い出した壱成。
面倒なことになってきた。
追っ手は三人。相手の方が土地勘もあり、とても優勢とは言えない。
加えて、青い炎は目立つので派手に使うこともできないのに、悪霊が姿を見せ始め、祓いながら進まないといけない。
(……巻けるか?)
壱成の中に不安がよぎる。
真っ黒な森の中で、銃声が唸りを上げた。
「旦那さま、誘導されてます」
名前を聞かれてはまずいので、千影はそう呼んだ。
壱成もそんな予感はしていたが、他に道がない。
「私のことは気にしなくていいから、彼らを止めましょう」
「無理だ。やつら、かなり出来る。人質に取られたほうが困る」
悔しいが、連携もしっかりしているし、向こうはまだ手の内を見せていない。
能力者と戦うときは、どんな能力を持っているのかわからない場合、無用意に近づいてはならないのが鉄則である。
壱成は目の前に湧いてくる悪霊を蹴り飛ばした。
それに乗じて千影も揺れる。
乗り心地が最悪なので、自分で走りたかった。
「ヤナギ、今だ。やれ」
不穏な合図が聞こえたと思ったときには、もう遅い。
壱成が着地した足が、ずぶりと土に埋まる。
体勢が崩れたところに、すかさず弾丸が打ち込まれるのがわかった千影は壱成を抱きしめた。
「うッ!」
背中に穴が開くのがわかる。
彼女がのしかかるように倒れこんだ壱成は、さあっと頭から血が引いた。
立ち上がろうとしても、異常に柔らかい土で力が入らない。
「そこまでにしとけ。弾の無駄使いだ。ヤナギ、落とせ」
「え。でも、落ちたら誰かわかんないっすよ?」
「晩餐会にいなかったやつがアタリだろ?」
「なるほど。あったまいい! じゃあ、遠慮なく」
追い込まれたのは、山の斜面。崖といってもいいほど急だ。下に川が流れている。
地面を操れるらしい能力者は、地に両手をついた。
「さよーなら」
ボコッと盛り上がった土に押し出されたふたりは、急斜面を転がる。
千影は壱成の頭部を覆うように抱きしめたまま。
(最悪だ。彼に死なれたら、全てが狂う)
彼女は身体のあちこちが痛むが、回転するなか、何とか壱成を守ろうとしていた。
それなのに。
後頭部に大きな何かが当てられたかと思うと、壱成と態勢が逆転される。
そしてその直後、彼の頭に突き出た岩が当たった。
「くッ!!」
うめき声がして、転がるのが止まる。
木にぶつかって川に落ちるのは免れたのだ。
「なんで、庇った!」
千影は壱成の腕から抜け出す。
——回復能力がある真香を庇うなど、阿呆がすることだ。それで自分が傷つくなんて、もっと馬鹿らしい。
血の匂いが強く香り、ぱち、ぱち、と雨が葉にあたる音がし始めた。
「……悪い」
壱成の手が顔に伸びてくる。
「君だけでも、戻れ」
頭を強く打ったせいで、意識が朦朧としているのがわかった。壱成の手が優しく頬を撫でて、力なく落ちる。
気を失っていた。
「私だけ戻っても、疑われて殺されるに決まってるでしょう……」
千影は弱々しく呟く。
まさか合理的なことしかしなさそうな、この男が、自分を守ろうとするとは思って見なかった——。
しかし、感慨に耽る暇などない。
壱成の腕時計を見て、時間を確認する。
晩餐会まで一時間を切っている。
会に遅れれば、命が危ないことは明白。
千影は自分の手を齧って血を流すと、壱成の頭の傷に塗る。すると、みるみる内に、彼の傷が塞がっていった。
これが、塚田の本来の力の使い方である。
彼女は壱成を横抱きにすると、ホテルを目指した。千影の能力であれば、五分で到着する。
正面から入るわけにはいかないので、窓から二階にある自分たちの部屋に入り、汚れた壱成を浴室に連れ込む。
壱成の鍛えられた肉体に一寸戸惑ったものの、純情な乙女ではないし、命がかかっているので、すぐに偽装を始めた。
傷を見つけたら治癒し、全てを無かったことに。
汚れも落として着替えさせベッドに転がすと、展望台においてきた車を取りに戻る。
全力で島を縦断し、車をかっ飛ばす。
使用人に壱成が乗っていないことがわかったら怪しまれるに決まっているので、車庫から少し離れたところで車を止めて一度降り、使用人の意識を奪う。
幸運にも、同じようにドライブに出て帰って来ない人々がいるので、紛れることができた。
(まさか能力者がいるとはね。どこからかは知らないが、鈴村に引き抜かれたのかな)
完全に影風の動きになった彼女は、秒単位で次々にやるべきことをこなしていく。
晩餐会まであと三十分。
部屋に戻ってドレスコードに身を包んだ彼女は、ホテリエを呼んだ。
「どうかなさいましたか?」
「壱成さまが、ご気分が悪いようで、ずっと休まれているのですが、揺すっても起きないんです。ホテルにお医者さまはいらっしゃいませんか?」
「それは! すぐに確認して参ります」
ホテルマンに連れて来られたのは、医者らしき豊満な体をした男と、鈴村音八だった。
「徳永くんが体調が悪いと聞いてね。不安だったろう。もう大丈夫だ。宮迫くん、どうだね? 」
「寝ている、というより、気を失っているようです。どこにも異常は見られませんし、ストレスか、過労でしょう。残念ですが、晩餐の方の出席は難しいでしょうね」
「そうか。きっと仕事で疲れが溜まっていたんだろう。休息も大事だからね。君たちはわたしの特別なお客さまだ。部屋に食事は運ばせることはできるけれど、塚田さんだけでもパーティに出るかい?」
「……いえ。お言葉は嬉しいのですが、壱成さまのお側にいたいと思います」
「そうだよね。君、そういうことだから、食事はここに持ってきてあげて」
「かしこまりました」
「うん。じゃあ、塚田さん。何か困ったことがあれば、すぐに彼らに言ってね。部屋の前に待機させておくから」
「ありがとうございます」
千影は深々と頭を下げた。
部屋を出ていった鈴村と宮迫の会話に、耳をすませる。
『徳永壱成には怪我どころか、汚れひとつありませんでしたよ』
『そうか。それならいいんだ』
それを聞いて、彼女はフウと息を吐く。
嵐は去った。かなり手荒な真似をしたが、やるしかなかった。
(……さすがに疲れた)
完全なるアウェーで、よく凌いだと自分を褒めてやりたい。
(背中の弾、伊代に抜いてもらわないとな)
硬質化を使って弾がはじく音を聞かれるのは、嫌だったのだ。宝の持ち腐れになっているが、真香なので仕方ない。
千影はベッドルームに戻り、キングサイズのベッドで寝ている壱成を見た。
斜面を転がったとき、強く抱きしめられのを思い出して、何故だか心が騒めく。
それは夏に倒れた時に感じた、人に守られることへの歯痒さと似た気分だった。
一度それを享受してしまえば、逃れられなくなるような優しい沼地。
他人に甘えることを、千影の本能は許そうとし、理性は拒絶する。その板挟みが、名状しがたく、胸を掻き出したくなるような気持ちにさせた。
これ以上彼の近くにいると良くない。
そんな予感がしていた。




