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これは正しい婚約破棄  作者: 冬瀬
32/44

矢田島 1




「なんで、庇った!」



そこは山奥の急な斜面の終点。

月は分厚い雲に覆われ、光はない。

雨がぽつぽつ降り始めた中、感情を高ぶらせるのは、千影だった。

今まで、白い紙にのった黒いインクを、破れないそうに気をつけながら水で薄めて消していくような作業で、真香と自分の境を慎重に慎重に無くして来た彼女が、初めて見せた激情。

どうせ血は止まっているだろうが、口の中が切れたらしく、鉄の味がする。

千影は掴みかかるような勢いで、彼の肩を握る。


「……悪い」


乱れた前髪で、壱成の表情はよく見えない。

でも、夜目と鼻が効く千影には、彼の頭から流れる血が頬を滑り落ちるのがわかる。

壱成は彼女に手を伸ばした。


「君だけでも、戻れ」


朧げな視界のせいで、どうしてもその顔が泣いているように見えて、壱成は彼女の目元を親指で拭う。


(ああ、不味いな……)


壱成の意識は限界だった。

——どうにかして彼女だけでも、ホテルに戻さないといけないのに。

そう思ったが最後、彼の視界は暗転した。









事の発端は、数時間前に遡る————。







「——……それでは、次に鈴村音八さまからのお言葉です」


「本日はわたくしのためにお集まりくださり、誠にありがとう。統領戦まであと二ヶ月ほどとなりました。皆さんのお力に支えられこうしてここにいれること、常々感謝しております。短い時間ではありますが、あともう一踏ん張りするために、今日と明日の二日間は本土のことは頭の端にお楽しみになってください」


パチパチと、船のホールに拍手が響く。

壱成と千影は、その日、予定通り開催される鈴村音八のパーティに参加していた。

天気次第では船が出せずに中止になるところ、空は清々しいほど澄み渡っている。

秋も終わりが近づいて、冷たい風を切って船は進む。


「二時間もあれば、矢田島に着くんですよね?」

「ああ」


さすが造船と海運を牛耳る鈴村が用意した船だけあって、設備は充実していた。

千影は、たった二時間しか乗らないのに個室に案内されて、戸惑ってしまった。

彼女は部屋に入ると、窓から離れていく本土を見送る。


「忘れる前に渡しておく。護符だ。発動してもあまり長くは保たないから、基本、夜は俺から離れないで欲しい」

「わかりました。ありがとうございます」


壱成は懐から厳しい護符を取り出すと、千影に持たせた。彼女はそれを大事そうに隠しポケットにしまい込む。

ふたりとも鈴村のパーティに呼ばれているので服装はカッチリ決めている。夜になれば、また着替える予定だ。

今回の外出は、壱成と千影だけで臨んでいる。

千影は塚田の見張りが紛れ込むかと思っていたが、今のところそれらしき視線や人物を感じないし、もちろん風間や琴吹もいない。

かといって、自由に動ける訳でもないので、いつも通りである。

花火と同様このパーティも一泊二日で、離島に泊まって明日の昼には本土に戻る。

わざわざ島でパーティをする必要があるのか千影には疑念であるが、鈴村の権力アピールには丁度いいのかもしれない。


「鈴村さまをお助けするとは、さすが壱成さま。私までお呼ばれしてしまって、嬉しい反面申し訳ないです」

「彼を助けたのは偶然でしかないし、このパーティで歓迎されているのは君のほうだ。徳永と違って塚田は表でも顔が広い。現にこの数時間で何人にも声をかけられているだろう?」


千影は苦笑した。壱成の言う通りである。


(今更だけど、このパーティに参加したのは政治的にもまずかったか?)


しかし壱成が行くと言うなら、ついて行くしかないだろう。見張りからも何も言われていないし、ごたごた考えても仕方ないように思える。


「私はあくまでも、壱成さまのオマケでしかありませんよ」


彼女はそう言うと、遠くの西の空に浮かぶ灰色の雲を見つめた。


しばらく船で監視のない落ち着いたひと時を過ごせば、苔が茂った岩のように見えていたはずの矢田島が目の前に。

普段は観光地として、本土からフェリーも出ているのだが、今回は貸切だそうだ。

一体この島をいくらで買ったのか、千影は想像するだけで目眩がしたが、ここは鈴村の楽園。

惑わされてはいけない。

でも、自分は戦争とか、武器とか、そんな物騒な話は何も知らないので、壱成の婚約者としてパーティを享受するのみ。

船から降りると、千影は深く深呼吸した。


(——ああ、火薬の匂いが)


普通の祓い人より鼻が良い彼女は、風に乗って運ばれてきたその匂いに、深呼吸などしなければよかったと後悔する。


「酔ったか?」


変な顔をしているので、壱成が隣で顔を覗き込む。


「いえ、何でもないです」


先が思いやられたが、とりあえず笑っておいた。


「……そうか」


その顔を壱成が気遣わしげな目で見ていた気がしたのは、気の所為だろう。

そこから送迎バスに揺られて山を登れば、まるで城のようなホテルが姿を現わす。鈴村がこだわってデザインしたものらしく、実際彼にとっては自分の城なのかもしれない。

千影はこっそり匂いを探ったが、流石にここからは危険物の臭いがしなかったので安心した。

お仕着せを着こなした使用人に連れられ、通されたのはスイートルーム。

窓の外にはこれでもかと、青い海と空が広がっていた。

晩餐会まで三時間。

自由に過ごしていいそうだが、時間を持て余してしまうだろう。

壱成も同じことを思ったのか、使用人に声をかけている。


「車を借りられるらしい。ドライブでもどうだ?」

「壱成さまが運転されるんですか?」

「そうだけど。不満か?」

「いえ。とんでもないです」


意外だったので、千影は瞠目した。

さっそく車を借りて、ふたりは島を回ることにする。

壱成が運転するところなど見たことがなかったので、千影は内心ドキドキしていたが、安定した走りで肩の力を抜いた。事故の心配はなさそうだ。やっと落ち着いて外の景色を眺める。

海岸沿いを走っているので、海が綺麗だ。


「素敵ですね。ちょっと寒いけれど、空気が澄んでいる気がして、気持ちがいいです」

「そうだな」


壱成はシャツのボタンをひとつ外し、首元を緩めた。言葉と裏腹に、彼は探るような目つきで島を見渡している。


(……頼むから、何も見つけないで)


彼女は胸中、穏やかではない。


「あ。お店、開いてるみたいですよ」


島ごと貸切なのに開店しているとは。

話題に困っていたので助かる。


「カフェみたいだな。寄るか?」

「はい! お願いします」


壱成は駐車場に直接後ろを見ながらバックで停める。


(この人、無自覚なのかな?)


千影は彼があまりにも自然に助手席に腕を置き、その横顔を晒す。それに、まるで暗殺者に懐に入られたような危うさを感じた彼女は、思わず表情を硬くした。

ふたりは車を止めると、ログハウス風の店内に足を運ぶ。


「いらっしゃいませ」


最初に出迎えてくれたのは、ケーキが並んだショーケース。

この後、豪華な夕食が待っているだろうが、千影はケーキに目を輝かせた。

砂糖を固めたようなジャリジャリする金平糖は嫌いだが、甘いものが嫌いなわけではない。


「かわいい」


期間限定の薔薇の形をしたアップルパイに、釘付けになる。


「食べるか?」

「うーん。でも、この後の夕食が入らなくなったら、困るので」

「じゃあ、これひとつ」


(え? 私今、断念する流れだったよな?)


千影は壱成を返り見た。


「俺が頼んだだけ。味見するか?」

「……。ぜひ、お願いします」


してやられた。

この男といると、本当に気が抜けない。

千影は自分のために買ってくれただろうアップルパイを大人しく頬張った。

正面に座る壱成は窓の外を飽きもせず、じっと見つめたまま、コーヒーを飲んでいる。景色を楽しんでいるようには見えない。


「壱成さま」


注意をそちらから逸らしたい一心で、名前を呼ぶ。壱成はハッとして、彼女を見た。


「ご馳走さまです。すごく美味しいですよ」


彼は欠けたアップルパイを、二口ほどで食べ終えてしまうと、店を出ようと声をかける。

余程、矢田島を回りたいらしい。この島に何かあることは、確信しているようだ。

千影は困った。

もしここで穂高の言うように、極秘事項を目にして口止めに殺されるようなことがあれば、計画が狂ってしまう。

いや、最悪殺されずに済んでも、目をつけられたら余計に身動きが取れなくなって、がんじがらめになる。


(絶対に、彼から目を逸らしたら駄目だ)


千影はそう結論した。

車は再び走り出す。

壱成も千影ほど嗅覚が優れているわけではないが、祓い人として鼻が効く。そのため、匂いを確認するためか少し窓を開けていた。

いち早く火薬の匂いに気がついた千影は、寒くもないのにくしゃみをする。

ブルリと身体を震わせ、身を縮めた。


「寒いか?」

「す、少し……」


(だから、窓を早く締めて。すぐ! )


貸切ということで、他の車とすれ違わない道。壱成は車を端に停めると、上着を脱いで千影に渡す。

彼女の叫びは虚しく、窓は開いたままだった。


「あ、あの、これでは壱成さまが」

「俺は軍人だぞ? これくらいどうってことない」


(そんな……。こんな優しさは、求めて無かったのに。その、少しだけ開いた窓を閉めてくれさえすれば!)


渋々受け取った上着を肩にかけたが、千影は言葉を失う。だんだん濃くなっていく匂いに、彼女は気が気でない。


(どうする。仮病を使うか? ……いや。そしたら、それを理由に私は留守番で、彼はホテルを抜け出すことが可能になってしまう。でもだからって、帰りたいと言っても、まだ全然時間は経っていないのに、不自然じゃないか?)


千影は無意識に壱成の服を握りしめる。


(落ち着け。考えろ……)


ちらりと壱成の顔色を伺う。

まだ気がついていないようだ。

彼女はこの島の地図を取り出し、匂いがするのと反対方向の場所に何かないか探す。


「あ。展望台なんてあったんですね?」


そして唯一見つけた観光スポットに、望みをかけた。


「でも、ここからだと遠いかな……」

「時間はある。行こう」


やけに食いつきがいい。

そこで展望台のチョイスは間違っていたかもしれないと気がついたが、目の前に迫る危機を脱することで精一杯だった。


(さすがに、怪しい建物が見えたりするような設計をしていないよね……)


鈴村もそこまで抜けてないだろう。

千影は厳しい局面のまま、次の目的地に向かった。


「ここからは歩きみたいだな。天気が怪しい。雨が降る前に、急ごう」


車を止め、壱成は空の様子を見て、腕時計に視線を移した。


——いいや、急がなくていいです。ゆっくり行きましょうよ。


本心はそう言っていたが、口から出ることはなかった。

思いのほか険しい山道を、ヒールで登る羽目になる。


(誰だ、展望台に行きたいなんて言ったのは……)


言わずもがな、自分である。

履きなれない靴で靴擦れを起こし、踵が痛い。

塚田の回復能力で治るのではないか? と思うかもしれないが、ナイフが身体に刺さったままでは回復できないのと似たような状態が踵で繰り返されてる。肉体強化の応用、硬質化を使ってもいいが、足首の柔軟性が失われるため、歩き方がおかしくなる。やめたほうがいいだろう。

壱成は進めば進むほど見晴らしが良くなる山道で、探し物に夢中でどんどん先に進んでしまう。


ザアアーッと木々を揺らし、風が強く吹いた。

黒い雲が空一面に。影が島を覆う。


胸騒ぎがして、千影は慌てて壱成の背中を追う。


「ッ!」


普段の彼女であれば、こんなミスはしなかっただろう。ヒールが折れて、右の足首をひねる。

辛うじて転ばないで済んだが、捻挫を堪えてまで壱成の後を追いたくない。


「いたッ」


わざと声を出せば、やっと壱成が振り返った。


「……す、すみません。ヒールが折れてしまったみたいで」

「悪い。無理をさせた」

「すぐ治るので気にしないでください」


壱成は彼女のもとまで歩み寄ると、しゃがんで自分の腿の上に足を置かせて状態を診る。


「でも、これじゃ歩けないだろ。

少し我慢してくれ」


彼はヒョイ、と千影を持ち上げた。

車に戻るかと思ったのだが、壱成は誰もいないのをいい事に、一気に展望台まで駆け上がる。

行動が裏目に出てしまい、千影は目を白黒させた。


「着いた」


ウッドデッキが張り出しになった展望台からは、いつのまにか現れた雲たちを赤黒く染める太陽が見える。

ほかに人はいなかった。

千影はベンチに下され、壱成は再び足を診てくれた。


「治ってるな」

「はい。ご心配ありがとうございます」


こんな足を触らせてしまって申し訳ない。

彼女はハンカチを差し出したが、自分のものがあるからいいと首を振られた。

そうこうしているうちに、街灯が光を灯し、太陽は沈んでいく。

あっという間のことだった。


(よし……。これで、なんとか……)


あとはホテルに戻って、彼が外に出ないように見張っていればいいだけだ。

千影はそう思って、小さく息を吐いたのだが。



パァンッ



銃声の乾いた音が聴こえた。

気を抜いていた彼女は、びくりと肩を震わす。壱成も視線をあげた。

ここからそう遠くない。


「ここにいろ」


彼は立ち上がり、音のする方へ駆けていく。


「ま、待ってください」


千影も咄嗟に後を追う。


——彼を行かせたら駄目だ。


頭の中で警鐘が鳴り響いていた。






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