理由
徳永家に来て、千影は初めて自分が三時間しか眠れないことを知った。
普段は布団で寝ているので、ベッドでは眠れないかと思っていたのだが、その心配は無駄に終わり、熟睡してすっきり目が覚める。
(三時半……)
チクタクと秒針を揺らす時計に目を向け、冴えてしまった頭で朝までどうしようかと考える。もう一度寝ることはできなそうだ。千影は思い切ってベッドから出ると、ベランダの窓を開いた。
季節は春。月明かりが眩しいほど輝く夜空の元、庭の桜が白く浮かんでいる。
真香は青空の下に咲く桃色の桜が好きだったが、千影は寧ろ白く見える夜の桜が良いと思った。
そして、その桜の近くには、黒い人影。
顔には面をつけており誰だかわからないが、正太郎が千影につけた見張り役に違いなかった。
(照子さん、大丈夫かな。影の仕事分が無くなって、正太郎様が機嫌を悪くしていないといいんだけど)
正太郎は今年で五十歳。先は長くない。これが能力者の嫌なところで、社会的にある程度の権力を持った状態でそれを存分に振りまわし、好き勝手して、ぽっくり死ぬことができる。迷惑な限りだ。先代に悩まされる一族の話は少なくない。
真香が嫁に出された今、塚田の後継問題が浮上するが、分家から養子を取ることで解決している。次期当主は塚田恭介。次に屋敷に戻った時には、彼が当主の座についていてもおかしくはない。
(恭介様が当主になったら、離れはどうなる? もしかして、照子さんは追い出されるんじゃ)
それならば、自分がこうして真香の代わりをしているのが馬鹿らしい。今すぐにでも逃げ出して照子とともに、塚田の手が届かないところで暮らしたい。そのために今まで必死に彼女の病気を治療できるように空いた時間を勉強に捧げたのだ。照子ひとりであれば、守れる自信もあった。
しかし、屋敷を離れてしまった今、塚田家がどうなっているのかわからない。影で居られれば、手を回すことができただろうが、真香の所為でそれはできない。
絡みついてくるしがらみに、千影は始まって早々に真香のフリをすることに嫌気が指した。
千影はこの状況からどうやって脱却するか考えることにして、ベランダから離れる。
婚約破棄の確率は高いが、もし続いてしまったらどうする? 恭介が照子を追い出したら? 照子とふたりで暮らすことはできないのか? もしそうできる場合 “真香” をどうするか……。
上質な椅子で何もせずにぐるぐると頭の中で策を練っていると、いつの間にか外が明るくなっていた。
「失礼します。真香さま。起床のお時間です」
遠慮がちに扉を開けた琴吹が、チェアに座る千影を見つけて目を丸くする。ふと、視界に入ったベッドは使用前と同じくらい綺麗で混乱した。
「おはようございます。琴吹さん」
琴吹の困惑を他所に、千影は優しい笑顔を貼り付ける。
「お、おはようございます。お目覚めでしたか。よく眠れませんでしたか?」
「上質なベッドで、ぐっすり眠れましたよ」
琴吹は心配したが、千影の顔色は凄ぶる良く、何も心配するようなことは無いのだと教えていた。
「朝がお早いのですね」
「はい。あまり寝なくとも動ける体質のようで」
ホンモノの真香は寝起きが悪く、朝はいつも機嫌が悪い。朝食を食べたあとはそれも治るが、ひどい時はお昼過ぎまで寝ている。そうすると千影は武術の稽古か、本を読むことができたので、朝が弱い真香には感謝していた。
「そうでしたか。お支度もほとんどお済みのようですね。朝食までしばらく時間があります。何かお飲み物でもお持ちしましょうか」
「ありがとうございます」
琴吹に身支度の仕上げをしてもらい、朝食に向かう。
そこには先に着物姿の壱成が席についていた。
「おはようございます」
千影は礼を取る。
「おはよう」
彼は読んでいた新聞から彼女に視線を移した。
無表情には変わりないが、壱成は案外礼儀正しい男だ。必要最低限の会話であれば嫌な顔はされない。
夜に仕事があるからか、朝はゆっくり過ごすようだ。優雅な朝食に、内心千影は戸惑った。考えてみれば、今まで真香のために時間が割かれていたので、ゆっくり食事をすることもなかった。
今日の朝は、和食。ほんのり湯気の立つ料理たちは視覚的にも嗅覚的にも食欲をそそる。
いただきますと挨拶して、ふたりは食指を伸ばした。
壱成は男らしく、一口が大きい。
みるみる内に料理が吸い込まれていくのは、見ていて気持ちが良かった。
(作り甲斐があるだろうな……)
決して塚田の食事が美味しくないわけではなかったが、彼の前だとまた別の感覚だった。
「塚田家は、治癒能力が使えるそうだな」
ピタリ。
千影は副菜に向けた箸を止めた。
(……そういうことか——)
自分がとんだ勘違いをしていたと気がつく。こんな単純なことにも気がつけなかったことに、なんとも自分が情けない。
壱成が辛うじて千影を相手するのは、彼女が “塚田” であるからだ。
珍しい治癒能力というものが、統国軍の特殊部隊大尉である彼にとって興味を引かれないものではないだろう。
もしかすると、彼女を利用して軍に就かせるつもりなのかもしれない。
女の好みがどうだ、とか調べていたことが本当に恥ずかしい限りだ。
「はい。少しの傷であれば、すぐに治ります」
千影は腹の奥に自責の念を押し留めながら、箸を戻し答える。
「……そうか」
その間、壱成の表情に少しの陰りが出たのを彼女は見逃さなかった。
真香ほどの回復力はないものの、千影もある程度の傷を治すことができる。塚田の治癒能力とはそういうものだ。
本来、彼が期待していたであろう「他人を治す」ことは能力ではない。
ここで気になったかもしれないが、“本来” とはつまり、例外があるわけで。千影は人の怪我を治すことができた。
いや、もともと治癒能力というくらいなのだから、人を治すことも塚田の持つ力だったはずだ。ただ、その力を出し惜しんで、使い方を忘れられてしまった、と考えるのが妥当だと千影は睨んでいる。
自分たちが傷つくのが嫌いな一族だ。
自身の血を使って人の怪我を治す方法など、地位が低かった遠く昔に置いていかれたのだろう。
加えて今は、医療も発達してきた時代だ。
血を混ぜてしまうような行為は避けるに決まっている。
「私の能力が、どうかしましたか?」
「……婚約者の能力くらい把握する必要があると思っただけだ」
「これは失礼しました。最初にお伝えするべきでしたね。申し訳ありません」
眉を困ったように下げて、千影はその場をやり過ごす。
壱成がそう言うのであれば、彼女も彼の能力について訊いても良さそうだったが、箱入り娘が悪霊祓いの物騒な仕事を理解できるとは思わない。
青い炎を操るんですよね、凄いですね、出てくる感想はこの程度だろう。それならば、尋ねる必要はない。
治癒の能力だって、真香は宝の持ち腐れで、ほぼ使う場面がなかった。
長く母胎にいたという条件に加え、生まれたときに腕を傷つけて早く治った方が、「真香」の名を貰うことができたらしい。その時は真香の能力が高かったとしても、外で戦闘をして傷を治す回数も多かった千影と比べれば、また違う結果だったかもしれない。
だからといって、もしその比較が出来たとしても、千影は真香に能力が優ることなど望む訳もない。
昨晩、この屋敷の近くには悪霊の気配はなかった。
塚田の屋敷にいた時は、真香がいたせいか悪霊がうようよ湧いていたが、こちらではそうでもないらしい。
まだ一日しか経っていないので、果たして自分にも悪霊が寄ってくるのかは千影にも判断しかねる。だが、ここでそれを話して全く悪霊が来なかった場合、辻褄合わせが面倒だ。
下手をすると、人の怪我も治せないような使えない人材なのにも関わらず、悪霊までおびき寄せる疫病神と思われるかもしれないので、言わない方が賢明である。
(婚約破棄するために、同棲期間を設けたと思っていたんだけれど……。考えが甘かったな)
婚約を結んだだけで、わざわざ真香が徳永の屋敷に来る必要はなかったはず。家柄だけで相手を選ぶのであれば、さっさと結婚すればいい。それをしなかったのは、婚約を破棄する前提で壱成が話を受け入れたのではないだろうか。
今まで彼は3度婚約を破棄している。
千影が調べたところ、縁談の段階で断った人数は10にものぼる。
とにかく結婚する気がないらしい徳永の当主は、婚約までいっても何かと文句をつけて白紙に戻す。
ここは、真香の身ではあるが有能性を示して屋敷においてもらうほうがよいのではないか?
千影は考える。
だがしかし、他人を治すことができると知れたら、真香の立場は更に複雑になるのは明らか。
壱成が彼女を擁護してくれる可能性は無に等しいし、寧ろ彼が真香を利用することになるだろう。
血液のことを調べられることになれば、ヤブ医者の研究で変化している “千影” の身が危ない。見る人が見れば、普通の血液ではないことくらいわかってしまうだろう。箱入り娘のお嬢様がそんな治療を受けていたとなると、その治療に目が向けられないわけがない。唯一の逃げ道である “千影” の存在がばれてしまえば、身動きが取りづらくなるのは間違いないのだ。
それならば、違う方法で真香に価値をつけるしかない。
彼女の株を上げるような行為は極力したくはないが、背に腹はかえられぬ。
ここでも問題なのは、真香が箱入り娘でたまにしか外に顔を出さないという設定だ。
千影は任務で情報集めに外を飛び回っているので、それを利用して壱成に助言することはできる。……その情報源を問われ無ければの話だが。
千影としてはそれなりに役に立つことができる自信はあっても、真香の価値を高めるのは骨が折れそうだ。
破棄された3人の婚約者の性格はバラバラ。一人目は、可憐と形容するのがぴったりなお嬢様。当時統国軍で彼の上司だった人から勧められた婚約だった。肌は白く、桃色の唇が可愛らしくて、身体も小さく庇護欲を誘う娘さんだった。
二人目はおしとやかで、表の世界で名家のお嬢様。性格も決して悪くなく、尽くすような類の女性だ。年齢は壱成が20の時に22と年上ではあったが、壱成が落ち着いた性格なのでお似合いにみえた。
三人目は芯の強い心優しい娘。これは家柄に拘らず壱成の父親や琴吹が用意した婚約だった。お世辞にも前のふたりと比べると美人とは言えなかったが、一生懸命ものごとに取り組み、誰にも好かれるような女性だった。
三人とも、壱成とこの屋敷で少しの時間を過ごしたようだが、結果は皆同じ。
一番長く続いた三人目の娘でも、八ヶ月しか保たなかった。いや、八ヶ月も婚約状態で並行線だったとすると、長さを競う意味はないのかもしれない。
理由は全て「君とは結婚できない」の一言。詳しいことについては、壱成以外の誰にもわからない。
ひとつやふたつくらい、なぜ彼が結婚したがらないかの理由がわかってもいいはずなのだが、今のところ千影は掴めていなかった。
(参ったな……)
考えるだけで相手を知ることができればいいに越したことはないが、それはもちろん不可能。こちらからも何か行動を起こさねばならない。相手の出方を見ながら、慎重に言葉を選ばなくては……。
(とりあえず八ヶ月は保たせないと)
少なくとも壱成との婚約破棄まで、最長記録を更新しなくては、正太郎の機嫌を損ねる。
ご飯をゆっくり咀嚼しながら、千影は問題の主人を眺めるのだった。