花火大会 6
「気持ちいい〜」
千影は旅館に戻るとすぐ、温泉に訪れていた。
白く濁った湯は滑らかで、肌がしっとりする。
前々から温泉には強い興味があったので、頬が緩む。
(毎日こんな風にお風呂に入れたらなぁ……)
今ここには、自分が警戒すべき人間がいない。
ゆったりと、好きなだけ千影は湯に浸かった。
出てくるときには顔は火照り、身体もポカポカ。
部屋に戻ると、壱成が冷たい飲み物を買っていてくれて、千影は満面の笑みでそれを受け取った。
「今日は、すごく楽しかったです。何から何まで、本当にありがとうございます」
「……たまには、こうして出かけるのもいいな。琴吹が喜助に傾倒しているとは知らなかったが」
「ハハ。もう公演は終わっている時間ですね。混雑しそうですが、琴吹さんなら大丈夫でしょうか」
「そうだな」
怪力を持っている琴吹なら、体幹も強そうだし、問題なさそうだ。
小走りする足音がこの部屋に向かってくるのが聞こえる。止んだと思えば、すぐに扉が叩かれた。
「風間です。壱成さま」
「どうした?」
風間は千影のほうをちらりと見て、目を伏せた。どうやら、聞かれたくない話のようだ。
壱成は部屋を出た。
気になった千影はすぐさま扉に張り付き、聞き耳をたてる。
『鈴村喜助が公演していたステージが、炎上しました』
『何?』
『原因は不明らしいですが、混乱で怪我人が出ているそうです』
『わかった。俺も行く』
部屋に戻ってくるのがわかり、千影は急いで奥へ。
「仕事ができた。俺のことは気にしなくていいから、先に寝てくれ」
「仕事ですか? ……わかりました。お気をつけて」
壱成は浴衣から軍服に着替えると、慌ただしく部屋を去った。
残された千影。
相変わらず三時間しか寝れないので、壱成が部屋を出てくれたのはわざわざ狸寝入りをしなくて済むため嬉しいが、どうしたものかと考える。
(追うか? いや……とりあえず、琴吹さんを確認をしよう)
千影は琴吹の部屋を訪ねてみたが、返事も気配もない。
(巻き込まれてしまったか)
状況はわからないが、怪我人まで出ているとは大ごとだ。
まさか鈴村喜助の自作自演じゃないのかと疑ったが、根拠はない。
(武器ないしな。行かなくていっか)
千影は大人しく待つことにして、部屋に戻ろうとした。
「あの!」
「はい?」
可愛らしい声に呼ばれて、千影は振り返る。
そこにいたのは、事前に調査をしていた最中に見たことがある顔。
高坂杏樹。壱成の三人目の婚約者だった。
(わーお)
これには千影も目を見開く。
「もしかして、徳永壱成さんの婚約者さんですか?」
「……あの、貴女は?」
「失礼しました。わたしは、花崎杏樹と申します。壱成さまの元婚約者です」
氏が変わっている。結婚していたとは知らなかった。ここ四ヶ月の間に幸せを掴んだようだった。
「そうでしたか。私は塚田真香です。一応、今壱成さまと婚約を結ばせていただいています」
「やっぱり、そうでしたか。先ほどふたりがご一緒のところを見まして。同じ宿だなんて偶然もあるんですね」
杏樹は笑う。
よろしければ、少しお話ししませんか? と誘われた千影は迷いながら頷いた。
ラウンジに出たふたり。
何だかおかしな展開になったな、と思いながら千影は杏樹を見つめた。
一人目と二人目の婚約者と比べれば容姿は劣ってしまうものの、可愛らしさが滲む優しい顔つきをしている。
「壱成さまと塚田さんが一緒にお祭りを楽しんでいらっしゃったのを見かけまして。その、差し出がましいかもしれませんが、壱成さまがあの様に接していらっしゃる姿は初めて見たもので、嬉しかったのです」
「嬉しい?」
「はい。その、わたしは、つい先日結婚しまして」
「それは、おめでとうございます。では、今日も?」
「はい。旦那さまと一緒です。わたしはとっても幸せ者です。壱成さまとはご縁がありませんでしたが、あの婚約があったからこそ、今の旦那さまとも会えたのかもしれないと思います」
「そうなのですか」
壱成に未練があるようではないので、千影はひとまず安心した。
「壱成さまは『自分を好いてくれる人を、好きになれない』と仰っていましたが、愛されることはとっても素敵なことだと思います。その、彼を幸せにしてあげてください。きっと、塚田さんならそれができると思います」
「壱成さまがそのようなことを?」
「……はい。さっぱり、振られてしまいました」
「そうだったんですか……」
(……そうは言われてもなぁ)
私たち、来年の一月には婚約破棄するんです。と言いたくなったが、心優しい幸せ絶頂期の彼女に言うことではないだろう。
「壱成さまとは、よいパートナーになれればなと思っています。花崎さまも旦那さまと末永くお幸せに」
「はい。ありがとうございます」
あまり収穫ある会話にならなそうだったのと、彼女の旦那さまをひとりにしておくのは宜しくないので、千影は適当に返事をした。
部屋に戻って、当然のようにぴったりくっつけて敷かれた布団を離す。
全く眠くないが布団に横になった。
(自分を好いてくれる人を好きになれない、か)
恋愛がド下手なことがよくわかる一言である。
千影と壱成がうまくいっているように見えるのは、見せかけに過ぎない。二人の間に恋愛感情はないのだ。
(ステージが炎上……。もしこれが鈴村喜助の仕業だったら、壱成さまも大変だな。きっと物的証拠は残ってない。ただの事故で終わる)
あの鈴村喜助だ。こんな事故を起こしたら、また注目度が上がるだろう。
統領戦は波乱の展開が待っているかもしれない。
今回の事件が、源一郎派のせいにされないければ、いい方なのかもしれない。
千影は目を閉じた。
*
壱成が喜助の公演があったステージに訪れると、そこは既に事態が収束に向かっているところであった。
「大尉!」
「榎本か。どうなってる?」
本部に足を運ぶと、ちょうど榎本がやってきたので壱成は事故当時の話を聞き出したが、照明器具のショートが原因で火災が起きたとみるのが濃厚だった。
壱成が思っていたより怪我人は少なく、死人も出なかったのが幸いだ。消火がすぐに行われたのが功を奏した。
「混乱が酷くならなかったのは、鈴村喜助が落ち着いた誘導をしたからですよ。まぁ、さすが元軍人ですね。肝が座ってます」
「……そうか」
榎本の言葉で、壱成は余計に鈴村喜助という人物が何なのかよくわからなくなる。
本部の端で話を聞かれていた喜助に目をやると、視線がぶつかった。
壱成は、仕方なくそちらに歩いていく。
「元気そうだな」
「はい。まさか、こんなことになるとは思ってみませんでした」
喜助は苦笑した。
壱成のうがった瞳が彼に注がれ、喜助は立ち上がって囁く。
「本当はもっと凄いサプライズをするつもりだったんですけど。今回は断念せざるを得ませんでした」
「おまえ……」
神経を逆なでするような言葉に、壱成の眼光は鋭くなる。
「まぁ、よかったじゃないですか。死人が出なくて。ね?」
それはまるで、この事故がなければ死人が出ていたとでも言いたげだった。
喜助は続ける。
「それより、先輩。婚約者さんとデート、楽しそうでしたね? 僕と遊ぶことも忘れないでくださいよ。放っておくと、何をしでかすかわかりませんよ?」
「……一体、何がしたい」
「やだな。鬼ごっこの最中でしょう? 僕、美学に反することはしたくないので。今回は大人しく引き下がりますね」
喜助は今にも殴りかかって来そうな壱成をヒョイと躱して、本部を去っていった。
「大尉?」
榎本の心配そうな声が聞こえる。
(……落ち着け。あれを普通の人間だと思うな)
壱成は固く握った拳をゆっくり解いていく。
ひとつ呼吸を置いてから、仕事に取り掛かるのだった。
*
*
*
そうして終えた花火大会。
喜助が何かしらよくない企みをしていたことはわかったが、幸か不幸か火事のおかげで死亡者は出なかった。
壱成が部屋に帰れば、時刻は午前三時。
彼は服を着替えると、すでに寝ていた千影を起こさないように気をつけながら、すぐに眠りについた。
壱成は千影のように短い睡眠時間で動ける体質ではないので、遅く帰った日には朝もゆっくり起きる。
(……起こしたほうがいいのかな)
先に起きて身支度を整え、のんびり茶を飲んだ千影はぐっすり眠っている彼を起こすか悩んだ。
そろそろ朝食が運ばれてくる時間なのである。
意を決した彼女は、壱成の側に座った。
この男の無防備な寝顔には、溜息が出る。
「壱成さま。そろそろ朝食のお時間です」
「……」
どうやら、朝は弱いらしい。
千影は壱成の肩を叩く。
「壱成さま。朝です」
「……ん」
壱成はぼんやりと目を開いた。
「おはようございます」
「……。おはよう。………いま、なんじ?」
彼は千影に起こされ状況を理解すると、顔を隠すように片手で顔を覆う。
「八時を少し過ぎたところです」
「……わかった。起きる」
千影は部屋を出て、ベランダから阿佐美川を眺めた。
一日がこんなに短いと感じたのは初めてかもしれない。
壱成は仕事でここに残るが、彼女は今日、屋敷に戻る。
「楽しかったな……」
昨日の夜のことが、すでに懐かしく思えた。
祭りそのものも趣き深いが、老若男女問わず、花火を楽しんでいた姿は印象的であった。
自分も普通の家に生まれていれば、家族や友人、恋人と祭りに来れたのかもしれないと考えてしまって、千影はそんなことを考えた自分自信に戸惑った。
彼女は自分のことを可哀想な子だと思ったことはないはずだった。
それでも、今回の小旅行で心を動かされたのは、事実だった。
自分がその中に混じっていることが不思議で、まるで宙に浮いているような心地になったが、真香の立場を以って彼女はそれを楽しんでいた。
(だめだ……。贅沢ばかりしていたら、自分が自分じゃなくなりそう)
千影は首を横に振った。
これは仕事の一環だ。
それに喜んでいては、正太郎に懐柔されたも同然。
彼女は朝日に煌めく阿佐美川から目をそらすのだった。




