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これは正しい婚約破棄  作者: 冬瀬
23/44

再開



開いた窓にゆったりとした風が吹き込み、カーテンが揺れる。

回復した千影は徳永の屋敷に与えられた自分の部屋で、書物と向き合い外国語の勉強に励んでいた。

机の上に置かれたガラスのコップに入っていた氷がからん、と音を立てる。

没頭していた彼女はその音に視線をあげて、喉の渇きに気がついた。コップいっぱいにあった氷は、いつのまにか小さくなっている。

コップについた水滴が本に落ちないよう、気を配りながらそれを飲み干すと、千影はぐっと伸びをした。


(……ここも、だいぶん住みやすく感じるようになってしまってるな)


レースのカーテンの隙間から見えた外の景色に目を細めながら、彼女は気を引き締める。

慣れほど油断ならないものはないのだと学んだばかりだった。




倒れた日、壱成はだいぶ早く屋敷に帰ってきた。心配をかけてしまったようで、珍しくこの部屋に来た。

控えめなノックが響くも、しっかり食事を摂って回復に努めた千影は深い眠りについており、それに気がつかなかった。

正直、千影は真香としてなら徳永の屋敷にいた方が安全だと思っていたし、実際その通りで、この屋敷では危機管理が薄れていた。

裏では影風なんて呼ばれている彼女には相応しくない、緩みきった寝顔で壱成を迎えてしまう。


壱成はベッドの側により、千影の顔を覗く。

彼女が起きないように明かりをつけていないので、薄暗く、わかりにくいが、先ほどよりは顔色が良くなっていたのに安堵する。

母親の一件や職業柄、医学もかじっている壱成。

ベッドのとなりに置かれた椅子に座り、腕をとると脈を図る。

正常なことを確認し、次に額に手を伸ばす。

柔らかい髪を避け、手のひらを乗せた。


「……ん、てるこ、さん?」


冷たい手が置かれ、千影は寝ぼけてそう言った。そして優しい手に彼女は照子を想い、はにかんだ笑顔を浮かべる。

照子を心配させないためか、それは柔和な表情であった。完成された真香の笑い方とは違い、あどけなさが残る。


壱成はぎょっとした。

こんなに無防備に微笑む真香を見たのは初めてだった。


(てるこ?)


壱成は使用人か誰かの名前だろうとあまり深くは考えなかったが、母親の名前を呼ばなかったことについては少しだけ違和感を覚えた。

ぼんやりとした視界が少しずつはっきりし、千影の前に顔の整った男が現れる。

心底驚いて、彼女は固まった。


「え、あ。い、壱成さま? す、すみません」


千影はこの緊急事態に慌てた。

とりあえず、今しがた自分は何をしてしまったのかを思い出す。


(寝ぼけてたッ。照子さんって呼んでしまったのか? どうしよう、大丈夫だよな? さすがにあれだけで私が真香じゃないなんてことはバレないはず)


ばくばくと心臓が鳴った。

こんな失態は久しぶりだ。

千影はなんとか真香に戻って、起き上がろうとするが、「寝てていい。まだ熱がある」と壱成に優しく押し戻された。


「……はい。ありがとうございます。ご迷惑おかけしてしまって、申し訳ないです」

「気にするな。気分は?」

「だいぶん良くなりました。その、先ほどは失礼を……」

「熱のせいだろう。だか、まあ、女性に間違われるとはな?」

「……す、すみません」


自分を気遣って、ああしたことをするのは照子くらいしかいなかったのだ。

でも、そんな言い訳を伝えることはできないので、千影は謝るしかなかった。


「こんな時に思い出すんだ。大切な人なんだろ?」

「はい。もうひとりの母のような人です」


そうか、と壱成は答える。


(だから、あんな風に笑うんだな)


今まで見たことのなかった、はにかんだ笑顔を思い出して彼はしみじみと千影を見つめた。


「あの?」


見つめられた千影は首をかしげる。


「いや。起こして悪かった。ゆっくり休めよ」


彼は千影の頭を撫でると、立ち上がる。


「は、はい……」


千影は彼の優しい表情に、まだ自分が寝ぼけているのではないかと不安になった。

壱成も、なぜ自分がそんなことをしたのか良くわからなかった。

ただ、今までの婚約者と違い、真香は自分に心を開こうとしていないことが今回のことではっきりした。


『ああ……。でもな、徳永。その男はおれが調べたところ、現在消息不明だ』


ふと、吾妻の言葉が蘇り、壱成は顔をしかめる。

婚約破棄後の真香についてのことは、壱成が気にするようなことではないのだが、良心が痛んだ。


(……はやく、婚約破棄すべきなのかもしれない)


こんな人を利用するような自分と付き合わせている真香に罪悪感を覚えてしまい、壱成は悩んだ。




壱成が去ったあと、千影は呆然として額に手を置いた。

他人にあんな風に触られるのは、滅多にないことだ。潜入捜査で男を相手にすることもあったが、壱成からは照子と間違えてしまうような抱擁力のある優しさを感じた。

ただ、相手は徳永壱成。

忘れがちだが、彼はたとえ婚約破棄を繰り返していても、相手に困らないような美貌の持ち主だ。

不覚にも胸が高鳴ったことに、自分自身が一番驚いた。


「はぁ……。慣れって怖い」


千影は小さくひとりごちた。




***



「真香さま。昼食のお時間です」

「わかりました」


琴吹に呼ばれて、真香は本に栞を挟んで閉じる。午前中の勉強はここまでだ。

椅子から立ち上がると、スカートが広がって風が抜けた。

暑くなってきて、彼女は和服から洋服を着ている。半袖にスカートという軽装で、とても涼しい。


彼女は琴吹の前を進み、壱成が待つであろう部屋に入る。

軍の夏服を着た壱成が、仕事の書類らしきものから視線をあげた。


「お待たせしました」


夏野菜で色とりどりに飾られた料理たちが並んでいる前に座り、手を合わせる。


「「いただきます」」


夏でも食欲が落ちることのない壱成は、今日も大きな一口で食事を平らげていく。

千影も夜の行動を始めているので、しっかりご飯を食べて仕事をしている。


「今日も屋敷で勉強か?」


あまり外に出ず、白い肌のままの千影に壱成が問う。


「はい。でも、そうですね。そろそろ買っておいた本を読み終えそうなので、明後日あたりに出かけようかと」

「そうか。勉強熱心なことはいいが……。夜にならなければ、少しくらい遠出をしてもいいんだぞ?」


千影は目を丸くした。

最近、会話が弾むようになって来てはいたが、そんなことを言われるとは。


(真環郡から半日で回れるような場所は、ほとんど行ったことがあるんだよな)


嬉しい提案ではあるが、特に行きたい場所はない。

琴吹に勧められてから、観光名所を調べるようになり、照子と一緒に周りたいところはたくさんあるのだが……。


「では、行きたいところが見つかり次第、お出かけさせていただきますね」


にっこり笑うと、壱成の眉がぴくりと動く。

少しの表情の変化ではあったが、千影が気がつかないわけもなく。


(なんだろう? 何か間違えたか?)


とりあえず気がつかないふりをして、食事に戻る。


壱成はというと、真香への罪悪感を自覚してしまってから、今までの婚約者と比べて彼女が自分にとる行動が違うことに敏感に反応するようになっていた。

今の会話だって、過去の女性たちならば、壱成と共に行こうという趣旨の発言をしたであろう。しかし、真香の話し方だとひとりで “お出かけ” を楽しむように聞こえる。……というより、そのつもりだ。

もしかすると婚約破棄のあと、例の男がいなくなったことを知れば、彼女が再び婚約を迫ってくるかもしれない、と考えたことがあった壱成だが、どう考えても彼女は自分をそのような対象としてみていない。


(外国語を勉強するのは、きっと例の男のためだろう。もしかすると、どこかで落ち合う約束を交わしているかもしれないが、吾妻が調べて「消息不明」だろ? まず、身元がはっきりしない時点で怪しいし、騙されている可能性が大きい……)


壱成は気を使って、真香に遠回しに勉強をやめさせようとしていたのだが、それが千影に伝わることはなかった。

彼女は、鈴村喜助に澄香と国明が見つかってあの家が使えなくなるという最悪の場合を想定し、違う国への渡航も視野に入れている。そこで騙されたりしないためにも言語能力の習得は必須だ。話せるようになれば仕事にもなるので、徳永家にいる間はできるだけ言葉を覚えることに時間を割きたい。


(今回は影として動くときの仕事道具を穂高に送れたから、今までより仕事が早く終わる。伊代がいつ来れなくなるかわからないから、少しでも多くお金を稼がないと)


真環郡は大都市だ。裏の仕事も尽きることはない。穂高が用意してくれ、依頼に困ることもないので、塚田にいるときよりかはお金が貯まるのは早い。


(さすがに軍を敵に回す訳にはいかないから、気をつけよう。照子さんは何も悪いことをしていないんだから、コソコソ逃げ回るようなことはしたくない。何より、照子さんも歳が歳だ。病気のこともあるし無理させないように、塚田を黙らせてから楽しく観光したい)


千影は料理を口にいれて咀嚼する。

壱成をちらりと見れば、彼と目があった。


「……来月、」


壱成はそこで言い淀む。

千影は来月何か用事があったかと思考を巡らすが、彼が何を言おうとしているのか絞れないので次の言葉を待った。


「阿佐美川で花火大会がある。……君に興味があれば結界を準備するが、観に行くか?」


(……なんだか、今日は驚かされることばかりだ)


千影は大きく瞬きした。

真香は夜に外に出てはいけないことになっている。それでも外出許可をしてくれるとは。

壱成の好意を無駄にはできないので、夜の仕事が潰れるものの、行くしかない。


「よろしいのですか?」

「ああ。準備をしておく」

「ありがとうございます。楽しみです!」


千影はにっこり笑った。

真香を外に連れ出す口実がこれしか思いつかなかった壱成は、面倒はあるが、これも彼女への償いだと思って、楽しんでもらおうと決めるのだった。




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