対面
「ああっ、真香! もう。どこに行っていたの?」
正太郎に呼び出され、“千影” が部屋に入った時だった。
部屋に座っていた芙美子が見ているのは間違いなく自分。
千影はぞっとした。
どうやら芙美子は可愛い娘の死が受け入れられなかったようだ。千影を真香だと思っている。
(面を外して来いと言われたから、おかしいと思ったんだ)
ちらりと千影は正太郎を見る。
言われなくとも自分が何をしなければならないのか千影にはわかっていたが、まさか正太郎まで彼女を真香だと思っていては困る。
「……真香、座りなさい」
「真香の好きな金平糖もあるわよ。さぁ、座って!」
精神が狂った芙美子を相手しろ、とその目が語っているので、千影は呼吸をするように真香を演じる。
「ありがとう、お母さま。わたし、桃色の金平糖がいいわ」
いつもより声を高くし、満面の笑みで芙美子の隣に座る。しばらく相手をすると芙美子が厠に。彼女が部屋を出た瞬間、千影は正太郎の前で跪く。
「芙美子の前では真香は生きている。いいな」
「はい」
「わたしとふたりの時だけ戻れ」
「御意」
手短に今後について説明される。
「徳永に相手をされるとも思えないが、しばらくは顔を出すな。お前の演技には反吐が出る」
正太郎は真香が死んだとわかっているので、真香として千影を近くに置いておくつもりは毛頭ない。そのための婚約だ。芙美子がこうなってしまっても、それは変わらない。
神経が図太いとは前から思っていたが、切り替えの早さには驚かされるものだ。伊達に塚田家の当主として医学界に名を知られるだけのことはある。
こちらとて、真香と呼ばれるのには身の毛がよだつが、千影は表情には出さない。
「ハッ。心して、臨ませていただきます」
なんの変哲も無い主従関係だと思えば、案外割り切ってやっていける。
照子が人質として扱われるのは癪だが……。
そういう訳で、千影扮する塚田真香は徳永家に嫁入りすることになった。
*
真香は可愛いものが大好きだった。
色は桃色。花は桜。髪飾りには蝶をあしらい、好物は甘い金平糖。
話し方は少し高い声で、汚いものなど何も知らない純粋無垢な柔らかい物腰。
ただ、頭は冴えるのか、いつも自分が楽しくて幸せでいられるように、屋敷のひとびとをうまく使っていた。それは、正太郎と芙美子も含まれる。まとめると、甘えるのが上手な娘だった。
屋敷の中では、彼女は姫だということを自分で認識していたのだろう。真香は公の場に出ることを嫌った。それが箱入り娘の由縁だ。
最初は正太郎たちも、社会的に考えて真香を外に出そうとしたが、結局千影が補うことになった。よそ行きの振る舞いは、全て千影が担当している。
しかしながら、真香は自分を着飾るのが好きだったので、お忍びで買い物をすることは多々あった。千影は毎回それについて行き、彼女の警護と、入れ替わった時のために何をしたか把握していた。
そんな経緯があって、表向き、屋敷の外では千影が真香だった。
厳しい教育を施された千影が演じる真香は、趣味趣向こそ真香であったが、それ以外は千影によって修正された完璧な塚田真香だった。
「塚田真香と申します。不束者ですが、精一杯努めさせていただきますので、どうぞお願いいたします」
真香を演じている時だけ、外すことを許されたくちばしの面は離れに置いてきた。しばらく着けることはないだろう。
千影は、新たに真香の面を被っていた。
目の前に座る男は微動だにせず、千影を見つめている。
髪は短く切り揃えられ、切れ長の目は威圧感がある。今年26にしては若く見える風貌だが、既に家督を継いでいる、徳永家当主である。
「徳永壱成。今年で26。統国軍特殊部隊大尉。主に悪霊祓いを生業としている。好きなものはひとりの時間。嫌いなことは干渉されること。以上」
彼はツラツラと自分の所属なり趣向なりを述べ終えると、立ち上がった。どうやら話は終わりらしい。
「何かあれば、琴吹に言え」
「琴吹でございます。何なりとお申し付けください」
控えていた侍女が一礼するのに合わせ、千影も頭を下げた。壱成はそれ以外には何も言わなかった。
客室に残された千影は、とりあえず琴吹と向き合う。
「塚田真香です。これからお願いいたします。琴吹さん」
「ご丁寧にありがとうございます。どうぞこちらへ。お部屋に案内いたします」
琴吹は四十代前半ぐらいの女性だ。気品ある動作は、数年でできる振る舞いではない。相手が誰であろうと与えられた仕事はこなしてくれる人だろう、と千影は判断した。
「こちらが真香さまのお部屋です」
徳永家の屋敷は塚田家とは異なり、洋風の建物だ。通された部屋も、ベッドが用意され、ドレッサーやクローゼットまで、全て整っている。真香の趣味を知ってのことか、所々に桃色が使われている部屋だった。
「とても素敵なお部屋ですね」
「そう言っていただき、何よりです。塚田家のお屋敷とは大きく異なりますので、慣れないことがお有りになるでしょう。遠慮なくおっしゃってくださいね」
「はい」
千影はふわっと笑みを浮かべる。もちろん笑い方ひとつとっても真香直伝だ。
琴吹が退出したのを確認し、上質なソファに腰をかけた。誰もいないことはわかっていたが、真香の面は外さない。少しの気の緩みが思わぬ結果を呼ぶので、この先、例えひとりでいるときでも、この面を外す予定はなかった。
(好きなものはひとりの時間、嫌いなことは干渉されること、か)
さすが何度も婚約を破棄している男だ。まさか最初から釘を刺されるとは思ってはいなかった。しかし、それは好都合。あの様子だと彼の条件を呑み、ひっそりと暮らしていれば、この屋敷に滞在することはできそうだ。あまり早く塚田家に戻ることになると、正太郎から何を言われるかわかったものではない。小言で済めばいいが、照子に当たる可能性がある。千影が何事もなく徳永家にお世話になっている間は、少なくとも機嫌を損ねることはないはずだ。
「真香さま。失礼いたします」
「どうぞ」
お茶の準備を整えた琴吹が戻ってきた。
机の上にカップが置かれ、紅茶が注がれる。
「いい香り……」
千影は丁寧な手つきでカップを持つと、そっと口をつけて舌に滑らす。その全ての動作を、琴吹は静かに見つめている。
(……彼女が品を定めているのかな?)
薄々気がついていた。壱成が真香を相手しない時点で、他の誰かが彼女を見ていることくらい容易に想像できる。
どんな娘をご所望か、千影は前もって、壱成と婚約したお嬢様がたの情報を集めていたが、どれも参考にならなかった為、手も足も出せない状況だ。
「真香さま、ご夕食はいかがなさいますか? 壱成さまはお仕事の後に、夕食を摂られますので、かなり時間が遅くなってしまいます」
大人しくしているのが正解であれば、答えは簡単。もちろん先に夕食を食べさせてもらう。
「遅く、とはどのくらいの時間なのでしょうか」
一応これくらいは訊いて置かなければ、不審がられるだろう。千影は当たり障りのない質問を選ぶ。
「十時は回ります」
千影の祓いの仕事は、悪霊が姿を現わす夜—だいたい人々が寝静まった零時から朝の三時まで行っていたので、問題ない時間ではある。
「……時間は問題ありません。当主さまにご迷惑でなければ、待たせていただきます」
塚田にいる時は、朝は六時に起床。真香と見た目が変わらないように、清潔でいることが求められたため、七時までの間は身を磨く。時には神聖とされる滝に打たれるときもあった。入浴を済ませると、身体に保湿液を塗り、髪は艶々になるらしい薬を。それが終わると朝食の点検。千影は匂いで異常が無いかを嗅ぎ分けることができた。点検すると離れで一緒に暮らしている照子の分も朝食を受け取り、一緒に食べる。そこからは真香に付くか、任務に出た。
幼い時は勉強ばかりしていた。真香の護衛が始まってからは、自分の時間などほとんど無く、これなら勉強していた方が良かったかもしれないと思ったことがある。自分と同じ顔の人間が、甘やかされて育っていくのを間近で見ていると、鳥肌が立つのだ。自分はこうはなるまい、と何度誓ったことか。しかし、それだけ一緒にいると、真香が次にどんな行動に出るのか、考えなくともわかるようになり、彼女のフリをする技術は上がっていった。
午後六時の夕食が終わると真香の護衛が終わる。それからは夜の仕事だ。
必要な情報を集めたり、時によっては人を殺める。例の研究者による治療も、大抵夜に行われた。そして、午前零時を迎えると、千影は悪霊祓いに出かける。一般人は悪霊を見る者が少ないため、人目につかないように行動しなくてはならない。悪霊も力を持ちすぎると、誰の目にも映るようになるのだが、それは特殊な場合だけであった。
見るということは見られるということ。
触るということは触られるということ。
悪霊祓いの一族たちは、能力を持つと同時に、悪霊たちから物理的攻撃を与えられる定めである。ヤツらは見えていない一般人には、取り憑いて呪う程度しか手を出せない。
一族の特殊能力によっては、悪霊たちに狙われて、保護される者もいる。
そのうちのひとりが塚田真香だった。
どうやら塚田家の持つ治癒能力は、悪霊からみても魅力があるらしい。他の一族からも一目置かれ、時には厳重に警護された。
実際、真香は治癒の能力が強く、悪霊たちに狙われた。真香がどこか怪我しても、一瞬で治ってしまうのだ。よって千影は、彼女を守るための力も望まれた。双子の姉である千影も狙われておかしくなかったのだが、薬のせいか、元から真香ほど治癒能力が無かったからか、狙われることはなかった。
以上の理由から、塚田家の周りには他の地域より悪霊が多く出現した。千影は毎晩巡回をすることになり、それが終わって初めて一日が終わる。屋敷に戻って就寝すると三時間という睡眠時間ではあったが、彼女の身体はそれでも正常に機能した。
その日は初日だったからか、すんなり千影の意向が受け入れられ、壱成と夕食をとることになる。
仕事帰りで軍服を着た壱成を琴吹と共に出迎え、千影は表情には出さないものの人間の血の匂いを嗅ぎとった。
(……返り血かな)
本人から流れる血は感じられない。千影は壱成が無事ならば問題ないと、その場をやり過ごす。
壱成が着物に着替えると食卓についた。
終始朗らかな雰囲気をまとわせ、千影は美味しい食事に舌鼓を打った。その間に会話はない。本物の真香であれば、あれやこれやと顔の整った壱成に話を振っていただろうが、千影はそうはしない。干渉されるのが嫌いだと言われているので、自分から行動を起こす気にはなれないのだ。
「部屋はどうだ」
自分の世界でひとり食事をしていた千影に声がかかる。
硬い表情のまま、綺麗な所作でナイフとフォークを操る壱成がこちらを見ていた。
「素敵なお部屋でした。ありがとうございます」
まさか話しかけてくるとは思っておらず、千影の心拍数が上がる。婚約を破棄された令嬢たちが口を揃えて、冷徹だの無情だの、男ではないだの言うので、全く相手にされないと考えていた。
「そうか」
長い睫毛を伏せて、料理を口に運ぶ様子を思わず見つめてしまう。
その後もいくつか質疑応答を繰り返したが、壱成は料理を平らげるとすぐにその場を離れていった。
(極端すぎたか?)
千影は部屋に戻ると頭を悩ませる。ここは一人で悩むより、琴吹に訊いたほうが早いかもしれない。彼女を部屋に呼ぶと、千影は困った顔で話し始める。
「当主さまは干渉されるのがお嫌いだと伺ったので、自分から話すのをためらってしまいました」
「真香さまがそう思われるのも、仕方ないことでしょう。壱成さまは妻を必要としておられない。そのお心はどうにも変わることがなく、今に至ります」
琴吹は目を細めて何か遠くの記憶をみているらしかった。
「真香さま。どうぞ長い目で、壱成さまとの将来をお考えください」
どうやら琴吹は婚約に反対しておらず、むしろ千影に壱成とうまくいって欲しいと思っているようだ。
悪霊祓いの寿命は長くて六十。一般人の平均寿命が七十五であるので、短いと言えるだろう。壱成の母親は既に亡くなっており、父親は出来ることなら孫を拝みたいと、琴吹に漏らしていた。
「真香さまの評判は、かねてより伺っております。この琴吹、お力になれることはなんでも致しますので、お願い申し上げます」
この時琴吹は、千影は今までの婚約者とは何かが違うということを感じ取っていた。女の勘といえばそれまでだが、琴吹は彼女を評価するとともに、底知れぬ器の深さに警戒もしていた。