蓮丹 5
「澄香。分かってくれ」
「いやよ、お父さん! なんでわたしだけ!」
そこは寺から離れた民家の隠し部屋。
軍の包囲から外れた場所である。
澄香は泣いていた。
父同然の彼は、自分に逃げろと言う。
ほかのみんなを犠牲にして、自分だけ。
——予知夢なんて、持っていなければ。こんなことにはならなかったのに。
いや、本当に自分が能力をもっているから、悪いのか?
能力を受け入れてくれない国が悪いのではないか?
澄香は憎くて、憎くて仕方ない。
この部屋に閉じ込められてから、彼女はずっと考えた。
何が悪いから、こんなことになっているのか。
一体何を取り除けば、普通の暮らしに戻れるのか。
「なんで、わたしたちがこんなっ。一体なにをしたって言うの!」
でも、答えは出なかった。
ただひとつ言えることは、自分たちは何もしていないと言うこと。
決して豪華な暮らしはできなかったが、恵まれた自然に囲まれて、みんなで助け合って生きてきた。心の傷ついた祓い人たちも、この場所に馴染んでしまえば、笑顔で生活している。
ほかの郡からは場所的にも孤立していたし、小さなコミュニティでは、この村全体が家族のようなものだった。
家族が困っている。戦っている。
それも得体の知れないものから狙われる自分のために。
自分ひとり、逃げ出すことはできない。
「……澄香」
国明が澄香の隣で、悲痛な顔をしている。
「時間がない、澄香。こんな時くらい笑った顔を見せてくれ」
純忠の困った苦笑いは、全然幸せそうじゃない。
「そんなの、まるでこれがお別れみたいじゃない。ねぇ、お父さん!」
詳しいことを知らされていない澄香は、ただ混乱していた。
「あの男に見つかる前に、逃げるんだ」
純忠はそれだけしか言えなかった。
きっと今頃は寺の結界を破ろうと、悪霊たちが足掻いているところだろう。
結界が破られれば、闇さえあれば神出鬼没なあいつが、こちらにいる彼女を捕まえに来てしまうのも時間の問題。
「そんなっ。わたしも一緒に闘う!」
「澄香!」
普段穏やかな純忠が声を荒げる。
澄香はびくりと肩を震わせた。
「今から、国明くんと一緒に漁港に飛ばす。朝になったら、船に乗って逃げるんだ」
「そんな……」
澄香は国明を見つめる。
彼は隣の郡では有名な商家の次男。
長男が家督を継いでおり、武器を用意した時には親にも話しはつけてある。
純忠は澄香と国明の手を握る。飛ばす場所は、記憶を覗く能力を持つ祓い人のおかげで、ちゃんと把握できている。後は、送り出すだけだ。
「国明くん。この後も油断はできない。澄香を頼むよ」
純忠は彼らを転移させようとした。
「——話しは大体聞かせてもらったけれど、それじゃあ、甘いね」
「誰だ!!」
突然声が聞こえ、純忠が勢いよく振り返る。
そこには、鳥の面をつけた女が立っていた。
服装から、軍の手の者かと思われる。
「裏では、『影風』なんて通り名がついてる。私のことはいい。そんなことより、あなたたちは自分らが誰を相手にしているか分かっているのか?」
彼らは黙って千影を見た。
とりあえず、捕まえようとしてくる気配はないが、彼女には逆らっても意味がないということが、嫌でもわかった。
「知らない。分かっているのは、悪霊を操る男だということだけだ」
純忠は答える。
「あれは鈴村喜助。鈴村財閥の息子だ。船で逃げたらすぐに足がつく」
「鈴村財閥?!」
国明が驚きの声を上げる。
まさかそんな大物が、こんな悪事を働くとは思って見なかったのだろう。
「私も偶然知ったことだ。まさかこの騒動にも噛んでるとは思わなかったが、決定的な証拠を目撃してしまったものでね」
今はスヤスヤ寝ているだろう女性を、千影は思い浮かべる。全く悪趣味な娘さんだった。
「じゃあ、一体オレたちにどうしろと!」
相手の大きさに気が付いた国明が、千影に食いついた。
「軍に保護を求めればいい」
至ってシンプルかつ合理的な回答である。
軍は予知夢の祓い人を手に入れられるし、彼らだって喜助から身を守れる。
まぁ、喜助は軍に所属していたし、今ではスターなので彼の息がかかった軍人も中にはいるかもしれないが、徳永壱成がなんとかしてくれるだろう。
「……それは、できない」
苦渋の表情を浮かべた純忠の返事は、拒否だった。
話を聞いていたので、なんとなくそう答えるのではないかと千影も思っていた。
「じゃあ、船で外に出ようとしたところを、あいつに捕まるだろうな」
ぐっと純忠の拳に力が込められるのが分かる。
部屋はしんと静まりかえる。
千影の耳には、結界の外で闘う祓い人たちの息遣いまで聞こえているが。
「………助けてよ」
俯いていた澄香から小さな声が漏れる。
鼻をすする音がして、泣いているのが分かった。
「強いんでしょう? 影風なら、どんな仕事もこなせるって、間広のおじちゃんが言ってた!」
千影は自分に助けを求める彼女から、どうしても目を離すことができなかった。
塚田の暗部で「消し」の仕事をしていれば、命乞いをされることは何度もあった。彼女は任務を全うしてきたのだ。
照子の命がかかっているから。
しかし、今は置かれている立場が違う。
たとえここで千影が彼女たちを見逃しても、黙っていればバレない。
軍はまだ、この事件に鈴村喜助が関わっていることすら知らないのだ。
「ねぇ! お願い!!」
すがりついた澄香は、千影の同情を誘った。
(世の中って、唐突に理不尽なことを振りかざしてくるんだよね)
理不尽な状況に怒り、叫ぶ澄香を見ると、もう自分は、理不尽なんてことにも慣れてきてしまって、正常な感覚がないんじゃないかな、と千影は思ってしまった。
「……あなたは、私に何を返せる?」
タダで助けてあげるほど、千影は優しくない。
今、彼らを助けてあげられる方法は、千影にとってもあまり安全とは言えない策なのだ。
それなりの対価が欲しい。
「わたしが持っているのは、この体と能力だけよ」
千影はしゃがみこんで、澄香と視線を合わせる。
「いい目をしてる。理不尽と闘う準備はオーケー?」
「ええ」
力強く頷いた澄香に、千影は覚悟を決めた。
「そこの君。宍戸国明で間違いないね?」
「は、はい」
「紅語は話せる?」
「はい。海外との商売には必須ですから」
さすが商家の息子だ。言葉さえ分かれば、何とかなるだろう。
「よし。仕方ないから、あなたたちには私の家を貸してあげよう。一気にそこへ飛べばいい」
彼女は、買ったばかりのマイホームを貸し出すことにした。
まだ照子と国を出るのには、時間がかかる。
管理人として、ふたりにはあちらに住んでいただこうではないか。
「向こうでのことは、責任は負えないが、今あいつか軍に捕まるよりマシだろう?」
「……やっぱり、逃げるしかないの?」
澄香は不満そうであるが、それくらい我慢して欲しい。
「鈴村喜助を追ってる人がいる。あの人ならきっと尻尾を掴んでくれるから心配するな。ものごとには適材適所ってものがある」
正直、あんな臭い人と関わりたくないというのが千影の本音だが、それは言わなかった。
なんとか、壱成に喜助を捕まえてもらわねば。
「問題はあなただね、純忠さん」
身元が割れていないふたりは逃すにしても、彼はこの事件の主犯になっている。
ここで消えれば、絶対に怪しまれる。
「わたしはここに残る。もとからその予定だ」
「お父さん……」
澄香も落ち着いてきたのか、反論はしなかった。
「武器は全て悪霊用の銃だろ? 軍が間違えた情報に踊らされたって、教えてやればいい。そこはあなたの演技力にかかってるかもな」
純忠は困惑した顔で千影に問う。
「あなたは、軍側の人間でしょう? 澄香を見逃せば、まずいのでは」
「軍側だけれど、軍人ではない。勿論だが、私が関わったことは黙っていてくれ」
千影の言葉に、皆、首肯した。
「さて。お嬢さん。私はあなたに家を貸すだけだ。返してもらう時がくる。たっぷり利子をつけてくれ。その能力を使ってでも」
「…………分かったわ」
「オーケー。宍戸くんも、下手に家族と連絡を取ろうとしないこと。ふたりでうまくやって、しばらくの間は隠れてな」
「はい……」
応急処置でしかないが、今はこれで凌ぐしかないだろう。
千影は家の詳しいことを国明に、簡潔に伝える。あとは彼ら次第だ。
他国まで喜助が追えないことを祈ろう。
「じゃあ。元気でやりなよ」
まさかこんなことになるとは、千影も思って見なかったが、今日は機嫌がいいのだ。
たまには人助けもいいだろう。
彼女は澄香と国明が転移するのを見送った。
「じゃあ、こちらも頑張らないとね。純忠さん」
「ああ。悪霊と闘うつもりだったとしても、澄香のことはうまく隠さなくてはならない」
「……悪霊を呼び寄せる、か」
千影は「はぁ」と深い息をつく。
いま自分の知っているもので、すぐに用意できるものはひとつしかない。
「指一本でいいかな」
「な、なにを?」
腰から小刀を出した千影を、怯えた顔で純忠は見る。
彼女は取り出した小刀を、左の小指に当てて思いっきり切り落とした。
「これを守ってたことにしましょうか」
千影は表情ひとつ変えず、指を拾う。
純忠には狂気の沙汰にしか見えなかった。