舞台
「塚田さんを大事にしてあげてくださいね。先輩」
大きな扉の前。
含みのある物言いをして、喜助は見送りを締めくくる。
外に出ると、黒い外車が止まっている。
その側で白髪の混じった髪を後ろに撫で付け、直立しているのは風間だ。
(風間さん!)
ここまで彼がカッコよく映ったのは、今日の最悪な時間のせいだ。
喜助に軽く会釈して車に乗り込み、千影は「はあぁーー」と息を吐く。淑女にあるまじき行為だが、存分に鬱憤の混じったため息を吐いた。
喜助に掴まれ、唇を落とされた手を、ハンカチでゴシゴシ擦る。
壱成はいつにも増した仏頂面で、その様子を窺っていた。
「体調は?」
「吐き気があったのですが、もう大丈夫です」
「俺が来るまで、あいつに何かされたのか」
「いえ、特には。しかし、彼とはもう会いたくないです」
壱成はその双眸を皿にした。
珍しく真香が拒絶をしたのだ。それも、他人について。驚くのも当然だ。
「なぜ?」
「あの人の側に行くと、何故だか気分が悪くなるみたいで」
「じゃあ、体調が悪くなったのはあいつのせいだと?」
「たぶん……。彼は、人とは違う気がします。でも、私の気のせいかもしれません。こんなことを言って、失礼ですよね……」
千影は怯えたように腕を摩る。
(私は鈴村喜助とは関わりたくない。彼とは繋がりがないし、金輪際こちらから会う予定はない。その面からは、あなたとは味方だ)
ここははっきりさせておかなくてはならない。
壱成の地雷らしい、鈴村家の息子。
源一郎と秘密裏に動いているらしいことから、政界に関わることに間違いない。
巻き込まれるのは御免だが、壱成の婚約者として、自分にいつ何が牙を剥いてくるか定かではない。
護身のためには、誰を敵として見做すのか判断し、その都度、志を同じくする同志だと認知される必要がある。
それは塚田を含めてだ。
「……そうか」
壱成は前を向く。
彼女が嘘をついているようには見えないが、自分があの楽屋に来る前、何か取引きがされていたかもしれないと考えると、素直に受け取れない。
帰り際に言われた喜助の言葉が気にかかる。
(彼女が目をつけられた可能性は高いな)
面倒ごとが増えてしまった。
喜助に出会う前にさっさと家に帰るべきだったのだ。
当分、真香の監視は強くしておかなくては。
鈴村喜助は、精神異常者。快楽殺人犯である。
あの甘いマスクからは想像できない、残酷なことをやってのける男だ。
それも、今のところ彼がやったという証拠を掴むことができていない。
なぜなら、
あの男は、悪霊を使って犯罪を犯しているから。
方法は不明だが、彼は何かしらの形で悪霊を従わせている。それによって、人の理解を超えた完全犯罪を成し遂げてしまうのだ。未解決事件とされるほとんどが、悪霊によるものなのである。
壱成がそのことに気がついたのは、偶然だった。
彼が少尉として本部に配属され間もない頃、隊を率いて夜の巡回に当たっていた時、ある部屋の窓からあの光景を見てしまったのだ。
鈴村喜助の背後から、悪霊が顔を出して、人々を食い散らかしたと思われる血の海に立っている姿を。
もちろん捕まえようとしたが、喜助は影に飲み込まれるようにして消えてしまった。
常人が悪霊を操るなど、前例はない。
もしそれが証明されれば、ことは一刻を争う。
壱成はすぐに当時の上層部に報告したが、妄言だと顎であしらわれた。
証拠が何もない。
喜助とともに遺体の残骸も消えてしまったからだ。
——殺人事件など起こっていない。
行方不明者が出るのは、今に始まったことではない。
本部に来たばかりで疲れが溜まっているのだろう。
それが彼にかけられた言葉だった。
唯一話を信じてくれたのは、吾妻だけ。
高等学校から大学まで、同じ時を過ごした親友だ。
馬鹿にされる覚悟で、後輩の信じ難い悪事を伝えると、吾妻は案外話をすぐに飲み込んでくれた。
吾妻鉄平は、自分の気配を完璧に殺すことができる能力を持っている。
代々、祓い人の耳として働いてきた彼らは、情報網がえげつない。
彼が友であり、味方についてくれたのは、幸運なことだった。
「振り返れば、喜助には兆候があった」
吾妻は、喜助が殺めることに快楽を覚えてしまう前兆をみていた。
大学の研究室で、マウスだけではなく様々な動物を使い実験を繰り返していた。
軍に入ったのも、合法的に人を殺めるためだったのかもしれない、と吾妻は言う。
自分に懐いていた後輩ということもあり、壱成には衝撃的なことだったし、責任を感じた。
「あいつは俺が止める」
それから壱成はずっと、あの男の尻尾を掴む時を狙っている。
来年には統領戦も控えている。
能力者の未来のために、源一郎をその座につかせようとするのは、至極当然のこと。
役者になり、鈴村の株を上げようと画策したと思われるが、その自信はどこから湧いてくるのか壱成には不気味だった。
喜助も彼の動きに感づいているようだし、そろそろ決着をつけなくてはならない。
(軍を辞めたのは、何か始めるつもりの筈だ。……最悪、俺が——)
「きゃ!」
千影側の車窓に、悪霊が飛びかかってくる。
車には結界が張ってあるが、やつらがへばりついてこちらを見ているのは気分が悪い。
壱成は自分の方に千影を引き寄せると、窓に手を当てた。
——消えろ。
車外で青い炎が踊った。
間近で悪霊が苦しみの声をあげて消えていく。それは耳にこびりついて離れない、人々の心に溜まった憎悪の悲鳴だ。
塚田にいた時は、声を上げさせるまもなくヤツらを瞬殺していた千影。
悲しげにそれを見送った彼女を、壱成はガラスを通して知る。
その表情は何故だか深く印象に残った。
自分を狙ってきたものに、怯える者が見せるものではない。
言うことを聞かない我が子をなだめるような、そんな瞳だ。
「すみません。ありがとうございます」
自分の胸に収まった彼女の声を聞き、壱成は我に帰る。歳下で屋敷の中にこもっていた華奢な娘から、体を離す。
今日は疲れた。
きっと見間違いだと自分に言い聞かせるが、胸騒ぎがしていた。
*
「真香さま。劇はいかがでしたか?」
部屋に着くと、琴吹が興味津々の様子で千影に問う。
どうやら彼女も喜助の虜になっている様子。
(あんなののどこがいいんだか。二度と会いたくない)
「主役の方の演技力は、さすがでした。あれがデビュー作とは思えません」
「まぁ! いいですね〜。わたしも観てみたいです」
琴吹はミーハーというやつだ。
ファッションや美容、流行に敏感な女性で、あまり興味がない千影からするとその知識に助かっているところはあるが、温度に差が出る。
「琴吹さんもお休みがもらえれば良いのですが……。私からお願いしてみましょうか?」
「とんでもございません! 長期のお休みをいただいたばかりなので、お気遣いなく。興味はありますが、怖い話はどうも苦手で」
なるほど。彼女が「観たい」のは、鈴村喜助だけらしい。
あまりお勧めできないので、琴吹にはまたの機会にしてもらおう。
「先ほど真香さま宛てにお手紙が」
自分に手紙を送ってくる人など、正太郎くらいだ。
今日はつくづくついていないな、と思いながら封筒を受け取り首をひねる。
(正太郎さまからじゃない)
送り主は、盛岡洋子。
源一郎の妻の名前だった。
驚いて慌てて封を切り、中身を確認する。
「……お茶会?」
千影は目を丸くした。
相手が相手なので、断ることはしない方がいい。
祓い人の妻たちが集まったお茶会だそうだが、自分は形だけの婚約者。良心が痛むが行くしかない。
返事は早い方がいいだろう。
「壱成さまに、盛岡洋子さまからお茶会の誘いがあったとお伝え願います」
「かしこまりました」
茶会は日中に行われる。相手も盛岡の女主人だ。許可は出るだろう。
千影は寝る支度を整えてから、ペンを握った。
(そろそろ穂高にも会いに行きたいところだな。どうやって琴吹さんの護衛を掻い潜ろうか)
この屋敷で壱成の次に注意を払わねばならないのは、琴吹。
風間は常人なので身体能力は凡。
気が利き、頭も切れるが然程気にしなくていい相手だ。
常人なのに壱成に仕えているとは不思議に思うかもしれないが、何もおかしなことはない。彼は祓い人の妻がいて、こちら側の世界を跨いでいる。
それに、悪霊と多数遭遇する凄腕の祓い人の側におくのは、常人のほうが都合がよい。常人は通常、悪霊を見ることも触ることもできないが、逆に襲われることもない。下手に弱い祓い人を付けて、人質に取られるほうが面倒なのである。
琴吹はその点、能力者なので身体能力は常人より高く、異変にも気がつきやすい。
彼女の能力は人より力が強い——怪力の持ち主である。探知能力ではないのに感謝しよう。
(やっぱり、夜に屋敷を抜け出したほうが簡単そうだな)
二ヶ月大人しくしてきたが、もう動き出してもいいだろう。
伊代が当番の時に、入れ替わる。
彼女は幻術を使うことができる祓い人だ。うまく行くだろう。
(……今日はとりあえず寝よう。精神的に疲れた)
手紙を書き終えて明かりを消す。
ベッドに潜り込んで目を閉じると照子の姿が目に浮かぶ。
彼女に話を聞いてもらいたくなって、ホームシック気味になったが、塚田の屋敷には行きたくない。
夢の二人暮らしはいつできるのかと、千影は自問自答する。
蓮教の教えでは、蓮を咲かせる神は、それを摘むことしかしてくれない。
ほかの国の神は願えば救いの手を差し伸べてくれるそうだが、この国では天上の世界にみとる——包み隠さず言えば死を与えてくれることが救いだそうだ。
自分の望みは自分で叶える他ないのだ。
神に摘まれてしまう前に……。
(壱成さまは危ない橋を渡っているのかもな。結婚したがらないのもそのせい?)
もしそうなら、かなりの覚悟だ。
鼻の奥に喜助の臭いが蘇り、顔を歪める。
(あれだけ人を殺していて、未だに壱成さまが捕まえられないとなれば、そうとう手強い)
火の粉が自分に降りかかってこないことを願う千影。
「あれは、絶品だね」
ペロリと唇を舐めて、極上の笑みを浮かべた喜助の危ない瞳を、彼女は知らない。