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これは正しい婚約破棄  作者: 冬瀬
12/44

舞台



「舞台、ですか?」

「ああ。知り合いにチケットをもらったんだ」


朝。食事の席で壱成に一緒に舞台を観に行かないかと誘われて、千影は目を丸くする。

壱成が嘘をつく必要はないし、彼女に気を遣って舞台に誘ってくれているようには見えない。

きっと、その知り合いという人からの贈りものを無下に出来ないのだろう。


「どんなお話なのでしょう?」

「『鬼と鬼』だ。タイトルからして、あまり明るい話には聞こえないな。無理にとは言わないが……」


あまりいい表情をしていない壱成に、もしかすると乗り気ではないのかもしれないと千影は思う。

行きたくないなら、行かなければいいのに、と言いたいところだが、そうにもいかない。


「いえ。是非、観てみたいです」


どうせ屋敷にいても暇を持て余すのだ。

彼女は頷いた。


「そうか。よかった。時間は夜になるが、君のことは守る。心配しないで楽しんでくれ」


男前な一言に頬を染めてもいい場面だが、残念ながら千影の心はぶれなかった。

むしろ、悪霊ホイホイの自分を連れて行ってまで劇を観るとは、どういうことかと頭をひねる。


「その知り合いの方は、祓い人ではないのですか?」


「常人だ。大学時代の後輩で……いや、鈴村音八の息子といえばわかるか?」


「鈴村喜助さんですか!」


自分の知っている人物で、千影は驚いた。

会ったことはないが名前くらいは知っている。何せ鈴村財閥の一人息子だ。


「ついこの間退役して、役者になることにしたそうだ」


壱成は長い睫毛を伏せて、箸を置いた。

今日の彼はいつもと様子が違う。

体調が悪いようではないし、何かあったのだろうか。


「退役してすぐ公演ですか。元から役者になられるつもりだったのでしょうね」


「……そうだろうな」


言葉を濁された。

鈴村の息子とは何かあるのは確かだ。


(鈴村と繋がりがあったのか。人は見かけによらないな……。源一郎さんを裏切るようには見えないし、ただの友人? いや、それにしては反応が)


何も面倒が起こらないことを千影は祈った。


後日、鈴村喜助が舞台で主役を演じることは、大きく報道された。

最初は鈴村音八の息子ということで取り上げられていたのだが、そのうち彼の美しい容姿が女性たちの目にとまる。

『鬼と鬼』は、サスペンス。お世辞にも美しい話とは言えない。


それでも公演初日、劇場は満席。

着飾った女性が多く目につく。お目当は言わずもがな鈴村喜助だ。


「すごいですね」

「ああ……。ここまでとは思わなかった」


ふたりは周囲の熱量に圧倒されながら、劇場に足を踏み入れる。

豪華なシャンデリアが最初に彼らを出迎え、レッドカーペットは観客を導く。

案内されたのは貴賓席ではなかったが、一番舞台を観やすい位置だった。

照明が消えて会場が一気に静寂に包まれると、幕が開ける。



そこには、着物姿で俯いた青年が一人。



洋の空間に、和が混じっているからか。

青年が鈴村喜助だからか。

彼がその手に赤黒い刀を握り、その周りには人が倒れているからか。


理由はわからないが、その姿に息を飲む。

千影は思わず隣に座る壱成を見た。

あの男が、喜助で間違いなのかと確認するために。


そして、固まった。


壱成は今まで見たことのない程、冷たい怒りを放っていた。

組まれた腕から覗く手は、白くなるほど握り締められている。


千影はゆっくり視線を前に戻す。

今、彼と目を合わせてはいけない。

そう本能が告げていた。


——怒りに紛れて溢れているそれは殺気だ。


何がこの男をここまで怒らせているのか、今の彼女は知らない。

ただ、壱成を怒らせているのは、舞台で圧巻の演技をする鈴村喜助だということはわかる。


淀みなく上演は続く。

主人公は殺人を犯し、それを 高松凛子 演じるヒロインが、運命に翻弄されながら、真実に近づいていく。

最後には、主人公が犯人だと気がつくが、彼を愛してしまったヒロインは遂に自殺してしまう。


会場のあちこちからすすり泣くのを耐えるのが聴こえてくるが、千影はそれどころじゃない。

感覚が人より敏感なので、隣に座る彼の反応がいちいち気になってしまい、神経が削られていた。

正直、舞台の内容はあまり頭に入って来ず、面白かったのかわからない。


カーテンコールで拍手喝采のなか、壱成は音のならない拍手をしていた。


すっかり人々が退出し静かになった会場。立ち上がる彼に合わせて、千影も腰を浮かした。

もしものときのため、彼らは一般客と帰りの時間をずらす予定なのだ。これから風間が車で迎えに来てくれるまで、時間を潰さなくてはいけない。


(この空気で……?)


無言で後ろをついていく千影は困った。

このままふたりきりになったら、絶対に話がもたない。


「悪い。手洗いに寄る。ここで待っていてくれるか」

「わかりました」


ロビーで待つことになって、ひとまずホッと肩の力を抜く。

今日は舞台を楽しむつもりだったのだが、思わぬ体験をした。


(徳永壱成と、鈴村喜助は確実に犬猿の仲だ)


ポジティブに捉えれば、そこだけは収穫があったとしていいだろう。

……気疲れが尋常じゃないが。


(早く帰りたい)


退場していく観客を眺め、千影はそれだけを願う。


が、その出入り口に彼女はヤツらの姿を見つけてしまった。



地を這い、闇を纏い、人の憎悪の化身となった悲しいケモノ。


(なんだって、こんな時にっ!)


これはおかしい。

何故、光を避ける悪霊がシャンデリアの煌めきをものとせず、こちらに寄ってくる?


千影は立ち上がり、壱成が向かったと思われる手洗いへ向かう。

彼に守っていただかなければ、いまの非力な彼女は喰われる運命だ。


(男の便所に入っていくことになるのは、勘弁してくれよ?)


千影は最悪の状況を想像して、頭を抱えたくなった。

そんな情けない姿を壱成が晒すことになるとも思えないが、そろそろすれ違ってもいいはず。

耳を澄まして、千影はハッと立ち止まる。


(追って来ない?)


悪霊たちの気配がない。

不審に思った彼女は踵を返し、息を潜めてロビーを覗いた。


そして彼女は目撃する。

挨拶に出てきたと思われる鈴村喜助の足元にできた影に、悪霊たちが吸い込まれてくのを。


(今日は厄日だ)


どう見ても異常。

鈴村音八とその妻も、祓い人の血を継いでいない。喜助が能力を使えることはありえないのだ。


疲れが溜まって熱でも出てしまったのかと、思わず額に手を置いてみたが、いたって健康。

彼女が熱なんて出すのは、大げさに言って盛夏に雪が降るほどの大事件。

誠に残念ながら、今見たものは全て現実の出来事だ。


面倒ごとには首を突っ込まない。


これは彼女が仕事をする上で大切にしているポリシーだ。


(早く迎えに来てください、風間さん)


これほど風間の顔を早く見たいと思ったのは、屋敷に来て以来初めてだ。

壱成なんか置いといて早急に、この場から立ち去りたい。

琴吹には悪いが化粧を落とし、結った髪も下ろし、洋服も脱いで、いつもの和装で茶を飲んで落ち着きたかった。


(それにしても、遅くないか?)


女性のように身だしなみでも整え直しているのかと想像するが、鏡の前で壱成が自分とにらめっこする様子は似合わない。

彼が自分を落ち付けようと、必死に感情を抑えているとは、知る由がなかった。

廊下でぼうっとしているのも不自然なので、安全を確認した彼女は仕方なくロビーに戻る。

夜も更けていくのでロビーにいた観客は少なかったが、喜助が現れたので飛びつくように女性が彼を囲んでいた。

ファンの皆さまに丁寧な対応をし、キャーキャー叫ばれている。

うるさくて堪らないが、嫌な顔をせず千影はそっと喜助を観察する。


色素の薄い肌と髪。元軍人ということもあり、壱成よりかは線が細いが筋肉もある。

優艶な微笑みを常に浮かべ、乙女のハートを鷲掴みにしていく。

そして親はあの鈴村音八。統国大学に通っていたようだし、頭脳明晰のはず。


モテない訳がない。

これは売れるだろうな、と純粋にそう思った。


ぼうっと眺めていると、彼とばちんと音を鳴らして視線がぶつかった気がした。


「ああ! よかった!」


(は——?)


なぜか得体の知れない男が、こちらに向かってくる。


「徳永先輩の隣に座っていらっしゃったお方ですよね」


先ほどまで迫真の演技をしていたにしては、疲れが見えない笑みだ。

そんな喜助の表情は横に置いておこう。


「——うっ」


千影は彼から漂う、ある匂いに吐き気を催し、口に手を当てた。

それは彼女だからわかる匂い。


(人間の血の匂いと、悪霊の匂いだ)


人の血の匂いだけなら嗅ぎ慣れているので我慢できた。

しかし、禍々しく他の匂いなど掻き消してしまうほどインパクトのある、今まで嗅いだことのない匂いが千影を襲った。


「だ、大丈夫ですか?」


——この男はキケンだ。生かしておいてはいけない。


真香の面から、千影が顔を出そうとしているのを、必死に抑える。


「すみません。演技に飲まれてしまったようで……」


「それはいけない。休憩室に行きましょう。あなたに何かあったら、徳永先輩に怒られてしまう」


「いえ。ここで休ませていただければ大丈夫です」


喜助は顔をぐいと、千影に寄せた。

匂いがすぐそこに迫り、彼女にとっては拷問だった。


「やっぱり顔色が悪い。ちょっと失礼」


とても慣れた手つきで、あっという間に体を横抱きにされる。

今まで感じたことのない嫌悪が全身を駆け巡り、声も出ない。

匂いを避けるために口で息をすれば良いのだが、口から舌を通してこの匂いを吸い込むのすら嫌だった。

連れてこられたのは、彼の楽屋。


「はい、水だよ」


そんな気遣いはいらないから、どこかに消えてくれ、なんなら一生目の前に現れないでくれ。と、言葉が口から出そうになるのを水と一緒に飲み込んだ。


「今、他の人に徳永先輩を呼びに行ってもらってるから」


喜助の態度からは、壱成を嫌っているようなは見えない。

壱成が一方的に彼を嫌っているのかもしれない。

先ほどの表情を思い出し、もしかして自分は修羅場を用意してしまったのではないかと気がつく。

壱成には申し訳ないとは思うが、この臭いを漂わせる男から離れられるなら、少しの犠牲も厭わない。


「塚田さんであってるよね?」

「はい」

「何か香水でも使っているの?」

「香水ですか? 匂いが強いものはつけていませんが」

「そっか! なんだかとても甘い匂いがしたから、香水を使っているのかと」


あなたからは、人間にはありえない匂いがします。という意味を込めて千影はかすかに微笑む。


「喜助!」


そこで乱暴に楽屋の扉が開かれる。

壱成が怖い顔をして登場した。

婚約者を心配して「真香!」と叫びながら、登場していただきたかったが、そうはいかなかった。


「徳永先輩! 今日は観に来てくれてありがとうございました!」


ハンカチで口を抑える千影を置いて、ふたりの会話が始まる。


「どうでしたか?」

「……ついこの間まで軍にいた人間ながらあれだけの演技ができるとは驚いた」

「ハハ。なんだか照れちゃいますね。ありがとうございます」

「日頃から練習していたんだろう?」

「そうですね。僕の場合、感情は経験からしか、作れませんから」


千影は目を細めて、喜助の背中を見る。


(それじゃあまるで、自分は人を殺したことがあると告白しているみたいだ)


喜助に染み付いた匂いからして、彼は普通じゃない。

軍人なので人を殺めてしまうこともあるのだろうが、量が多い。

他国の言葉を借りて言うなら、彼はサイコパスだ。

千影には会っただけでわかる。


(そうか。徳永壱成は、鈴村喜助を追ってるのか)


一気に目の前にかかった靄が晴れた気がした。

源一郎のことを考えると、証拠を掴み次第喜助を牢獄送りにし、鈴村家が倒れるのを待っているかもしれない。

婚約破棄の契約は選挙の二週間前。

何か考えあってのことだろう。


食えない会話が交錯し、壱成の表情はより厳しく、喜助は笑顔が増えるばかり。

鼻が曲がりそうな臭いにも、少しばかり慣れてきた。


「なぜここに彼女を」


やっと壱成が千影に視線を飛ばした。


「気分が優れないようだったので、お連れしたのです。先輩がいらっしゃったので、僕の出番はここまでですね」


喜助が手を差し出す。

真香はその手を取らなくてはならないが、千影は触れたくなかった。

琴吹に今日の装いにはレースのグローブはいかが、と言われたのを断っていたのだが、してくれば良かったと後悔した。


「すみません。ご迷惑をおかけしました」

「いえ」


冷たい手に、千影は手を重ねる。

喜助は流れるように、それを持ち上げ、甲にキスを落とす。


「魅力的な方ですね。それは食べてしまいたいくらいに。是非またお会いしましょう」


危ない思考が隠しきれてないぞ、と千影は艶っぽい垂れ目の男に言ってやりたい。

鳥肌がたつ前に肌を硬質化で隠しながら、エスコートされて椅子から立つと、壱成が背後に。


「俺の婚約者が世話になった。これから忙しくなるだろう。休めるときに休んでおけよ」


壱成が喜助から千影を引き離す。

この時ばかりは、彼女もその行動に感激した。

喜助は一瞬目を見張るが、すぐに表情を戻す。


「はい。ご心配ありがとうございます」


壱成に付き添われながら、千影は異臭からやっと解放されるのだった。





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