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これは正しい婚約破棄  作者: 冬瀬
10/44

友人



熱が酷くなる前に手を打ったからか、元から回復力が高いからか。壱成は次の日には体調が戻っていた。よく寝られたので気分はスッキリしている。


「お加減はいかがですか」


起こしに来た風間に万全だと伝えると、微笑まれた。


「真香さまにお礼をお忘れなきよう」

「……そうだな」


彼女が来てから、一ヶ月が過ぎた。

これまでの婚約とは違い、契約を結んだため、あと九ヶ月は一緒に暮らすことにはなるが、不思議とそれが苦だとは思わない。

壱成は寝間着から部屋着に着替えて、朝食に向かう。夜の仕事がはやく終わった日はちゃんと朝決まった時間に起きる。そして茶を飲みながら、新聞を読んで千影を待つのが彼の日課になっている。


今日は朝食をとって準備が出来次第、出向く場所がある。

職場とは正反対の方向にはなるが、壱成は彼に会うためにはそんなことを気にしない。

読んでいた記事の最後に、「吾妻鉄平」という文字を見つけて壱成はやっぱりなと思う。内容と歯切れのいい文章で、なんとなく彼が書いたものではないかと感じていた。



「おはようございます」


張りのある明るい声がかかる。ゆっくり顔をあげれば、千影と視線がぶつかった。

彼女はじっと壱成の顔を見つめる。


「体調は大丈夫そうですね」


彼女にかかれば五感を使い、触れずとも壱成の状態がわかる。


「昨日は手間をかけさせた。礼を言う」

「いえ。大したことはしていませんよ」


千影が椅子に座ると、ふたりは食事を始める。


「今日はこの後予定がある。俺はすぐ家を出るが、君はゆっくりしていてくれ」


壱成はいつもより箸をすすめる手が速い。

千影は盗み聞きした使用人たちの会話から、ある程度彼の予定を把握していたのだが、今日出かけることは知らなかった。

前々から決まっていたことなのかもしれない。


「すみません。そうとは知らず。はやく来るべきでした」


とっくに目を覚まして部屋で柔軟運動を終わらせていた千影。

用事があるなら琴吹に言ってはやく朝食を始めれば、急いで食べる必要もなかったし、先に食べてくれていればよかったのにと疑問に思う。


「気にしなくていい。俺の都合で君の時間を邪魔するのはどうかと思っただけだ」


彼なりの気遣いらしいので、千影は言われた通り気にしないことにした。

壱成は自分が遅れたり、食事をここでとらない場合は必ずその旨を琴吹を通して千影に伝えてくれる。

彼は人に干渉されることが嫌いらしいが、どうやらそれを自分が行うことも避けたいようだ。あからさまに人を避ける訳ではないが、関わり合いに神経質なところがある。

こういう類の人間は自分の縄張りに人を寄せ付けたがらず、絶対に踏み込ませたくない領域を持っている。

それは千影も同じ。

真香としての自分であれば、誰にどれだけ乱されても構わないが、千影に戻ったとき心を開くのは照子くらいだ。





***




閑静な住宅街の一角に、ひっそりと営業している「喫茶店ルノアール」

外壁は煉瓦造で落ち着いたデザイン。看板は小さくあまり目だたない。知る人ぞ知る小さな店である。

壱成はその店の黒い扉を開く。

中に入れば、暗めの照明の中クラッシックが流れて独特な雰囲気が漂っている。目当ての人物はカウンターでコーヒーを啜っていた。


「吾妻」


その男の名を呼べば、彼はパッと顔を上げて壱成を見る。


「徳永〜! 待ってたぜ。婚約オメデトウ」


嬉しそうに微笑み、吾妻鉄平は隣の席をすすめた。壱成は、心にもない祝いの言葉に目を細めながら、マスターにコーヒーを頼んだ。

吾妻は政法新聞社に勤める記者だ。

壱成とは高等学校からの付き合いで、今でもこうして月に一度は顔を合わせる仲である。


「いやー、急な縁談だったな。おれも聞いたときはびっくりしたわ」


どこから情報を集めているのか、この男はときに信じられない程ものをよく知っている。

壱成は吾妻を横目にみて、ひとつため息を吐く。


「今回はうまくやってる。コッチの世界のやつだからな」


「はぁ? どうせ婚約破棄するんだろ? 何が “うまくいってる” だよ……」


「統領戦が始まる前に、婚約を破棄する。俺に問題があることにして、相手に破棄させるつもりだ。向こうを立たせる。契約で軍への支援は続けてもらうことにしているから問題ない」


千影はすでに正太郎との取引きを終えていた。彼には壱成のほうからも連絡を入れてもらい、円満な婚約が進んでいることを偽って、契約のことは伏せている。


病院と薬局に手を回している塚田。新薬開発などの事業でも一役買っている。

その塚田を取り締まる正太郎は、壱成の頼みを受けて軍(特に能力者で編成された特殊部隊)に医療品を割安で提供することを決めたのだが、嫁ぐ娘が千影だと知っている彼からすると損でしかない。

そこで千影が打った一手は、「幻薬」の記録簿の内容を教えるというもの。

頭も冷えたであろう正太郎であれば、それがどれほど重要なものか理解できる。

あそこまで研究が進み、成功例も存在しているのだ。

案の定、正太郎は条件を飲んだ。


あの医者が死んだ後、何かあったときのために千影は離れに記録簿を持ち込むと、それを全て照子に暗記させていた。

そして、記録簿本体は任務の途中で誰にも知られない場所に隠しておいた。

こうすれば、正太郎は照子を簡単に殺すことはできない。

照子には苦労をかけてしまうが、今はこれが最善の手。

詳しい状況がわからないまま、手紙だけで取引きをしたので冷や冷やしたが、なんとかうまくいっていた。


壱成は、真香との契約の裏で千影と正太郎のそんなやり取りがあったことを知るわけもない。


「へー、そんなことになってんの。お嬢さんも話がわかる人でよかったな」


「そうだな。……だが、塚田の娘だ。あまり信用はできない」


テーブルに置かれたコーヒーを持ち上げて、黒い液体に映る自分の顔を静かに見つめた。

吾妻はその様子を黙って見守る。

壱成はカップに口をつけて、芳醇な香りのコーヒーを味わう。どこか哀愁漂う動作だった。


「……お前も難儀なやつだよな」


「自分で選んだことだ。父さんや貴之には迷惑をかけているが、ここで下りる訳にはいかない」


「わかってるさ。“あいつ” を止めるのが、お前のお役目なんだろ? おれだっている。そう気負わずやれよ」


言われなくても壱成は吾妻を頼りにしていた。彼は悪霊祓いの一族で、自分の存在を隠すことができる、密偵に適した能力者だ。彼の仕入れる情報には何度も助けられている。


壱成は目を瞑り、ある人物を脳裏に浮かべる。



吾妻に言われた「あいつ」が月光に照らされた部屋の中、薄い唇で弧を描き、妖艶な微笑みを浮かべている。



ゆっくり瞼を開けて、壱成は味わう間も無くコーヒーを流し込む。

心中を察した吾妻は、マスターに水を頼んだ。


「今は大人しくしてるみたいだが、それがどうにも胡散臭い。用心するに越したことはないが、お前も呑まれるなよ?」

「ああ。確実に仕留める。それまでは身体を縛り付けてでも待つさ」

「えぇー。お前、そういう趣味?」

「喩えただけだろ……」


暗い話の流れに終止符を打ったのは吾妻だった。真面目な性格の壱成に比べて、彼は大雑把で明るい性格だ。こうして喫茶店で会うときは、つい考えすぎる壱成の毒抜きをしてやる。


「ま、何かあればすぐに連絡するわ。それより、婚約の話聞かせろよ」

「さっきの話以外、特に語ることもない。お前だって、俺が言わなくても色々知ってるんだろ?」

「いやー。おれも興味が湧いたから塚田真香について調べたが、いまいち情報がなぁ……」

「掴めないのか?」


この男が調べて掴めない情報となると、相当入手困難な情報だ。壱成は意外なことに目を丸くした。


「箱入り娘ってだけあって、人との関わりが薄い。所詮情報なんて、人から集めるものだからな。元手がなければ、情報なんて入らないさ」


吾妻は両手を天井に向ける。

お手上げという訳だ。


「ま、その中で手に入った情報といえば、2年前の夜会で美麗な坊ちゃんといい感じだったことくらいかな」


壱成は数日前、千影に言われた言葉を思い出す。


「……王子が迎えにくる、か」

「なんだそれ?」


壱成が言うには、全く似合わない言葉だ。

吾妻は耳を疑った。


「どうやら、そいつがいるから俺との婚約破棄はなんてことないらしい」

「ああ……。でもな、徳永。その男はおれが調べたところ、現在消息不明だ」


壱成はハッと息をのむ。

嫌なことを聞いてしまった。

それでは、婚約破棄したあとの彼女が居た堪れない。

彼には関係ない話だが、気の毒である。


「……聞かなかったことにしておく」

「ん。まぁ、それがいいんじゃないか。お前、変なところ正義感強いからな」


協力関係にある彼女が不利になるのは、フェアではないが、人の恋路の世話を焼くほど壱成もお人好しではなかった。


「それより、だ。塚田といえば気になるのは 『影風』だろ! お嬢さんからなにか情報聞き出せないのか?」


吾妻は鼻息荒く、目を輝かせる。

「影風」とは、塚田の守護神とも呼ばれる仕事人だ。

影のように息を潜め、風のようにいつのまにか仕事を終わらせていくことから、裏の世界では有名だった。

吾妻は優れた能力者について調べることが趣味で、暇さえあれば能力者のもとを訪れる。いわゆる祓い人マニアである。


「彼女は戦闘向きじゃない。大事に保護されていたようだから、訊いても知らないと言われるだけだろうな」


「なんだよ〜。そうとは言わず、聞くだけ聞いてくれよ。お前は気にならないのか? 知られているのは、くちばしの面をつけてて、背に刀を背負ってるってことだけなんだぞ? 能力者として気にならない方がおかしいだろ」


説明に熱がこもり始めた吾妻に、壱成は噂の「影風」について考える。

一度、夜の巡回中にそれらしき人物に出くわしたことがあったが、あれは人間にできる次元を優に逸していた。

身体能力の高さは勿論、体の強さ、気配の殺し方、手際の良さ、全てにおいてあそこまで出来る人材は軍にいても滅多にお目にかかれないレベルだった。

一体なんの能力を持っているのか、気にならないといえば嘘になる。

小柄であったが、是非とも特殊部隊に欲しいと壱成も思ったものだ。


その人物がまさかまだ二十歳の女性で、今自分の婚約者を演じているなど、与り知らない。


「影風がいれば、お前の仕事も楽になるんじゃねーの?」


「それは有り得ないな。塚田の犬だぞ?」


「わかんねーぞ? もしかしたらやり方次第では味方に付くかもしれない。塚田を警戒するのはわかるが、鈴村とはビジネスパートナーってだけだ。なんなら、塚田を見張らせれば儲けもんだろ」


「そんなうまい話があるかよ……」


能天気な考えに壱成は呆れるが、それができたらどんなに動きやすくなることか、と想像した。

彼女に訊いてみるだけの価値はあるかもしれない。


「そういや徳永、鈴村音八の自伝は読んだか?」


壱成は頷く。

“あいつ” を知るには、読むことは必須だとわかっていた。


何せ彼がマークしている人物は、鈴村喜助。


現在盛岡源一郎と政権を争っている、鈴村音八のひとり息子なのだから。


「あれを読む限り、喜助は普通に育ったんだろうな。どこで道を間違えたんだか……」


「いや。鈴村家自体が特殊だ。戦争で成り上がったことに、味を占めてる。あれは危ない——」


禁断の果実を口にしてしまった一家だ。

一度それを食べてしまえば、一生その甘美な味わいを忘れることはできない。


ふたりはそれ以上「彼」の話をしなかった。

昼食を頼み、他愛もない話を交わす。

吾妻は集めた面白いネタを披露し、壱成は表情豊かにそれを聞いた。

屋敷でもなかなか見せない笑みを浮かべる彼は、別人のようだが正真正銘本人である。

誤解されがちだが、徳永壱成という男は人情溢れる性格タチだ。

生半可な人間関係を嫌い、人によって関わり方が異なるのは、彼の優しさ故である。



「気をつけろよ、壱成」

「お前もな。鉄平」


別れの時間だ。

男たちは拳を突き合わせる。


すでに事は動き始めていた。






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