彼女は笑い、復讐し、嘲笑う。
弓野梓は、その日、大学の卒業式があった。高校の時ほどのセンチメンタルはなかったけれど、式が終わった後にサークルの部室に顔を出したら、後輩たちが先輩である自分たちを祝うべく集まってくれていたのは嬉しかった。
梓はイラストサークルに所属していた。版権物からオリジナルまで、自由に描いてサークル内で発表し合い、大学の文化祭や学外のスペースで展示をする、というのが主な活動内容だ。部室でただ雑談をしたり、ボードゲームやトランプに勤しんだり、ということもあったけれど、梓がサークルの代表になってからは本筋の活動に力をいれるようになり、サークルは目に見えた実績を出すようになった。
梓は後輩たちから慕われ、同級生たちからも一目置かれる存在だった。梓の方も自身を好いてくれる彼らのことを愛おしく思い、卒業して彼らと別れてしまうのが寂しかった。
それでも、充実した学生生活を送った背景もあって、社会人となるこれからに対しても希望に満ち溢れていた。
梓は幸せだった。
サークルのメンバーたちと最後の飲み会を楽しみ、その余韻と幸福感の中で、一人暮らしのアパートに帰ってきた梓は眠りに落ちた。
「こんばんは、弓野梓さん」
不意に朗らかな声で挨拶をされて、目を開けると、そこは梓が眠っていたベッドの上でも、それどころか梓の部屋ですらなく、真っ暗な空間だった。
パジャマ姿はそのままに、真っ暗な空間で梓は立っていた。
先ほどの声の主も、梓の前に立っていた。
真っ黒なシルクハットにスーツ姿で背が高い。首にかかるくらいの長さの金髪の毛先は外へと広がり、シルクハットの下からは美しい女性の顔が覗いている。
「こんばんは、弓野梓さん。私の名はブルー・レディという」
ブルー・レディと名乗った女性は、その名に反した真っ赤な瞳を細めて微笑んだ。
梓はこの訳の分からない状況に対して、即座にこれは夢であると判断した。彼女の行動の最後の記憶がベッドで眠りについたことであり、また、異様な空間で見知らぬ女性から挨拶されるという荒唐無稽さはあまりに現実的でない。
「その通り。これは夢だ。夢だけではない、とも言えるけれど。ただの夢にしては君の意識がはっきりしているだろう、弓野梓さん?」
ブルー・レディの言う通りだった。梓がこれは夢であると判断したのは、現実的でないという以上に現実であって欲しくないという願いによるものでもあった。
ただ、夢と切り捨てるには、起きている時のように意識がはっきりしている。レム睡眠とノンレム睡眠。身体を休めている間にも脳が動いている時に、人は夢を見る。脳が勝手に動いて勝手に見せるまやかし、それが夢だ。
曖昧で、起きた時にはほとんど記憶にも残らない夢の中にしては、あまりに自分の意識とブルー・レディという謎の存在がはっきりとしてるのだった。
「まやかしのように脆くはあるが、夢も一つの世界だ。私のような者ならば、このように介入することも可能なんだよ」
「介入って、何ですか? あなたは何なんですか?」
「『誰』ではなく『何』と訊くあたり、薄々勘づいているのではないかな? 私は人ではない何かだ。この度は君に用があって、こうして君の夢の中にやって来たのさ」
「…………」
「そう怖がるなよ。まず断言しておくが、私は君を殺しに来た訳じゃない。私みたいな小物はそんな大それたことはできない」
梓は考えていた。
ブルー・レディという存在を最早認めるしかないとして、彼女は一体何者で、何をしに梓の前に現れたのか。
殺されるところまでは想像していなかったけれど、何らかの危害を加えられる可能性は確かに考えられた。ただ、彼女自身が最悪の可能性を否定している。
「それなら、何をしに来たの?」
「……くくっ、殺しはしない。だが、危害を加えないとは言っていない。私は復讐をしに来たんだよ」
ブルー・レディは口を三日月の形にパックリと割るようにして笑った。
「弓野梓さん。君に恨みを持つ者たちに代わって、君に復讐をしに来たのさ」
復讐。恨み。
梓はそれを聞いて、俄かに何を言っているのかがわからなかった。
「何を言っているのかわからない、とでも言いたげな顔をしているけれど、本当か。まさか自分が誰からも恨みを買っていない、聖人君子だとでも思っていたのかい?」
「いえ、そんなことは、ない、けど」
「本当に? 言ってるだけじゃないのか? 誰からどんな恨みを買っているのか、本当にわかっている?」
梓は責められていた。いや、責められているように感じていた。
ブルー・レディの言う通り、梓は誰からどんな恨みを受けているか、本当はわからなかったからだ。
どうして、私がこんな目に遭わなければならないの。
「原因そのものに問いかけて現実逃避しようとしたって、無駄だよ。私に復讐される今が全てなのさ」
「……。私が、私が何をしたっていうの」
「……くくっ。そうか。わからないか。良いだろう、私が教えてやる。私にとっても無駄な行程ではないしな」
ブルー・レディはスーツの内ポケットからタバコとライターを取り出し、火をつけた。
煙は出ているが、タバコの臭いはしない。
「弓野梓さん、君は大学のサークルで充実した日々を過ごしていたらしいじゃないか。同級生や後輩、仲間たちと切磋琢磨して、実績も出して、みんなから慕われていたそうだな。それこそ、履歴書にも書けそうな素晴らしいことだ。…………ただ、先輩はどうした?」
「……っ」
「先輩たちからはどう思われているんだろうな。君にとって都合の悪かった先輩たちは、君のことをどう思うんだろうな」
「…………」
「先輩たちは部室で遊んだり雑談したり、お世辞にも真面目な活動をしていたとは言えなかった。何もしていなかったほどでもないんだけどな、半端にやるべきことをやっている分むしろ厄介だった。先輩であること以上に注意しづらかった。真面目に活動したい君にとっては邪魔でしょうがないのに」
タバコの煙を吹かしながら淡々と話すブルー・レディに対して、梓の顔色はみるみる悪くなっていく。
「ある時、飲み会の席である先輩がお酒で失敗をしてしまう。乱暴を働いたって訳ではないが、吐いて店を汚して弁償だ。アレって割とお金がかかるんだよな」
喉の奥を鳴らすようにして、ブルー・レディは笑っていた。笑っているのは彼女だけだった。
「その場は金銭で収められるが、失敗は失敗。しかも、その先輩はサークルでも役職持ちだった人間。責任を問わねばならない、延いてはその場にいた先輩たちほぼ全員が責任を取るべきだと訴えた人間がいた。……それが君だ」
梓は沈黙を続ける。
「先輩たちは負い目もあって従わざるを得なかった。そうして、先輩たちに早めの退場をしていただき、君はサークルの実権を手に入れた。それからの君と愉快な仲間たちは目覚ましい活躍を見せた。正義は君にあり。結果も残して、絆を築き、誰からも文句を言われまいよ」
ブルー・レディはタバコを吐き捨て、落ちたタバコの火を革靴で踏み付けて消した。
「しかし、君のやり方は些か乱暴だったね。先輩たちも君の目論見には気づいていたよ。負い目から従わざるを得なかったとは言え、その負い目とサークルを出て行くこととはまた別の問題だ。恨みもするだろうさ」
シニカルな笑みを向けられて、梓はたまらず声を上げる。
「でも、でも、私が悪い訳じゃないでしょう! 私がどういう風に思っていたにしても結果は変わらない。私は何も悪いことをしてない!」
「そうだね。その通りだ。先輩たちは彼らは彼らなりにサークル内の人間関係を良くしようと努めていた事実を君が無視していようが、関係ない、君は何も悪くない」
「そんなの、意味がない、だって、」
「まあ、そんなことはどうでも良いんだ。私にとっては、本当どうでも良い。誰の味方をするつもりも、誰を糾弾するつもりもない。君たちのイザコザなんて、私は知ったこっちゃないのさ。復讐者の私にとって大事なのは、誰が誰に対してどんな恨みを持っているのか、だ」
梓は何も言えなくなった。目の前の存在に必死に自分の正当性を訴えても、何の意味もないことを察したからだ。
それよりも、これから自分の身に何が起こるのかが恐ろしかった。
ブルー・レディと名乗るこの存在は、人間のような姿形をしているが、人間以外の何かに違いない。梓に向ける視線に全く感情がこもっていないーー人が人に向けるようなものでは全くなかった。
さてと。ブルー・レディは脱力した声音で、
「弓野梓さん。君への恨みについて状況を整理したおかげで、君に相応しい復讐を思いついたよ。君は己の正しさのために、都合の悪いものを無視して切り捨てることができる人間。無視して切り捨てる。君にもそれを被る苦しみを味わってもらおう」
「え」
そして、彼女は宣告する。
「復讐者の名の下に、君の運命を操作する。今後、君は自身の努力や成果の総てを他人から一切評価されなくなる」
どんなに努力してイラストを描いたとしても、同級生や後輩は見向きもしない。
社会人となって、どんなに仕事を頑張っても、成果を出しても、上司や同僚は何も評価しない。
梓のいう正しさは誰にもわかってもらえない。
梓の自己顕示欲は永遠に満たされない。
弓野梓の運命はたった今そのように決められたのである。
「そんな、そんなこと……」
ブルー・レディに言われたことを理解するのに、わずかであるが時間がかかった。
そして、理解はできても受け止めきれない。
どうして、自分が。
どうして、たったそれだけの理由で残酷な復讐をされなければならないのか。
「理由に大きいも小さいもない。そこに恨みさえあれば、私は動く。誰かの恨みを復讐へと昇華し対象に届けるのが私の仕事だ。今夜はこの後も一件つまらん仕事があるのでね、私はそろそろ失礼するよ」
ブルー・レディはそう言い残すと、あっさりと暗闇の空間から姿を消した。復讐をし終えた彼女にとって、梓は最早ただの“終わった”存在でしかない。
梓の目の前は真っ暗になった。この真っ暗な空間はブルー・レディなる異能の存在によるものではなく、梓自身の心象風景でしかなかったのだ。
翌朝、梓はベッドの上で目を覚ました。
何か悪夢を見ていたような気がする。けれど、その内容は思い出せない。
昨日はあんなに楽しくて、心地よく眠ったはずだったなのに、今朝はひどく気分が悪い。
まだ遠大に続く未来が絶望に包まれてしまったような、そんな予感がする。
カーテンから差す朝日が眩しくて、梓は窓から顔を背けた。
※
ブルー・レディが梓に漏らした「つまらん仕事」というのは、恋愛絡みの復讐である。
恨みの主は振られた彼氏で、復讐の対象は彼氏を振った彼女。
あまりに有り触れていて、復讐を生業とするブルー・レディも嫌気がさすほどつまらない復讐だーー梓には「どうでも良い」とは言ったが、その実、ブルー・レディは恨みに至るまでの過程を愉しんでいたのだった。
人の恨みは蜜の味。
しかし、恋愛が絡むと途端に胸焼けがする。
愛憎は簡単に裏返り、その癖広くこの世に広まっているから、流石の彼女でも飽きてくる。
今回の一件もそう。
彼女はある日彼氏に別れたいと告げた。彼氏は浮気もせず彼女に優しく接してくれるが、女慣れをしていないのか積極的なアプローチをかけてこないし、それが付き合ってから一年が経っても変わらなかった。それで次第に愛想が尽きてしまったのである。
別れを告げられた彼氏は落ち込み、打ちのめされ、しばらくの間立ち直れなかった。しかし、悩みは時間が解決することが多い。彼氏は傷ついた心を癒していくうちに、悲しみをもたらすかつての愛情を憎しみへと変えていった。
法律さえなければ殺してしまいたい。むしろ、そんなことに自分の手を煩わせたくないので、勝手に死んで欲しい。
元彼氏はそんな恨みを持つようになったのだ。
そして、実行されない恨みは、ブルー・レディの手によって復讐を果たされることとなる。
勿論ブルー・レディは殺人は犯さない。人の死は死ぬ者だけでなく、多くの人間に影響を与え、無関係の運命にも波紋を広げてしまうからだ。
そのため、ブルー・レディは彼氏の殺意を、彼女に永遠に人から恋愛感情を抱かれない運命を与える復讐に変えた。
そうして、ブルー・レディは復讐という生業を果たしたのだった。
ブルー・レディは人の恨みと復讐を愛でる、人ではない何かだ。
人ではない彼女は、恨みと復讐を愛でるが、その元となる恨みを持つ者たちを、心底軽蔑している。
恨みを持ちながら、それ以上の何かを実行しようとしない。恨みを果たさず、それでいて恨みを忘れて前進することもなく、ただ恨み続けている。
ブルー・レディは、そんな人間たちを心底軽蔑している。
「ま、私のような物の怪は人の善し悪しなんて語れやしないんだがね。それこそ、本当にどうでも良い」
タバコの煙を燻らせて。
嘲り、笑いながら、スーツ姿のレディは暗闇を往く。
ブルー・レディは半永久的に生き続ける、哀れにも思える化け物だ。
お読みいただきありがとうございました。
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