第3話 闘えない(後編) vsモグラ
「上原さん、私に自衛隊の格闘術を教えてください」
次の日、庁内に設けられたジムに現れた仁子が、サンドバッグ相手に汗じみの浮かぶグレーのTシャツ姿でトレーニング中の上原の背中に声をかける。
「はあ~、雑班のインテリお嬢ちゃんが何とち狂ったこと言ってんだ。ヒーローアニメの見過ぎかよ。そんな暇があったらPCに向かって、逃げたモグラのトレースでもしとけ」
声で誰かは認識しているようだが、ビシビシと小気味よいパンチを繰り出す手は止まらない。
「そういうわけにいかないんです!」
普段自信なさげにぼそぼそとしか話さない仁子の決然とした大声に、ここで驚いて振り返る。
「お前、かっ、髪切った!?」
自衛隊員のようにすっくと直立不動の目の前のこいつと、ついこの間救助した背を丸めてなよなよしたお嬢ちゃんの姿が重ならず、上原はしばし目をしばたたかせる。
「どうかお願いします!」
最敬礼後の彼女の思い詰めた表情と真剣な眼差しに気圧されつつも、
「オレらのは相手をぶっ倒す格闘術だ。痴漢対策の護身術とはわけが違う」
握った拳を仁子に突き出す上原。
「私もぶっ倒したい相手がいるんです。教えてください。お願いします!」
「おいおい庁内でケンカ沙汰は御免だぜ。まっ、しゃ~ねえや、わ~ったよ。但し、一度やるからには手加減はしねえし、途中で辞めさせねえからな。明日から当直日を除く終業後、一日おきにここに来い」
「ありがとうございます。ただ、相手はいつ現れるかわからないので、今日から毎日でお願いします!」
上原が口元を緩ませて、回れ右をして駆け足で着替えに向かう仁子の背中に声を掛ける。
「ふっ、大したやる気だ。いいぜ、モグラが出なきゃな」
「右ストレート!ガードが上がったところへ、右から脇腹を蹴り上げろ!そうだ」
あれから一週間、上下ネイビーブルーのタンクトップとショートパンツ姿の仁子が、上原のまとった防具類に小気味よいヒット音を響かせている。
<始めてすぐに運動能力が優れているのには気付いたが、一週間で実戦トレーニングがこなせるようになるなんて、こいつただものじゃねえな>
「でっけえ図体してんだから、手数出すより打撃に体重乗せて確実に当てていけ。相手がひるんだら、止めは思い切って脚を高く上げて反動つけた回し蹴りだ!」
バチ~ン!左腕で防具をかざしていたとは言え、仁子の長い脚が自分の目線の上から側頭部付近にヒットし、上原の身体が大きく傾いだ。
「あっ、大丈夫ですか?」
「ちょっと滑っただけだ。今みたいに自分の身体の大きさや手脚の長さを利用した戦闘スタイルを意識しろ。一旦休憩。汗ふいとけ」
上原に投げ掛けられたタオルで顎や肩から滴る汗を拭いつつ、激しい呼吸の下から絞り出した仁子の問いは余りに意外なものだった。
「あの!自分より大きな相手と闘う時は?例えば2m超えとか‥‥」
「はあ~?誰とタイマン張ろうとしてるか知らねえが、まっ、そんなもん簡単だ」
上原が両腕にはめた防具を脱ぎ捨て仁子に背を向けると、一気にダッシュしてジムの壁を瞬時に駆け上がり、振り向きざまに飛び蹴り技を繰り出して見事に着地した。
「ストリートファイトじゃ、身の回りのもの全てを利用して闘う。見た通りおれは背が低いが、こうやってでっけえ奴らを倒してきた。お前のジャンプ力や俊敏性、そんでもって賢いおつむならやれるはずだ」
「ありがとうございます!」
サムアップを交わし合い、タオルを首に掛けミネラルウォーターのペットボトルを手にする仁子から離れ、洗面所に向かう上原の視界にキャメルゴールドのジャージに身を包んだ飛び切り美人のギャラリーが目に入った。
「ずっと見てたんすか?丘さん」
「あなたがさっきから頭の中に抱いてる疑問に答えてあげるわ」
丘が後ろ手に持っていたタブレット端末を差し出す。
「これは!でも別人でしょ?身体つきが全然違う」
「い~え本人よ。当時は中学一年。それからあらゆる方向によく成長したものね。本人の望むとこだったかは別だけど」
画面には“ナショナル強化メンバー発表、名取初選出”の見出しとともに、真紅のレオタードに身を包み平均台上を前後開脚で華麗に舞い、段違い平行棒を離れ業トカチェフで軽やかに飛び越す体操選手の組み画像が表示されていた。
「どうりで‥‥」
「私とやらせて」
手にしたタブレットを食い入るように見つめていた上原が、丘の一言に呆けたように顔を上げた。
「いやいやあいつと丘さんじゃ身長が15cm以上違う。やつの重い打撃をくらったら吹っ飛びますよ」
丘が不敵な笑みを浮かべる。
「格闘術に体重階級区分なんてあったかしら?私を誰だと思ってるの。小さくても闘い方次第。あの子に今何が欠けているのかを教えてあげるわ」
<この人の眼もあいつと同じだ>
上原の背中に戦慄が走る。しかし、二人が相打つ姿を一目見たいという衝動は止められない。
「これは失礼しました先輩。でもあいつにも本業があるんで、壊さないでやってくださいよ」
丘はすでにセミロングの黒髪を後ろに束ね終え、ジャージのジッパーに手を掛けていた。
「名取、丘さんがお前のスパーリング相手をしてくださるそうだ。今回は5分間一本勝負。教えたことを自分の意志で試してみろ」
ヘッドガードとオープンフィンガーグローブを装着して対峙する仁子と丘。ジャージを脱いだ丘は、ジャージと同じキャメルゴールドのスパッツにブラックのノースリーブTシャツ姿で、グローブをだらりと下げ冷ややかな微笑みを浮かべているようにも見える。
<まともに目も合わせられないくらいいつも憧れてた丘さんとスパーリングだなんて。ここで通用すればモグラにきっと勝てる!>
「よろしくお願いします!」
双方軽くグローブを合わせ試合開始。踏み込もうとする仁子に、丘は2歩下がる。更に踏み込む仁子、回り込む丘。お互いジャブを出しながら緊張感みなぎる間合いが続く。何度目かの体の入れ替えの一瞬、丘のガードが下がったのを見て仁子が顔面にストレートを打ち込み、防御する丘の脇腹が空いた。仁子の左からの蹴りを何とか交わすが大きく態勢を崩した丘、ここで上原に伝授された右回し蹴りを出せば。しかし仁子の選択は右フック。これを身体を落として避けた丘は、滑り込むように仁子の脛にローキック。
「ウッ!」
いわゆる弁慶の泣き所に鋭くヒットした蹴りに思わず声が漏れ、左足が浮き上がって仁子の上体が後方へのけぞる。その無防備な懐に丘が身体ごと飛び込んだ。ダ~ン!もんどりうって倒れた仁子に息つく暇も与えず絡みついた丘は、一気に相手の上半身を袈裟に固め、首に回した右腕一本で頸動脈を絞め上げる。
<く、苦しい。このままじゃ負けちゃう>
仁子は絞め技防御に縮めていた首を敢えて後ろにそらせ、頭頂部を支点に背筋を押し上げてブリッジを作り、軽量の丘を体重差を利して跳ね飛ばした。何とか気道を確保した仁子だったが、そのまま起き上がれずガクりと膝をつく。その瞬間、飛ばされながら回転受け身で立ち上がった丘の躊躇ない回し蹴りが側頭部を捉えた。バチン!ジムの天井からこだまが返る。
「それまで!」
咳込みながら頭を抱え蹲った仁子に、防具を外しつつ丘が囁くように語りかける。
「あなたなぜあの時足じゃなくて手を出したの?そう、あなたが対戦するのはサンドバッグや藁人形じゃない、生身の人間。傷つけたくないなんて思ったでしょ。誰と闘うつもりなのか知らないけど、目の前の敵をぶっ殺す!その気持ちのないものに格闘術をする資格はないわ。止めときなさい。闘うのは無理ね」
丘はジャージをひらりと肩にかけ、傍らで唖然として見送る上原に不敵な笑みを投げかけてゆっくりとジムを去っていった。
“止めときなさい。闘うのは無理ね”その夜ベッドに入っても耳にこびりついた丘の言葉が拭えない仁子。
<器械体操でうまくいかなくなったのも、身長や胸のせいじゃなくて、ほんとは闘争心が欠けてたからかも。私やっぱり闘えないのかな‥‥>
高校時代簡単な技を失敗して平均台から落下する姿や、今日丘に蹴り倒される姿が客観的に脳裡に浮かんで、ため息ととともに一筋の涙が頬をつたったその時。コンコンチキチンコンチキチン、聞くものの気持ち次第で物悲しくも響くと言われる祇園囃子が奏でられ、枕元のスマホが煌々と光りだした。起き上がって手にしたディスプレイには狂ったように暴れるモグラが映り、その先には建物のようなものが。位置情報に切り替える。
<大倉山スーパー林道工事の管理事務所。今回の騒動で工事は見合わせてるけど、保安要員が何人か詰めてるはず。危ない!でも私‥‥>
“闘うのは無理ね”、“闘うのは無理ね”脳内をリフレインする丘の囁き声にスマホを放り投げて、布団の上で蹲り頭を抱える。
<この格好、昼間と同じ。丘さんに蹴られた時、もうダメ、止めてって>
コンコンチキチンコンチキチン、祭囃子は鳴りやまない。仁子はしばらくは髪を掻きむしっていたが、やがて決然と顔を上げた。
「一度負けたくらいで無理って誰が決めたの!助けを求める人がいるとかそんなんじゃなくて、私はただ勝ちたい。目の前のあいつを倒す!」
仁子はスマホを拾うと、イチゴ柄のパジャマに包まれた胸をスッと伸ばして通話ボタンを押したのだった。
ドシ~ン、黄色い保安用車両が巨大モグラのタックルで横転する。現場事務所には3人の作業員が取り残されていた。
「車がやられた。このプレハブじゃ、突っ込まれたら一たまりもないぞ!」
「神様、助けて~!」
「こっちに来るぞ。伏せろ!」
ド~ン!ガシャ~ン!衝撃で窓ガラスが粉々に砕け散った5m向うで、モグラが横っ腹を見せて転がっていた。
「何が起こったんだ?」
破れた窓にはりつく作業員たちの目の前には、モグラに飛び蹴りを放って着地したシルバーボディにグリーンのストライプ、オレンジアイ、深紅のショートヘアにはゴールドのティアラ、そして左腕に同色のアームレット。変身~瞬間移動直後の積極的な攻撃が成功して得意げに腰に手を当てる我らがヒロイン仁子が立っているのだが、恐る恐る飛散した窓ガラスの間から顔を出す彼ら3人の網膜に映っていないのは残念な限り。
すぐさま飛び込み前転でモグラの身体の向う側に回った仁子は、起き上がって敵意をむき出しにするモグラを、事務所から離れた場所に引き付ける。
「怪物が背を向けたぞ。今のうちにここを出て退避だ」
作業員が自分たちと反対方向に駆け出していったのを確認して、仁子はこちらに突っ込んでくるモグラをひらりと横に交わし際、頸部に手刀を落とす。モグラと間合い取ったところで今度は全速力で突進し、モグラの鼻先2mで大地に両手を付いて前回対戦時同様ロンダートに入るが、今回は伸身で宙返りしながらこちらへ向きを変えるひねりを利用し、モグラの側頭部に回し蹴りをお見舞いした。バチ~ン!《グエッ》うめき声とともにモグラの動きが一瞬止まる。
<やった!>
しかし、自らの強いキックの反動で着地でふらついた仁子に、昏倒するかと思われたモグラが逆に二足で立ち上がり、前脚の土を掘る鋭い爪を滅茶苦茶に振り回した。ビューン、ビューン!爪が風を切る音が仁子の鼻先を掠め、切り裂かれた真紅のショートヘアの先端がパッと飛び散って夜のしじまをざわつかせる。狂気の爪が次はヒロインの身体に喰い込もうとする寸前、間一髪の連続バク転でかろうじて回避。しかし、3回目の跳びに入ろうとした後方視界に先ほどモグラが横転させた作業車両が目に入る。
<後がないわ>
これ以上後ろに下がれない。モグラはデタラメに前脚を振っているが、無理な二足歩行の前のめりは突進スピードを却って増幅させている。危ない仁子。
“ストリートファイトじゃ、身の回りのもの全てを利用して闘う。おれはこうやってでっけえ奴らを倒してきた”
上原のアドバイスを思い出した仁子は、モグラに背を向けダッシュして横倒しの作業車両の垂直面となった屋根を駆け上り、振り向きざまに渾身のジャンプで猛り狂うモグラの頭頂に、落下加速度が加わって全体重を乗せた右踵を落とした。《ゲゲゲ!》短い叫びを残し、ドサッ!地に伏すモグラ。その傍らに両手を水平に広げひらりと片膝立ちで着地するシルバーボディ。
<私、勝ったんだ!>
立ち上がり激しく肩を上下させる仁子の身体のストライプがイエローに変化した。
<また地中に逃げ出す前に止めを刺さなきゃ>
左の二の腕にとまる蝶に右手を添える仁子。後は仕上げの青き光の球体をイメージするだけだ。
<待って!このモグラは突然変異体で、おそらくこの地球の生き物。殺してしまっていいのかな?でもまた逃がしてしまったら、今度こそ人的被害が出る可能性もあるし‥‥>
かつてのウルトラマンなら透かさず自慢のスペシウム光線を発射して、既に夜空の向うへと飛び去っているであろうこの瞬間、蹲り弱々しい唸り声を発する巨大モグラを前に、戸惑い逡巡する我らがヒロイン仁子。アームレットに触れていた右手が震えながら少しずつ下がっていく。その時暗闇を切り裂くジェットヘリの爆音が響き渡り、サーチライトが眩く現場を行き来し始めた。
「こちら丘、攻撃ヘリ現着。巨大モグラを発見。蹲っていて動きが止まっています」
「SDTU指令室北川だ。また地中に逃亡されては林道開発に支障が出る。丘機はこれを排除せよ!」
コックピットの隣で操縦桿を握る上原と苦い顔を見合わせたのは一瞬だった。
「ナパーム弾投下」
数発の爆弾が上空から降ってくる。咄嗟になす術の思いつかない仁子は側転でモグラから離れる。モグラの周囲に落ちたナパーム弾頭は着弾と同時に高純度の燃焼油をあたりにまき散らしてたちまち発火。ブオ~!猛火がモグラの身体を包み込み炎上させたのだった。
「モグラの焼却排除を確認。帰途につく」
丘が交信スイッチを切ったのを確認して、上原がつぶやく。
「なんで上は、ぶっ殺せ!って命令しないんですかね?その方が現場で手を下すおれらはよっぽど精神衛生がいいんですがね」
丘は表情を消して前を向き、無言を答えとした。
静寂の戻った林間の狭隘地に聞こえるのは噴き上げる火炎の音と、《ク~ン!》断末魔のモグラの叫び声のみ。
<もっと別の解決方法はないのかな?これが異星人が私に与えた役割なの。これが本当に地球を守るってことなの>
“闘えない”悩みを自らのがんばりで克服したばかりのニューヒロインに、新たな命題が容赦なく突きつけられる。燃え盛る炎に包まれ最早動くことのないモグラであった”物体”を前にして、ボディのストライプが危険を示すレッドに変わるのも忘れ、ただ呆然と佇む仁子だった。