第一章 3 ワンマンリバーシブル
[アース、私の声が聞こえるか?]
………なにか耳が痒くなるほどに淡い振動が伝わってくる。それが声なのかただ何かによって起こった音なのか。全く区別が付けられないほど小さな振動だ。
[今更なにをしようっていうんだ?もう全部終わったっていうのに]
……ようやく…声として聞えてきた。穴だらけの言葉に安定しない声の振動。人の声だと認識するのが精一杯でそれがどういう言葉の意味なのかとかそういう解読を出来るほどハッキリとした言葉は聞こえてこない。
[…聞えないのか]
だれか、なにか喋っているのか?
[…私の声が少なからずは聞えるんだな?アース…]
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「アースさん?アースさん!」
俺の名前を呼ぶ声が聞える。最初は小さかったが徐々に大きくなっていって。それはもうハッキリと…
「アース!!」
アースは声に驚き目蓋を開いて体を起こす。どうやら寝ていたみたいだ。かなり行き詰った状況から少しでも解放されたと感じて安心感を覚えたのだろう。
「疲れてたんですか?30分くらい寝てましたよ。」
青年がアースの体を揺さぶりながら声を掛け、起こしてくれた。ミーナはもうこの場にはいなかった。まだ外の景色は明るいな。そういえば俺は何時にこの世界に来たんだろう?ふと時計を探してみるとちゃんと此方の世界にも存在していた。長針は15時を指している。前の世界よりも大体2時間程度ズレているのか。
「色々あったからな」
「それもそうですね…それより此方の紙をどうぞ、一様まとめてきたので良いのがあったら事務所の電話を使ってもらってもかまわないです。基本的に普通に長く働く場がないんですよね、中央王都に来る人間は冒険者ギルドとかを目当てに来る人が多いし、やはりそういう仕事以外とかですと、技術職とかになるんですけど…これも学校卒業して資格とかないと厳しいですし…中央王都は基本警備とか傭兵が物凄く多いので、戦うスキルのないアースさんが出来る仕事はあっても日雇いとかしかなくてそのなかでも良さそうなのをまとめてきたんですが、やはり金額の方は納得のいく額はちょっと難しいかもしれませんねえ」
青年は数枚の紙を渡して丁寧に説明してくれる。
「いやいや、本当にありがとう。助かるよ…あの女の人といい君といい…本当にこの世界の人間は親切に対応してくれるね」
「なんだかそう言われると照れますね。まあでも人の役に立てるのはうれしいですからね」
『お前が…殺したんだぞ…アース』
「え?」
「?…どうしたんですか?」
「…いやなんでもないよ。じゃあちょっとこの住所に行ってみるかな」
「あ、はい。私からも連絡しておきますので」
…変な記憶が瞬間的に脳に映し出された。血塗れの男が両腕を失い、大量出血した血の気の無い女を抱いて涙を流しながら鬼の形相で俺を睨む映像が見えた。どちらの顔も記憶にはない。なのに何故ハッキリと俺の名前を呼んでいる。そういえばいつから俺はアースになった?本当は此方の世界に元々居て、俺がいた前の世界が夢だとでもいうのか。
アースは地面を見つめながら事務所を出て目的地へ向かって何か色んな事を考えながら歩く。
「しまったな」
あの映像の事を考えながら歩いていたら、気付いた時にはもう何処にいるか分からなくなってしまった。アースは再び薄暗い路地に入っていた。人の気配は一切ないが雑音は僅かに聞こえる。ここら一帯が飯屋なのかは分からないが油の臭いが充満して臭い。臭いは仕事もあるし付かない様にしたい、アースは早く抜け出す為に地図を取りだそうとポケットに手を突っ込む。だが地図はなく、体中隈なく探したが恐らく…
「いや、間違いなく巡回屋の事務所に置いてきちゃったな」
アースは仕方なく地図無しで入り組んだパイプの間を潜り抜けて奥へ奥へと進んでいくと静かな民家が並び、真ん中に綺麗な水が流れる水路があった。中心街程豪華な建物ではないが質素でそれがまたいい雰囲気をだしている。連なる木が微風に吹かれ、水路の水が小さく音を出して太陽の光を反射させて町を綺麗に照らす。
人の気配は一切ない…がただ一人、左腕の骨が大きく湾曲していて、そこに『シモス』と書かれているかなり筋肉質な上半身裸の男がいた。
アースは色々な意味で言葉が出ずにその世界を見続けていると男はアースに気付いたようで驚いた顔をしたまま立ちつくしている。まるで俺の存在が疑わしいかのように目を見開いて。アースは何となくそれが気になり、質問した。
「…なにか俺の顔に見覚えでもあるのかな」
男は此方を見続け黙ったまま急に首に手を捩じ込み、流血しだしたらいきなり姿を消す。アースは戸惑いつつも魔法やらなんやらある世界にこういう謎は溢れているのだと無理矢理解釈してとりあえず路地裏を抜けれた事を素直に喜ぶ。
心配する事は無い。この中央王都アラドールは観光客も多いし看板は多くあるはずだ。流石にここら辺の一般住宅街までくるとそういうのはなさそうだが中心へと向かっていけばそのうち人ゴミに出会うだろう。
「しかし綺麗だな…」
人がいないから余計な雑音が出ない為に余計にこの景色がアースの心が洗われる。このなんとも言えない切なさを感じるのは何故だろうか、涙が出そうになる。
ふと緩やかな川を見ると性別不明のフードを被った人影が映っていた。ただ茫然と俺と同じ感性の人間が立っている……そういう訳ではない、明らかに可笑しい…俺と同じく景色に感動しているのならば何故俺のほぼ真後ろに立つ必要がある?それに俺が川伝いにこの人間を見なければ気付けないほどに存在感が薄い。余りにも異様だ。すると人影はアースの肩を掴み、顔を耳まで近付けて囁く。
「教授か?」
…人間の声ではない。
明らかに人が声帯を震わせてできる音ではない。何重にもエコーが掛かり機械音の様な…
「おい…聞いてるんだぜ…キョウジュなのか…そうじゃねえのかよォォ…」
アースの肩に置いていた手は首に移り徐々に力を強めていってるのが分かり、自分が教授じゃないことを伝える為に叫ぶ。
「お、俺は教授じゃない!」
急に首を絞める力が強くなり、本気で殺す気なのだと瞬時に理解した。アースは右肘を大きく振り、フードの人影を殴り払う。人影は大きく後退する。フードの中の顔が黒く塗り潰されていて、人間ではない人型の化け物だという事が分かると、アースは咳をして距離を置くとなるべく人に聞えるように大声で叫ぶ。殺されてしまうかもしれないから。
「教授じゃないっていってるだろ!」
化け物は体を起こすと一切アースの言葉には耳を貸さずに此方に向かって走ってくる。アースは生命の危機を感じて背を向けながら住宅街を走って逃げる。
この都市には溢れるほどいる傭兵や警備隊の耳に届くように、その手に守られる為に…だがアースが助けてくれと叫びながら駆け抜けても誰一人顔を出す物はいない。相変わらず静かなままだ。だが、ここら一帯が廃屋なわけがないのだ…あまりにも整備されていて生活感にあふれている。振り返ってもアースと殆ど同じスピードで追いかけてきている。このまま人に出会わずにアースの体力が尽きたら最悪…いや確実に殺されてしまう。
アースは仕方あるまいと少し大きめのレンガの家の扉のドアノブに手を掛けると鍵は掛かっていなかった。アースはこれをラッキーと思ってそのまま扉を開けて鍵を閉め、中の人に助けを請おうとリビングの扉を開けた。
脳の片隅にもなかった。こんな事。4人家族だったんだろう。誰一人…無事な者はいない。全員が腸を抉られ臓器が晒されている。何者かに盗まれたのか眼球は床にもどこにもない。…通りでここ等一帯に叫んでも反応すらなかったわけだ。
急に腹の底から煮え滾る思いが湧いてくる。たかが『教授』を探す為にこんなこと。
…吐き気がする。この異臭と状況にじゃねえ…あの化け物にだ。こんなの見せつけられて俺がこのまま逃げ続ける訳がないだろ。