第一章 1 yの世界より
プロローグです
『二度と俺の前に姿を見せるなクソ野郎』
淡い日の光がカーテンの隙間から差してくる。季節はまだ夏を過ぎたばかりで、仄かに暖かな気温が起床したばかりの身体に眠気を誘う。あまりの心地よさに再び目蓋を閉じていたかった。それでも眠る気にはなれなかった。心臓の鼓動が速まり、妙な感覚が全身を支配した。殺意の混じったその言葉を聞いてから意識がはっきりした。涙交じり、憎悪に満ちた絶望の叫び。自分が放った言葉ではなく、誰かから俺に放たれた言葉だ。
どんな得体のしれない涙が頬を伝う。悲しいような、悔しいような、やる瀬ないような複雑な感情も同時に抱いている。俺は一体だれなのか、ここが一体どういったところなのか、なにひとつ思い出せない。
暫くすると、僅かながらの記憶がそれとなく頭の中に入ってくる。自分が篠田飛鳥という名前だということ、これから仕事へ向かわなくてはならない事、そして迎えまでの余裕が1時間程ある事も思い出し、無意識ながら支度を進める。
まるで他人が自分を支配しているように勝手に体が動く。そうして呆けたまま支度をしているとあっという間に時間は過ぎた。玄関から出て、古いアパートの二階から一階へ降りるともうトラックは待機していた。
「お~、今日は早いな。飛鳥」
運転席に座る男が助手席の窓を開けてそう言う。それに愛想ない返事をしてぶすくれた顔で助手席に乗ると直ぐにトラックは走り出す。コイツの名前は確か佐野京次だったと思う。変によくしてくれる印象はあったが他の記憶は一切ない。実際元々関わる事があまりなかったからかもしれないが。
「今日は昨日も言った通り回る場所も多いし、2ヶ所は量が多いんだ。午後まで掛かるが、…昨日、お前が午前切り上げで帰ったから結局遠いところも量が少ないのに行かなくちゃならなくなったんだぜ」
まったく昨日の記憶すらもない事に違和感を覚えながら上の空で窓の外を眺めていた。そんな沈黙に俺が苛立っているのかと勘違いをした京次からフォローされる。
「ああ、いや。別に怒ってるわけじゃないぜ?ただもうちょっとなんだから少し頑張って終わらそうとか…」
「…あ、今のかどを左にまがるんじゃないのか?」
「あ~ほら、今日はいい事が起こると思ったら…結局こういう事が起こるんだもんなあ」
京次が話に夢中になっていると目的の工場がある場所に行く事を忘れていたようで通り過ぎてしまう。運悪くそこは一方通行でUタウンはできない。
「どうする?先にDビルに変更するか?あそこは此間も行ったばかりだし量も少ないだろうし」
「そこでいいよ。どのみち午後まで掛かるんだろ?」
飛鳥の意外な回答に京次は目を丸くする。京次は「ああ」とだけ返事を返し、少しスピードを落として目的地のビルへと走った。ビルについてから建物の中に入りさっきまで朝だったのがもう時計の針が13時を指していた。
「…まさか昼まで掛かるとはな、思わなかったよ」
いつもは丁寧に重ねてあった資源の山が重ね過ぎたのか崩れてしまい、結果的にやる仕事量が増えたのだ。
「此間行ったばかりなのにあんな量出るかぁ?普通?しかも整えてくれないし…少しでも整えてくれれば昼まで掛からなかったよ。なんだって今日は遊ばれてる気がするなぁ……まあとりあえず奢るからどっか飯屋いこうや。」
「悪いな、ありがとう。ここ、屋上にしか自販機ないんだっけ?」
「そうだけど、薬局とかスーパーで買ったほうが安いと思うよ」
「いや、気分転換ついでに行ってくるよ」
「そう?じゃあ気分転換してらっしゃい」
飛鳥はそう言ってビルの中に入ってエレベーターを使って屋上へ行く。少し遅めの昼には誰もいなくて気分転換には最適だった。飛鳥は溜め息をついて自販機からお茶を買い、屋上の鉄柵に寄り掛かり下の景色を眺めながらお茶を飲む。
依然記憶は曖昧だ。「やるべき事」を脳ではない、なにか違う意思で動いてるなんとも言えない違和感がある。ふと思うとおかしいくらい何かが違うのにそれを考えた瞬間にそれが正しいものだと勝手に考えされられる。
…いいや、中途半端に夢と現実の境界線を曖昧になっただけか、寝起きの不完全な意識で起こしてしまったんだ、きっと。
そしてお茶を飲み終えて、戻ろうと振り返った瞬間、目の前には自分と同じくらいの歳の女性が飛鳥を見つめ突っ立っている。その女性の手には鋭利な包丁があり、飛鳥が行動せず、あっけにとられている間に女は腹部目掛けて躊躇いなく突き刺してくる。
「…は?」
腹部の違和感に何かが自分の体を伝う感覚が鋭くなり、徐々に痛覚が現れる。女性は刃を抜き、包丁を大きく振って地面に血を払う。
飛鳥は鼓動の音と共に痛みが大きくなって熱い腹部に体が震えるほど冷え、混乱で頭が整理しきれなくなり、小さく唸り声を上げ、そのまま腹を抱えながら膝をつき、地面に倒れ込む。その様子を冷めた目で眺めていた女性は口を開く。
「私の名前、切裂楓っていうんですけど、私の事、知らないですよね。…あれ、なんで私名乗ったんだろう。…私、貴方の顔も素性も名前なんか全然知らないですけど…何故か無性に殺意が湧くんですよ。貴方を見ると殺さなくちゃって…でも別に快楽で殺そうとしている訳じゃないです。純粋に貴方の存在を消したくなるほど嫌悪感があるというか使命感があるというか…」
「クソ…理不尽過ぎるだろ…」
「…」
楓は再び包丁を勢いよく飛鳥の胸の辺りを何度も刺す。既に溢れ切った血は体から離れていく。このままきっと死ぬのだろう。もはやここから誰かが来て助かることなんてない。それに今俺は助かりたいと思ってない。不思議にどこか安心感がある。
本当に不思議な事に同時にまた涙が出てくる。この涙がどんな感情であるかは今の俺には理解できない。だがこの激痛に耐え難く、泣いているわけじゃないって事だけは理解できた。
楓は飛鳥の死に行く顔を見ながら顔に付いた血を拭い満足そうに微笑み、飛鳥はそれを仕方がないと思ってしまえて徐々に意識は薄れていく。そして完全に意識が消える前に何か屋上の扉を開ける音が聞こえた。
弱まり静かになった心臓はやがて鼓動することを止め、篠田飛鳥は死んだのだ。
死の間際俺は何故かこの楓に対して悲しく、やる瀬なく、どこからか湧いてくる『どうして』という問いで埋め尽くされた。多分きっと、俺が朝流した涙と同じ種類の感情の涙。そしてなぜか「こんな世界、滅んでしまえばいい」とさえ思えてしまった。
…
「帰ってきたのか?今更」
佐野京次について→三章1話