7
ピチカが森へ向かっている頃、ヴィンセントはこの国の王の寝室にいた。
国王のルードルフはまだ四十歳だが、少しやつれた様子で寝巻きのまま大きなベッドに腰掛けている。
「一気に体が楽になった。助かった、ヴィンセント」
「いいえ」
実はルードルフは、ここ三日ほどずっと体調が悪かったのだ。熱があるわけではなく、どこかが痛むわけでもないが、体がだるくて起き上がれなかった。
医者に診てもらっても原因不明で、薬を飲んでも良くならず、食欲もなかったため、このままでは徐々に衰弱していってしまうと周りの臣下たちを心配させた。ルードルフの体調が優れない事は周りに伏せられていたが、親しい者たちだけは知っていたのだ。
「最初から医者ではなくヴィンセントを呼ぶべきだったな」
ルードルフは疲れた様子を見せながら、金色の髪をかき上げた。
ヴィンセントは淡々と言う。
「手遅れになる前に、体調不良の原因が魔術である可能性に気づいて私を呼んでくださってよかったです」
「まさか呪いをかけられていたとはな」
呪いも魔術の一つなので、呪いをかけている魔術師よりも強い魔術師ならば、その呪いは解く事ができる。
ルードルフは険しい顔をして言った。
「だが、私は最近信頼できる魔術師以外と接触していないぞ。呪いとは離れていてもかけられるものなのか?」
「魔術師の能力によりますが……優れた魔術師なら、相手の名前と血の一滴、あるいは髪の毛一本あれば、弱いものならかけられます。今回陛下がかけられたものもそれでしょう。どこかで髪の毛を取られたようですね」
「そうだな、血は流していないから可能性があるなら髪か……。最近歳のせいか抜け毛も多いしな」
ルードルフはそこで少しだけ笑みをこぼしたが、すぐに真剣な目つきになって続けた。
「そう言えば四日ほど前、アゼスが執務室に来たな。あいつが私を訪ねて来るのはおかしな事ではないが……その時は少し様子が変だった。どうでもいい世間話をしながらちらちらと下を見ていて、その後、持っていた書類の束を落としていたが――」
ルードルフは腕を組み、そこで目をすがめた。
「――あの時か。わざと書類を落として床に散らかし、落ちていた私の髪を拾ったのかもしれない」
すぐにそう思い至ったという事は、ルードルフは今回の体調不良が呪いによるものだと分かってから、一番にアゼスの事を疑ったのだろう。そうヴィンセントは思った。
アゼスとはルードルフの弟だが、どうも以前から王の座を狙っているようなのだ。結局黒幕がアゼスである証拠は見つけられなかったが、過去にもルードルフは刺客を向けられたり、食事に毒を入れられそうになったりと、二度ほど暗殺の危機に遭っている。
「今回は証拠は掴めそうか?」
「無理ですね」
ヴィンセントは国王にも臆する事なく、無理な事は無理だとはっきり言う。親しい間柄だからこそだ。
ルードルフは稀代の魔術師であるヴィンセントの力を国のために利用する事はあっても、己のために利用した事はない。そして利用する時は「お前の力を貸してほしい」とちゃんと言ってくれる。小細工をしてヴィンセントが力を貸さざるをえない状況を作ったりはしない。そういうところは信用できると思う。
それに人付き合いが下手なヴィンセントを他の貴族たちに紹介してくれる事もあれば、一方でヴィンセントを利用しようと企む権力者たちを上手く追い払ってくれる事もあったりして、ルードルフには色々と世話になっている。
だからヴィンセントはルードルフ派だ。王としての資質もルードルフの方がある。
そしてそう思っているのはヴィンセントだけではない。臣下や国民のほとんどはアゼスに王になってほしいとは思っていない。
ルードルフが死に、アゼスが王位について喜ぶのは本人だけだ。
「三度目ともなると、いい加減どうにかしなければならないな。私を抹殺した後は私の息子も殺そうとするだろうし、そんな事になる前にアゼスを始末しなければ」
ルードルフの目は本気だ。まだ成人していない王子を守るためにも、殺される前に殺すという手段を取る事に決めたらしい。
「全く、嫌になるな。王族というものは兄弟で殺し合いをしなければならないのか」
「歴史を鑑みるに、昔からそうです」
ヴィンセントはルードルフを慰めようとして言った。衣食住が満たされた人間というものは、皆、権力を追い求め始めるものなのかもしれない。
アゼスに限らず、多くの貴族や大商人、聖人の中にすら分不相応な野望を持つものはいる。特にヴィンセントはそういう人間をたくさん見てきた。
彼らは公爵という立場と魔力という力を持つヴィンセントを利用しようと、勝手に寄ってきては自分の側に取り込もうとするからだ。彼らに怒りを覚えたり憎しみを感じたりする事はないが、灯りに集まる蛾のようで鬱陶しいとは思っているし、信頼していた人物にそれをされると少し悲しい気持ちにもなる。
「私が殺しましょうか?」
ヴィンセントは羽虫か何かを殺す話でもしているかのように、気軽に言った。
実際、ヴィンセントにとってはアゼスを殺す事などなんでもない。それほど大変な事ではないし、罪悪感もない。
けれどルードルフにこう言われると、ヴィンセントは心がちくりと痛んだ。
「お前は暗殺者じゃないんだ。進んで手を汚すな。お前にはもう家族もいるのだから。血に濡れた手で新妻に触れるつもりか?」
下を見て、ヴィンセントは自分の手を広げてみた。確かに、誰かの命を奪った手であの純真なピチカに触れるのは躊躇する。彼女まで汚してしまいそうだから。
ルードルフは唇の端を少し持ち上げて兄のように優しくヴィンセントを見てから、話を戻した。
「それに、できればアゼスが私を暗殺しようとしていたという証拠を掴んでから、正当な理由を持って処刑した方がいいだろう。アゼスが急死すれば、私が秘密裏に手を下したのだと予想する臣下や国民もいるかもしれないからな。彼らは私を責めないだろうが、アゼスに同情の余地は残したくない」
ルードルフはそう言うと、「まぁ、証拠を掴む手段は考えておくとしよう。また何かあれば頼む」と声をかけてからヴィンセントを退室させた。
ヴィンセントは部屋を出ると、広い廊下を歩きながらピチカの顔を思い浮かべる。
『こ、こんにちは、ヴィンセント様……! 今回の縁談を受けてくださって、あ、ありがとうございます!』
縁談を承諾した後、結婚の話を進めるためにピチカと顔を合わせた時、彼女は緊張して声が上ずっていた。自分の夫になるかもしれない人間の前だから、ちゃんとしなければと気負っていたのかもしれない。
『あの、私はヴィンセント様より年下なのですが大丈夫でしょうか? 年下の女性は嫌いではありませんか?』
ピチカはヴィンセントの爵位や財産、それに天才魔術師という肩書きより、年の差を一番気にしているようだった。ヴィンセントが「私は年の差は気にならない」と言うと、ホッとしたように笑ったのを覚えている。
その笑顔が、ヴィンセントがピチカに心惹かれた最初だった。
ほんの些細な仕草だったが、純粋にヴィンセントを慕ってくれているのだと分かって嬉しくなったのだ。
実は結婚の話が持ち上がる前にも、ヴィンセントはまだ魔術師として働いていたピチカとたまたま言葉を交わした事があり、その時の印象が良かったので縁談を受けたのだが、やはりその直感は間違っていなかったと思った。
――と、そんな事を思い出しながら、柄にもなくほんの少し笑みをこぼしながら廊下を歩いていると、前からやって来た人物からわざとらしく声をかけられた。
「おや、ヴィンセントではないか!」
その声の主は王弟のアゼスだった。
アゼスはルードルフと同じ金髪で、長さは肩の上まである。自己顕示欲が強いのか、服はいつも豪華で派手なものを身につけている。
歳は三十二歳、どちらかと言うと美形で甘い顔立ちをしていて、歳よりも若く見え、身長はヴィンセントより頭一つ分ほど低い。
そしてこの歳になってもまだ大人になりきれていないような子どもっぽいところがあって、それがいつも言動に滲み出ているとヴィンセントは感じていた。
「こんなところでどうした? 兄上に用でもあったのか?」
「ええ」
ルードルフに呪いをかけたのがこのアゼスの手先の魔術師なら、強制的に呪いが解かれた事にも気づいているはず。もしかして魔術師から連絡を受けて、ルードルフの様子をうかがいに来たのだろうかとヴィンセントは思った。
アゼスは少年のような人懐っこい笑みを浮かべて言う。
「兄上の様子はどうだった? ここ数日、体調が優れないと聞いたが」
「誰からそんな事を? 陛下はお元気でしたが」
「さて、誰から聞いたんだったかな。だが元気でおられるならよかった。母上が亡くなった時に思ったが、人間は突然あっさりと死んでしまうものだからな」
ヴィンセントがじっとアゼスを見ると、アゼスも臆する事なくヴィンセントを見返してきた。
アゼスの瞳から感じる彼の本性は、やはり幼い。三十代にしては若い外見を保っているのは、単に中身が子どもだからだろう。
アゼスは無邪気に笑ってヴィンセントの肩に手を置いた。
「ヴィンセント、お前も賢く生きたほうがいい。自分が従うべき人間は誰なのかよく考える事だ」
ヴィンセントはアゼスから視線を外して窓の外を見た。アゼスの顔を見ていると気分が悪くなるので、ピチカの事を考える事にする。
ズボンを穿いて男の子のような格好をしたピチカも可愛かったなぁと思う。
「前から言っているだろう。私はお前を買っているんだ。私の専属魔術師になれば、後々いい思いができるぞ」
髪を高い位置で縛っていたので、髪が揺れるたびにちらちらと見える白いうなじがまぶしかった。
「お前の望みは何だ? 金か? それとも地位や名誉が欲しいか? 何を与えれば私のために動く?」
男の子のような格好をしていたって、あの可愛さは隠しきれるものではない。変な虫が寄ってこないか心配だ。
ヴィンセントはそう考えてハッとした。
そうだ、今まで悪い人間に危害を加えられたり、獣に襲われたり、森で怪我をする事ばかり心配していたが、一番危惧すべき存在は〝男〟では? と。
「聞いているのか、ヴィンセント」
ピチカは森で兵士たちと一緒に行動するはずだが、基本的に平和な〝王の森〟には、経験豊かな熟練の――つまりピチカを恋愛対象としないくらい年配の――兵士が常駐しているとは思えない。いるのは若い兵士たちではないだろうか。
そう考えて、ヴィンセントは僅かに目を見開いた。こんな重要な事を見落としていた自分に呆れる。ピチカは可愛いし誰にでも優しいから、若い兵士たちは勘違いをして、中には恋心を抱く者も出てくるかもしれない。
恋心を抱くだけなら罪ではないが、なんとなくイラッとする。
というか、ピチカが他の男と一緒にいると思うだけで嫌な気分になってきた。
「用事を思い出したので失礼します」
「おい、ヴィンセント!」
ヴィンセントはそう言って、アゼスの前から去った。ピチカと兵士たちを近づけさせないため、何か対策を考えなければならない。アゼスの相手をしている暇はないのだ。
一人になって廊下の角を曲がり、階段を降りていくと、今度はその先で立っていたノットと出くわした。
「お帰りなさい、隊長」
「私を待っていたのか?」
「ええ。隊長にはたくさん仕事が待っていますからね。執務室に戻らずにふらふら散歩に出られたらたまりませんから」
ノットはそう言って笑顔を作った後、こう続けた。
「陛下の話は何だったんです?」
国王の体調不良を知っている者は僅かで、ノットも知らされていないのだ。
ヴィンセントは歩きながら言った。
「秘密だ。時期が来ればお前にも言う。それより私は忙しい。仕事は後回した」
「忙しい? 秘密なら詳しくは聞きませんけど、陛下から何か任務でも与えられたんですか?」
「陛下は関係ない。ただ、私は気づいたのだ。こうしている今も、ピチィは若い兵士たちと一緒にいるのだという事に」
「なんだ、そっちか」
大した問題ではなさそうだと思ったのか、ノットは気の抜けた声で言う。
「でも、それって独占欲ですか? 隊長、また新しい感情を覚えましたね」
ノットは「順調に人間に近づいていますね」と言って嬉しそうに手を叩いた。
「私は最初から人間だ」
「冗談ですよ。それより、ピチカちゃんに直接言えばどうですか? 心配だから兵士たちとはあまり親しくしないでほしいって」
「そんな事は言えない」
ヴィンセントがそう言うと、ノットは呆れたようにため息をついた。
「またそれですか。素直に自分の気持ちを話せばいいのに」
「話せるわけがない。格好悪いだろう。それにピチィは純粋だし、まだ十七歳なのだ。私の気持ちの全てを知ったら、怯えてしまうかもしれない」
初夜に一緒のベッドで寝ようとしたら、緊張のあまり倒れそうになる子なのだ。結婚してから日に日に大きくなっていくヴィンセントの愛をそのままぶつけたら、怖がられるのではないかと心配になる。
昨日の夜は勝手に寝室に忍び込んで、ピチカを守るためとはいえ魔術を十個はかけてしまったし、陰では「ピチィ」と呼んでいるし、そういう事を知られたらきっと引かれるだろう。
「ピチィは確かに私を慕ってくれているが、きっと彼女の想いより私の想いの方が重い。彼女の想いはもっと爽やかで明るいものだ」
ヴィンセントもあまり重い愛情を持ちたくないと思っているのだが、ピチカがいちいち可愛いので感情を上手く抑えられない。
今日も「お給料が出たらデートをしたい」なんて可愛い事を言うので、ヴィンセントはまた胸を撃ち抜かれたのだ。
「私が彼女を大切に想っているという事は気づいてほしいが、他の男に嫉妬するような、重くて濁った気持ちにまでは気づかれたくない。彼女が純粋な想いを向けてくれるなら、私も純粋な想いを返したいのだ」
そう言ってから、遠い目をして続けた。
「……ピチィの事を考えていたら彼女に会いたくなってきたな。さっきアゼス殿下に出くわしてしまったから、浄化されたい」
「何言ってんですか」
ノットは素早く突っ込んで、ヴィンセントの腕を掴んだ。
「隊長はこれから仕事です。仕事を終わらせてくれないと、ピチカちゃんには会えません」
そうして、問答無用でヴィンセントをずるずると引きずっていったのだった。