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城から戻ると、ピチカはさっそく侍女のレイラに仕事が決まった事を報告した。
「森の監視ですか。迷わないように気をつけてくださいね」
「森に慣れた兵士たちと一緒だから大丈夫よ」
心配そうに言うレイラを、そう言って安心させる。
そして自分の部屋に入ると、明日のための準備に取りかかった。鞄は背負えるタイプのものがいいかな、服は乗馬用のズボンにしようか、などと考えながら。
ちなみに仕事の時間はわりと自由で、何時から始めて何時に終わる、というふうに決められているわけじゃない。アルカンは「とりあえず二ヶ月で森を一通り調べられるようなペースで進めてみろ」とかなり余裕のある予定を立ててくれたので、明日は午前中に森へ行って、午後からは休めるように行動しようと思っている。初日から一日中歩いていたんじゃ、きっと疲れてしまうだろうから。
日が暮れ、夕食の時間になる頃には、明日の準備もすっかり終わっていた。そして今日はヴィンセントが珍しく早く帰ってきたので、一緒に夕食を取る事ができた。
一人で食べる食事は味気なかったけど、今日はいつもよりずっと食事の時間が楽しい。相変わらずヴィンセントと話すのは緊張するので会話はあまり弾まなかったが、それでも嬉しい時間だった。
そして二人で席を立とうとしたところで、ヴィンセントはピチカにこう声をかけてきた。
「ピチカ、少し来てくれ」
「どうされたんです?」
何も言わずに歩き出したヴィンセントの後を慌ててついて行く。ヴィンセントが向かったのは書斎だ。ピチカは入った事がなかったが、扉と窓は開くものの、天上まで届く背の高い本棚が壁を覆っていて、机や長椅子、床の上にも物がごちゃごちゃと散乱していた。
「まぁ、ひどい」
思わず本音が出てしまったが、ヴィンセントは聞いていなかったらしく気にしていない。そして床に落ちていた本や紙くず、何故あるのか分からない何かの動物のミイラなどを足でどけると、そこにスペースを作った。
「何をするつもりですか?」
「ピチカに術をかける」
ヴィンセントは床にさらさらと魔術陣を描きながら言う。自分の魔力を練ったもの――半透明の絵の具のように見える――を指先から出して描く〝魔力記描〟という方法を使っているので、ペンや絵の具を使う時と違って、紙を用意しなくても絨毯は汚れない。術を発動した後、魔力記描で描いた陣は消えてしまうからだ。
「魔力記描……さすがヴィンセント様です」
魔力記描は高等技術で、魔術師みんなができるものではない。むしろできる者の方が少ないのだ。
ピチカはヴィンセントを尊敬しつつ、小首をかしげてこう尋ねた。
「でも、術って何の術です?」
「森に入って、危険な獣や密猟者たちと鉢合わせしてもピチカが怪我をしないように、ピチカを守るための術だ。……さぁ、できた。この上に立ってくれ」
守るためという事は、防御魔術の類だろう。複雑な陣だけど、これを簡単に描いてしまうヴィンセントはやっぱりすごいと思う。
「私のためにわざわざありがとうございます。ここでいいですか?」
「ああ、少しじっとしていてくれ」
ヴィンセントの呪文を合図に、陣がぼうっと光り出す。とても綺麗だ。
陣を構成している円や魔術文字が浮き上がって、一旦バラバラになってからピチカの周りで渦を巻く。そして順番にピチカの体に吸い込まれていった。
ヴィンセントの温かい魔力が自分の中に入って、自分の魔力と溶け合って馴染んでいくのをピチカは感じた。
魔術陣が全て体の中に消えると、ピチカはヴィンセントを見て尋ねた。
「具体的にこれはどういう魔術なんです? 特に変化はないみたいですが……」
てっきりシールド系の術かと思ったが、違うらしい。
ヴィンセントは事もなげに言う。
「ピチカが危険を感じたら相手が爆発する、という術だ。例えば密猟者がピチカを襲って来たら、密猟者が爆発する」
「……ば、ばくはつ?」
「体が粉々になって弾け飛ぶ」
「いえ、爆発の意味は分かっているんですけど……」
律儀に説明してくれるヴィンセントにそう言ってから、顔を青くして続ける。
「あの、ちょっとこれ、ちょっと……怖過ぎませんか? 何も爆発までさせなくても……。それに発動条件がゆる過ぎます。私が危険を感じたらって、例えば勘違いで誰かを危険と感じるかもしれませんし……」
ガタガタ震えながら言うと、ヴィンセントはピチカの怯えっぷりに困った顔をしてこう言った。
「爆発は嫌か? 見せしめにもなるし手っ取り早いんだが」
「い、嫌です! すごく嫌です! これ解いてください! 私は今、自分が恐ろしいです。無差別に人を殺す兵器になったような気分です」
「仕方がない……。まぁよく考えれば、爆発でピチカが汚れるし怪我をするかもしれないな」
ヴィンセントが呪文を唱えると、ピチカの体の前で魔術陣が浮き上がり、蒸発するように消えていった。
「しかし、だったらどうするか。ピチカが危険を感じたら相手が燃えるようにしようか。だが、それも燃え移ったりすればピチカが危ないな」
「物騒な術はやめてくださいっ……! 目の前で人間が燃えたりしたらトラウマになります」
ピチカは半泣きでヴィンセントにすがりついた。ヴィンセントがこんなに心配症だとは思わなかった。
「私は、自分のシールドだけで十分です。本当に心配してくださるのは嬉しいし、上等な術をかけてくださるのは有り難いのですが……」
「分かった、それなら護衛代わりに魔界の獣でも召喚しよう」
「何が『分かった』なんですか!」
何も分かってないじゃないですか。魔界の獣ほど物騒な生き物はいないじゃないですか、とピチカは訴える。
「だいたい、魔界の獣なんて召喚術でも喚び出せないですよ。彼らは人間に従ったりしないんですから」
「そうか? 私は昔、試しに一度呼び出した事があるが、従順だったぞ」
そうだ、ヴィンセントは天才魔術師なのだ。魔力量も半端ではないので、魔界の獣も喚び出せるし従えてしまえるのだろう、とピチカは青ざめる。
「何を呼び出そうか。ケルベロスかブラックドラゴンか……」
「そんな大きな子は連れて歩けませんよぉ!」
誰か夫を止めてほしいと思いながら、ピチカはヴィンセントの腕を引っ張った。ヴィンセントはやっとこちらを見て眉を下げる。
「だが、心配なのだ」
「分かりました、ヴィンセント様が意外と心配症なのは分かりましたから!」
ピチカの事もきっと半分子どもみたいに見えているだろうから、頼りなく弱そうだと思っているに違いない。確かに頼りないし弱いけど、自分の身を守るくらいはできるのに。
早く大人っぽくならなくてはと思いつつ、ピチカはとりあえずシールドを作ってみせた。
「でも、ほら。私だってこれくらいのシールドは張れるんです。密猟者や動物はもちろん、魔術師と戦う事になったって平気ですよ。相手を倒す事はできませんが、私が倒される事もありません」
自分の体を包むように淡く光っているシールドに、ピチカは内側から触れながら言う。
するとヴィンセントも外側からシールドに手のひらを当てた。
「……そうだな、思ったよりちゃんとしたシールドを張れるようだ。これならまぁ、ある程度の攻撃は防げるだろう」
「私、シールドには結構自信あるんですから」
こちらを侮っているようなヴィンセントの言い方に少しだけムッとして、ピチカはそう言い返した。
とはいえ演習でしか戦った事がないので、強力な攻撃を受けた事はないのだが。
「そうか。だが、このシールドは私には全く意味がないが」
ヴィンセントは申し訳なさそうな顔をすると、ピチカのシールドに当てている手に魔力を込めた。
そしてその瞬間――ゆるく風が吹き、シールドはさぁっと消えていってしまう。
二度ほど目をまたたかせて、ピチカは一瞬唖然とした。天才魔術師だとは分かっていたつもりだったが、ピチカもヴィンセントを侮っていたのだ。そこそこ自信のあったシールドをこんなに簡単に消されてしまうとは。
ピチカは一つ咳をし、取り繕って言う。
「と、とにかく……何かあればシールドを張るので大丈夫です。ヴィンセント様レベルの敵と戦うなら意味のないシールドですが、ヴィンセント様ほどの魔術師は他にいませんから」
「まぁそうだが」
なんとか納得してもらって、ピチカはヴィンセントの物騒な防御魔術から逃れる事ができたのだった。
***
ヴィンセントの物騒な防御魔術から逃れられたと思っているのはピチカだけで、ヴィンセントは諦めていなかった。やはりあの脆いシールドだけでは心配だと考えたのだ。
そこで深夜にピチカの寝室にこっそり忍び込むと、ベッドで眠っているピチカに術をかけようとした。
「ん……あれ? ヴィンセント様……?」
しかしそこでピチカが起きてしまったので、ヴィンセントはまず、ピチカを深く眠らせるための術をかけた。
「どうしてここに……? 夢……?」
「そうだ、夢だ。おやすみ、ピチィ」
どさくさに紛れておでこにキスをし、術をかけると、ピチカは再びまぶたを閉じる。彼女が今度はぐっすりと眠っているのを確認し、「さて」と言いながらヴィンセントは真面目な顔をする。
「どんな術をかけようか……。爆発も炎も駄目となると、氷漬けがいいか。いや、いっその事、ピチカに危害を加えようと近づいた者は全員、私の元に転送されてくるようにしようか。そうすれば私が直接手を下せるし、ピチカは目の前で人間が絶命する場面を見なくて済む」
良いアイデアだと自画自賛しながら、魔術を構築していく。ヴィンセントにとっても少し難しい術なので完成までに三十分ほどかかったが、無事にピチカに術をかける事ができた。
「他には何が必要だろうか。案内役の兵士がミスをして森の中で迷う可能性もあるな。そうなった時にすぐに助けに行けるよう、森の中でピチカがどこにいるか位置を把握できる魔術を作ろう」
本当は常にピチカがどこにいるのかを把握したいのだが、ピチカが嫌がるかもしれないので何とか自重し、居場所を探れるのは森の中限定にしておく。
「あとは森で転んで怪我をしないよう、転んだ時に風が起こってクッションになるようにして……他には……」
ややこしく複雑な魔術を次々に構築しながら、ヴィンセントはそれをピチカにかけていく。
眠っている間に難しい魔術を何重にもかけられているとは知らないピチカは、のんきにすやすやと寝息を立てるのだった。