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王弟のアゼスと対峙して、ピチカは冷や汗をかいていた。
こうやって言葉を交わすのは久しぶりだが、相変わらず若いなと思う。確か三十は越えていたはずだが、二十代半ばくらいにしか見えない。
ピチカは視線をさまよわせて周囲を確認した。城の正面入口は人の出入りが多いものの、この裏門はひっそりとしている。つまり偶然知り合いが通りかかって、ピチカのピンチをヴィンセントに伝えてくれる、なんて事はそうそう起こらないという事だ。
「おや? 人違いだったか? 前に晩餐会か何かで挨拶してもらった事があるはずだが、よく顔を覚えていなくてな」
ピチカが固まっているので、アゼスは首を傾げてそう言った。「はい、人違いです」と言って逃げたい気持ちはあったが、そんな嘘をついてもそのうちバレてしまう。
ピチカは慌てて軽く膝を曲げ、礼を取った。
「いえ、私がピチカ・クローリーです、アゼス殿下」
「ああ、やはりそうか。〝正直者〟の娘だな」
ピチカの父親は誠実な人物だが、悪く言えば馬鹿正直で嘘をつけない。それで損をする事も多いが、誰にでも正直であるから、領民や貴族、さらには国王陛下などからの信頼を得る事もできている。
誰かが父の事を「正直者」と呼ぶ時、そこには賞賛が込められている場合と嘲笑が込められている場合がある。
アゼスがどちらの意味で言ったのかは分からなかったが、一応裏のなさそうな笑顔は見せてくれている――
「そして今は天才魔術師の妻で、バルトレイド公爵夫人だ」
――と思ったが、今度は裏のありそうな視線を向けられてしまった。
ピチカはドキドキしながらアゼスの次の言葉を待った。
「ヴィンセントとは仲良くやっているらしいな。そんな噂が私の耳にまで届いてきたよ」
「で、殿下のお耳にまで……」
噂というものは衝撃的なものほど広がりやすいが、こんなに早く王弟の元まで届くとは、『良好な結婚生活を送っているヴィンセント』という噂は、城の皆にとってよっぽど衝撃的なものだったようだ。
アゼスは肩まで伸びた金色の髪をかき上げて笑う。
「ヴィンセントには人を愛する心がないのだと思っていたが、そうでもないのかな?」
「ええ、もちろんそんな事はありません」
ピチカは思わず食い気味に言ってしまった。ヴィンセントに人を愛する心がないなんて、そんな事ありえないのにと思う。これまでの短い結婚生活を振り返っただけでも、そう断言できる。
昨日だって泣いてしまったピチカのわがままをきいてくれて、優しく抱きしめてくれた。
それを思い出すと、ピチカは自分はヴィンセントに愛されているんだと実感できた。ヴィンセントは表情が変わらなかったり言葉少なだったりするので最初は分かり辛かったが、今では自分は大切にされているのだと思っている。
「自信があるようだな。ヴィンセントが君を溺愛しているという噂も真実のようだ」
アゼスは片方の口角を上げて言った。
「溺愛まではいかないと思いますが……」
ピチカはわずかに頬を染めて下を向く。今更ながらそんな噂が回っている事が恥ずかしくなってきた。
しかしアゼスはピチカが照れている事に気づいていない様子で、唐突に話題を変える。スッと真面目な表情になって言う。
「ところで君は、ヴィンセントの両親が何故死んだか知っているか?」
「え……」
「ヴィンセントから聞いていないか?」
急に繊細で暗い話題になったのでピチカは一瞬うろたえたが、アゼスのペースに乗せられないよう、しっかり答える。
「いえ、理由はちゃんと聞いています。ヴィンセント様のご両親の死は、当時も世間で話題になったようですが、ヴィンセント様は結婚前に私や私の両親に改めて経緯を説明してくださったんです」
ヴィンセントの両親が亡くなったのは、今から十年前の事だった。バルトレイド公爵とその夫人の死は衝撃的な話題だったらしいが、その時まだ七歳だったピチカはその事件を覚えていなかった。
それでヴィンセントは一応、結婚前に自分の親がいない理由を改めてピチカに説明してくれたのだ。「これを聞けば私との結婚が嫌になるかもしれないから、届けを出す前に言っておく」と。
「ならば、ヴィンセントの親が誰に殺されたか知っているんだな?」
「はい……。前公爵は夫人に、夫人は前公爵に殺されたと聞きました」
田舎にある別荘に泊まった時、前公爵は眠っている夫人の首を絞めて殺したが、翌朝、前公爵も息絶えていたという。夫人が前公爵の夕食に入れた毒が、時間の経過とともに効いたらしい。
ヴィンセントはすでにその別荘は手放したらしいが、一度くらい花を供えに行きたいとピチカは思っていた。
「そう、彼らは互いに殺し合ったのだ」
アゼスはピチカをじっと見て、真剣な口調で言った。
「何故そこまでの関係になってしまったか分かるか? それは、彼らは互いに自分たちの息子を独り占めしようとしていたからだ」
ピチカも前公爵夫婦が殺し合った理由はヴィンセントから聞いて知っていたが、アゼスの話を止める事ができず、ただ黙って話を聞いた。
「彼らは、魔術を使ってどんな事でもできてしまうヴィンセントを自分の思い通りに操りたいと思っていた。父親も母親も、それぞれ息子を自分の方により懐かせ、その魔力を自分のためだけに利用しようとしたのだ。だがお互いその事に気づいて争いになった。夫婦の仲は元々よくなかったようだが、ヴィンセントを取り合うようになってからはさらに険悪になり、結局お互い相手を暗殺したのだ。悲劇だろう?」
アゼスは大げさな手振りをつけ、必要以上に感情を込めて話す。しかし男性にしては少し高いアゼスの喋り声は聞き取りやすいし、流れるように話すので思わず聞き入ってしまう。
「分かるか、ピチカ? ヴィンセントは若くして公爵という爵位も持っているが、稀代の魔術師でもあるのだ。魔術師としての彼は、千年に一度現れるかどうかという天才だ」
そこでアゼスは声を潜めて、ピチカのすぐ側まで近づいてきた。
緑色の瞳でまっすぐにピチカを見て言う。
「そしてその天才を籠絡して自分のために働かせたいと思う者はたくさんいる。ヴィンセントの実の両親がそう思ったようにな」
アゼスにポンと肩に手を置かれ、緊張していたピチカはびくりと身を震わせた。
「ピチカ、天才の妻となった君はこれから大変な苦労をするだろう。ヴィンセントを巡って誰かが殺し合うような事が、また起きるかもしれない」
ピチカの周りをゆっくり一周歩き、正面に戻ってくると、アゼスは続ける。
「だが、それを回避する方法が一つある」
「何ですか?」
ピチカは思わず尋ねていた。アゼスは間の取り方や声の抑揚の付け方などが上手く、話が上手だ。ピチカのような単純な者はつい乗せられてしまう。
アゼスはピチカを安心させるようにほほ笑んで言う。
「簡単だ。それは雷を回避する方法と似ている。大きな木の下に入ればいいのだ」
「大きな木、ですか……?」
「そうだ。君にもヴィンセントにも、雷から自分を守ってくれる大きな木――大きな存在が必要だ。だが、公爵であるヴィンセントを守れる木なんてそうそうない。そう思うだろう?」
「……ええ」
「ところがだ! そんな存在が目の前にいる」
そこでアゼスは白い歯をきらめかせて笑ったが、次には真面目な顔で続けた。
「王族である私なら君たちを守れる。ヴィンセントを狙う他の貴族や権力者たちの事も、私なら遠ざけられる。私の庇護下にいれば、悪い人間はヴィンセントに近づけない。分かるね?」
「ええ、殿下……」
「私は君たちの力になりたいんだ。ヴィンセントの事は、両親の事件が起きた時から哀れだと気にかけてきたからね。同情していたんだ。だけどヴィンセントはおそらく疑心暗鬼になっていて、彼に手を差し伸べようとしている私の事も信用しない。大変な人生を送ってきたんだから当然だよ。周りには自分を利用しようとする者しか集まってこなかった。そしてそれはこれからも続く」
いつ息継ぎをしているのかと思うほど、アゼスの喋りは流暢だった。
「だから私の力を借りるべきだと、君からヴィンセントを説得してほしい。二人で幸せになりたいのなら、そうするのが一番だ。私なら君たちを守れるし、私しか君たちを守れる人間はいない」
アゼスはピチカの手を握って力強く言った。その勢いに押されて思わず頷きそうになるし、アゼスはヴィンセントを利用しようとしているだけでなく、彼の事を本当に心配して言ってくれている部分も少しはあるのかなとも考えてしまう。それくらい感情のこもった説得力のある喋り方だった。
だけどピチカは頷かなかった。アゼスはやはりヴィンセントを抱き込もうとしているだけのような気がするし、本当にヴィンセントを守る大きな木になるつもりでいるとしても、ピチカは愛する夫の事を木だけに任せる事はしたくないのだ。
「殿下、ありがとうございます。殿下にヴィンセント様や私たち夫婦の事を気にかけていただいて、こんなに有り難い事はございません。ですが……」
ピチカはアゼスから数歩離れると、自分の周りに半球状のシールドを張ってみせた。シールドは淡く光っているので、魔術を使えないであろうアゼスにも見えるはず。
にっこりほほ笑んでピチカは続ける。
「この通り。私は防御が得意なんです。ですからヴィンセント様の事も、まずは妻の私が守ります」
「いや、そういう〝守る〟ではなくて……。シールドではヴィンセントを権力者から守れないだろう」
「大丈夫です」
ピチカは胸を張って言った。
昔、父が言っていた。社交界でははっきり物を言う事がはばかられる時があって、断りたい事でも嫌だとは言えない時がある。こちらからは断れないから、相手からもういいやと去っていってほしいと思う時があると。
そしてそういう困った事態に陥ったら、父はピチカの顔を思い浮かべて、ピチカの話をするんだと言っていた。
『多少強引でもいいから、ところでうちの娘が可愛くて……という愛娘自慢に話を持っていくんだ。そうすると私は話が止まらなくなるから、相手が呆れて去っていくんだよ。ピチカが天使なおかげで父様は助かっているよ~』
果たしてそれで本当に父様を助けられているのだろうかと疑問に思いつつ、ピチカは頬ずりしてくる父を受け入れたものだった。
そして今、ピチカは父の教えを思い出してヴィンセントの姿を思い浮かべる。とても大人っぽく、格好良くて、優しいヴィンセントの事を。
そんな彼の妻になれて本当に幸せだなと思い、ニマニマしながら言う。
「確かにこのシールドでは全てのものからヴィンセント様を守る事はできません。私もまだまだ未熟です。ですが私たちは夫婦ですから、誰かに助けを求める前に、まずは二人で一緒に困難に立ち向かおうと思います。私たちならそれができると思うんです。何故なら私はヴィンセント様の事をとっても愛していますから! それにヴィンセント様も私の事を大切に思ってくださっています。昨日なんてぎゅって抱きしめてもらっちゃいましたし、それに今朝は馬車に乗っている時、私たちずっと手を繋いでいたんです!」
赤くなった頬に手を当てて、うふふと自分の言葉に照れる。
「ヴィンセント様はとても格好良いんです。どこが格好良いか詳しく話すので聞いてくださいますか? まずあの目が魅力的ですよね!」
聞いてやるとも言われていないのに勝手に話し出す。
「深い海のような濃い青色なんです。それに普段はあまり感情が読めないのですが、ふとその青い目を細めてほほ笑まれた時には、もう……っ!」
悶絶しながら続ける。何だか楽しくなってきた。
「あとはあの黒髪も素敵です。いつか触ってみたいなと思っているんです。細かいところを上げれば、手の形とか、長い指とかも好きです。あの骨ばった感じとか、血管がちょっと浮き出てる感じとか。もちろん外見だけじゃなくて内面も好きです。ヴィンセント様はとても優しいんです。実は縁談が決まる前から私はヴィンセント様の事を気になっていて、何故かと言うと私が困っている時に助けていただいた事があって、ヴィンセント様は覚えているか分かりませんが私はそれで優しい人だなぁと心動かされて、その後父からヴィンセント様との縁談の話を持ってこられた時は驚きました。でも私はもちろん前向きに考えて……」
アゼスがぽかんと口を開けているのに気づいて、ピチカは慌てて話をまとめようとした。なかなか思い切り他人にのろけられる機会なんてないので、調子に乗って喋りすぎた。
でも上手く話をそらして煙に巻けたと思うので、この辺りで逃げようと考える。
「あ、少しお喋りが過ぎました。申し訳ありません。でもヴィンセント様の事を話すと止まらなくなってしまうんです。私にヴィンセント様の話を振るとこうなると覚悟してくださいませ、殿下」
にこっと笑って、相手に言葉を挟む隙を与えずすぐに続ける。
「それでは私はこの辺りで失礼させていただきます。よろしければまたヴィンセント様との話を聞いてくださいね」
アゼスが『何だこいつは』という顔をして困惑している間に、ピチカはシールドを消してそそくさと馬車の方に向かい、無事にその場から逃げ出す事ができた。
「急いで馬車を出して」
御者にそう頼み、馬車が動き出すと、ピチカはホッと息を吐いて背もたれに体を預ける。
(父様のおかげで上手くいったわ)
やんわりアゼスの庇護下に入るつもりはないと伝えつつも、アゼスが機嫌を損ねる前に怒涛の『ヴィンセント様語り』をしてごまかす事ができた。
アゼスはきっとピチカに呆れたと思うし、面倒な奴だと思ったに違いないので、ピチカを懐柔しようとするのも諦めてくれたかもしれない。
(もし諦めてなくても、またヴィンセント様の事を語ればいいわ)
ピチカはそう考えると、仕事のために〝王の森〟へ向かったのだった。




