アルマンティは訪れない
少女が行く帰り道は、昨日から変化のない閑散加減。
昨日と今日とで変わったことは、此処には何ひとつない。
時が止まっているような道は、制服に身を包んだ彼女だけの舞台と化していた。
髪とスカートを風と歩数で揺らしながら、オレンジに染まったコンクリートを進んでいく。歩幅をわざと小さくしたり、ジャンプのように大きく踏み出してみたり。手を思い切り空へ伸ばしてみたり、ラジオ体操のように大袈裟に戻してみたり。踵をあげて踊り子のように回転をしようとつま先に力を込めた矢先、羞恥心に負けて踵を下ろしたり。
誰も見ていないのに何が恥ずかしいんだかと苦笑を零す。その中でも変わらず歩みを進め、時の止まった道へ風を起こしていった。
途中、度々立ち止まっては両手を広げ勢いよく空を切る。両指の先に広がるシャッターや家の光景をすべて感じ取れたらなと。
掻き集めた先で出会った手を強く叩き、集めた空気を努力空しく潰し消す。予想より大きく鳴った結果に周囲への申し訳なさが半分、喜び半分。指の間から漏れ出たそれらを恋しがることも悔やむこともなく、別れさせて歩きだす。埃を払うように、飛ぶ練習をするようにぱたぱたと手を払いながら。
両の手を大きく振って、変化のない道に己という存在で変化を起こしながら進んでいく。彼女のスピードに合わせて流れ行く看板に浮かぶ文字は、相も変わらず自社のすばらしさや自由や平和を歌っていた。それを彩る色は月日を越えれば劣化してくのだろうが、数日で生まれる差異など人間の目では理解しようがない。
シャッターが下りたままのCDショップの横を通る。ちらりと錆びたそれを見やれば、一種の芸術とも言えるスプレーの叫びが脳に届いた。けれど英語であろう言葉の意味までは届かず、デザインとして処理され終う。
そんな光景にも初めて出会ったわけではないから、刺激物には成り得ない。本当に面白くない道だと彼女の口から洩れるため息。こうなったら自給自足だ、少しでも彩ろうと足に力を込めた時。
季節外れのアイスクリーム屋の前で、にゃおという猫の声。
初めての変化に過剰反応する彼女の身体は大きな動作でそちらを向く。
右斜め前、正確に言えば三軒先にある老婆が営むアイスクリーム屋。
店番よろしく鎮座している飼い猫が、目の前の男へ鳴いていた。
猫から男へ視線を向ける。男も、彼女をじっと見つめていた。
黒猫に負けず劣らずの真っ黒な風貌だった。
長い前髪から覗く小さな目は、羽を休めて人を見下ろすカラスを連想させる。その目は遠慮なしに停止信号を光らせていた。
独自のリズムを遠慮なしに刻んでいた足を止め、男を見つめる。変わらずに黙している視線を受けながら。
黒い風貌、鋭い目。異質な姿に脳は警戒せよと叫んでいる。逃げ出せと指令を送る。
けれど、足は動かない。
視線だって、外せない。
過剰な刺激物が、熟れた日々を溶かしていく。
単調な日々、それを刻む生活リズム、変化を許さない制服、制限されたバックチャーム、変化のないお弁当、毎日潜り込む甘ったるい卵焼き、何度見てもダサいと思うスカート丈、どんなに汚しても翌日には綺麗であることを求められるローファー、決められた曜日に決められた教科書とノートを詰め込むスクールバック、昨日と今日とで何ら変わりのない帰り道、変わらない日々を歌う文字の羅列、それを彩る劣化速度が遅く変化がないに等しい色彩、横を流れる変化のない屋根の色と家の並び、シャッターに踊る増えることのないスプレーアート。
そんな日々とは違う存在。リズムを溶かす存在が目の前に在る。
初めて感じた違和感。変化をもたらした違和感。
それが、なんだかとてもいとおしくて。
頭の奥が溶け広がる。
警鐘が、賛美歌へと変わっていく。
この日常を壊すためにやってきた神さまなのだと、叫びだす。
神さまはそれに気づいたのだろうか。ほんの少し笑んで、彼女から視線を外さないままに真っ黒な袖口から鈍色の光を取り出した。赤い日を浴びて輝きを増すそれに、猫は驚き威嚇した。
きっと、後光が眩しすぎて驚いたのだ。向かってくる彼から距離をとることもなく、彼女はそんなことを考える。
立ち尽くす少女の身体に伸ばされる青白く骨ばった手は、今まで何人の人を救ってきたのだろう。両の手で光る鈍色は、どれだけの命を天へ召したのだろう。
彼の左手は彼女の背中を、右手は腹を優しく包み込んだ。刹那、抱き寄せる力と初めて感じる光の鋭さに思わず声が漏れてしまう。
正直言って、痛かった。
けれど、その痛みさえいとおしかった。
もっと欲しいと言いたくても、痛みに震える喉では声を生産できない。唯一訴えられる手を伸ばし、神の背に縋りつく。
息を呑む音が耳元で鳴った。人の子がこうして乞うとは思っていなかったのだろうか、光が緩まる。慌てて爪を立て縋り、身を寄せて光を受けた。
制服や素足を這うあたたかなものが、足を、スカートを滴って落ちていく。昨日と変わりのなかった道へ夕日と似た彩を与えた。黒猫の異常に顔を覗かせた老婆が、それを見て悲鳴を上げる。
靄がかる視線を彩へ落とす。感覚が薄れていく手で縋る。周囲の壊れ行く音を耳で、全身で拾う。
そうして、溶け壊れた脳で考える。
あぁ、やっぱりこの人は神さまなのだ。
此処に、刻まれる変化を与えたこの人は、神さまなのだ。
ほめたたえられるべき、存在なのだ。
なのに、いつの間にか現れた周囲の声は叫び声に怒鳴り声。
なぜ、このすばらしさがわからないのだろう。
なぜ、神と私を引き剥がそうとするのだろう。
あぁやめてくれと思っても、腹から流れ出る清らかな彩に喉と腕の力は奪われる。彼女と彼に割り込んだ、大きく硬い手が躍起になる。嫌だ嫌だ離さないでと子どものように縋りついた手も、助けてあげるという正義心で剥がされる。
無数の手が邪魔をする。幾つもの声が彼を非難し少女を心配する。
少女の手が解かれた。男の顔は殴られ、大きな手が離れていく。
光が彼女から抜け落ちる。赤黒い姿を世に晒す。
少女の身体は、解ってくれない人の手に抱き留められて、男の身体は、彩った道に倒される。
大丈夫大丈夫、すぐ救急車が来るからね、可哀想に、まだ若いのに。
無数の声が耳に届いた。誰かの涙が頬を打つ。
なんてことをしてくれたんだ、お前には死刑が妥当だ、あんな若い子に酷いことを。
嘆きと怒りが混じった声が鈍い音と共に響き渡る。あぁやめてと伸ばした手は、勘違いした周囲に握られる。
違う、あの骨ばった手がいい。
あの手で、抱きしめてほしい。
遠くでサイレンの音が聞こえる。お前もおしまいだと彼を罵る声がする。
おしまいで構わないさと狂い笑う声が道に響く。
その声はやはり神々しくて、彼女の耳には心地よくて。
彼を求めて更に伸ばされた手はわからず屋に止められる。
大丈夫、罰せられるよと無意味な言葉が降ってくる。
違う、違う。あなたたちはわかってない。
あそこで笑っている、神さまがいいの。
明日、朝を迎えられないのだとしても。
わたしにとっては、最高の幕引きなの。
声は届かないまま、サイレンは無慈悲に大きくなる。
一般論が、彼女を殺しにやってくる。