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石ころアルケミスト

作者: 朱月

──私、石崎菜花は錬金術師を探しています。



これで何冊目になったのだろう。


B6サイズの日記帳、あの日から書き続けられた日記帳。


一日一ページ、いつの日かそう決めた私の、私自身への約束。


書くことがあるほど実のある生活なんて送っていないはずなのに、日記帳の行数はどうしようもないくらい足りない。


だけど一日一ページ、それを越えてはいけないと私はいつの日か決めた。


最後の一行に私のたった一つの願いを書き記すことと共に、私が決めた日記帳のルールだった。




日記帳を閉じる。


紙と紙が重なり合い、挟まれた空気が吐き出される。


ずっと繰り返してきた事を平凡というのならば、今日もまさしく平凡な一日であったと言えるだろう。


暗い部屋、四畳程度しかなく人の生活すべてを補うには狭すぎると思っていた頃もあった。


今では私にぴったりな、素敵な私室。


机と椅子、その後に布団があり、部屋の隅には衣料品の入ったダンボール。


それだけでもう部屋の中にスペースは残らない。


だけど今日久しぶりに新しい物が増えた。


机の横の壁にある僅かな取っ掛りに、ここから歩いても楽に行き来ができる場所にある名門進学校の制服がハンガーに吊るされてかかっていた。


私の部屋にはあまりにも似合わなさ過ぎて何かの冗談のようだ。


明日からそれを着て生活する自分が想像できない。


あまりにも人並みすぎる。


そして、この制服が可哀想で仕方が無い。


私なんかの物になってしまったら、服として死んでしまうも同じ事だ。


どうして他の人の物にならなかったのと思っても、私に選択権が無いように服にも選択権なんてない。


ああ……、そう考えると私とこの制服は似たモノ同士なのかもしれない。


誰にも必要とされない、誰の目にも留まらない。


だからきっと、私達には石ころ程度の価値も与えられない。


薄い布団に包まれて、私は私を再確認しながら眠りへと入っていった。




──夢の中でなら、私は道端に転がる石ころになることができた。




ずっと繰り返してきた事を平凡というのならば、今日はきっと平凡とは言えない一日になるだろう。


目覚まし時計みたいな物は無く、朝を気づかせてくれる気の利いた日差しをくれる窓もない。


だけど私の瞳は、昨日と同じ……平凡な目覚めを迎えた。


朝食は既に用意されていた。


まだ温かい。


きっと私が目覚める時間を知っていて、それに合わせたのだろう。


まだこんな人が、自分の立場がわかっていないとしか思えない馬鹿な事をする人がいるとは驚いた。


今日という日が、予想していたのと違う場所で平凡とズレた。




入学式。


今の世の中、二回は義務として受けさせられるこの儀式だけど、今回私が受けるのは三回目であり、義務の範囲外の事だ。


使い古された鞄に筆記用具、そしてレポート用紙を入れる。


落ち着かない軽さだけど、鞄にだって軽い体で外にでたくなる時くらいあると思うからちょうどいいかもしれない。


初めて袖を通した制服は中々馴染んでくれずに、体中がチクチクする。


それも二、三日もすれば慣れるだろう。


三年間着続ける事になるのだから、短い我慢だ。


一番小さいサイズだというのに余っている制服の袖は、その三年間のうちにどれくらいその余裕を無くしていくのだろうか。


それともいくら時が経とうとも変わらないのかもしれない。




部屋を出る。


一歩外に出れば丁寧に植えられた芝生の庭が視界一杯に広がる。


ただ一筋、私が敷地の外に出るまでに通る道にだけ植えられてはいなかった。


私が歩く事を許された唯一の道だからだ。


歩数にしておよそ百。


人並み以下の歩幅とは言え、敷地の外に出るまでにそれだけの歩数を必要とする。


恐らく、屋敷にまで行くとしたらその倍はかかってしまうだろう。


私が行く事なんて、ほとんど無いからその辺りの事は割りとどうでもいい。


そして裏門にたどり着く。


正門からの出入りは許可されていないので、日の当たらない……錆びた鉄格子を力いっぱいこじ開けてようやく敷地の外に出ることができる。




ここから先は、私の平凡から逸脱する。




三年間、私の通学路となる道を歩く。


右を向いても、左を向いても日本の生活水準を大きく越えていると思わせる邸宅が建ち並んでいる。


県道でもなんでもないのに道幅は広く、清掃が行き届いていて石ころ一つ見つけるのも一苦労だった。


だから私はこの道が嫌いだった。


石ころさえも存在を許してもらえないこの道の上では、私は消えてしまいそうだったから。


漂白されていく自己意識を糸くずで繋ぎとめながら目的地へと辿り着く。


時間にしておよそ十分。


平凡から抜けるための十分間になると同時に、平凡に戻るための十分間でもあるその時間は私にとって辛いものなのかどうかはわからなかった。


校門には既に何人かの学生。


付属中からのエスカレーターの人、高倍率の入試を勝ち抜いた人、特待生として招かれた人、そして……お金で入った人。


過程は三者三様でも、結果として得られたものは皆同じだった。


だけど……きっと私と同じ人はいないだろう。


大なり小なり夢を抱いてこの学校へとやってきた人達と私を同じにしたら悪いだろう。


願わくば同じ場所に踏み入れる不遜を許して欲しい。


おはよう、と誰かの声が後からかけられる。


頷きだけでそれに応える。


数年間繰り返した唯一の朝の挨拶。


クラス表見に行こうよ、そう言って私の手を握り駆け出す。


葵ちゃんはきっと、この学校でも私を引っ張り続けてくれる、そう思うと……。




廊下側の一番前にある席。


それが私の初期位置だった。


葵ちゃんは真ん中付近。


同じクラスになれただけでもよかった。


同じクラスになりたくなかった人は同じクラスではなかったし悪くはない。


他に顔見知りはいなかった。


それ以前に、私が顔を知っているのはその三人しかいないのだけど。


ただ……なぜか隣の席の男の子が、私からずっと視線をはずさなかった。




最初のホームルーム。


退屈な入学式を終えて、担任との初対面を果たす。


若い、男の教師だ。


この学校で担任を持つにしては若い方に入るだろう。


きっと優秀な、いい先生なのだろう。


クラス割りに担任と、比較的運がいい事が続く。


とりあえず面倒事は起こりそうもない、そう感じた。


だけど男の子の視線は、未だ続いていた。


気がかりな事は今のところそれだけ。


私の事を知っている人?


私は、きっと知らない人。


先生が黒板に自分の名前と簡単な自己紹介をした後、じゃあ名前を呼ぶので返事をしてくれ。出来れば大きくな、と若干私のほうを意識しながら言う。


先生のその言葉に私は急いで返事を用意する。


私は出席番号一番。


つまり最初に呼ばれるからだ。


返事を用意すると同時に石崎菜花、と私の名前が教室内に響き渡る。


男の子の視線が、一際強くなる。


それを横に感じながら用意していた返事を提示する。


教室内が、静まり返った。


悪ふざけはよせ、と先生は言うが別段ふざけているつもりはない。


しばらくの沈黙の後、葵ちゃんのフォローもあって私がふざけているわけではないという事が皆に理解される。


微妙な空気が教室内に広まった。


その空気が完全に消えるのを待たずして、先生と生徒との返事のやり取りが再開される。


男の子の視線は、今は机に向いている。


クラスメイトの名前なんて興味は無かったけど、私を見続ける男の子の名前だけは一応記憶しておこうと思って聞いていた結果、彼の名前は……金本というらしい。


金本……確かに私が知っている、私を知っていてもおかしくない名前だった。


だけど今の私には関係の無い、いや……あまり関わりたくない名前だった。


どうしよう、きっと彼はホームルームが終われば私に声をかけてくる。


私はそれにどう答えたらいいのだろう、全然わからない。


今更私を見つけてもらっても……もう遅いから。




ホームルームが終わり、今日のところは放課後になる。


一瞬でも早く教室を抜け出したかった。


だけど……隣の席というのはどうしようもないくらい近くて、席を立つよりも早く私は呼び止められた。


ナナ……なんだろ、と。


今度は私が机に視線を向ける番だった。


やっぱり……何て答えていいかわからない。


正解は……いいえ、だ。


私の名前を、ナバナを縮めて呼ばれる私はもう……。


だけどそれだけに、私は……はいって答えたかった。


私は何も答える事ができず、暫くの沈黙が続いた。


その沈黙をどう捉えたのか、彼は言った。




「ごめん。これから、絶対取り戻すから」




私は自分でもよくわからない気持ちで帰路についていた。


あの時の言葉は私を真っ白にするだけの重さがあった。


忘れないでいてくれた、消えないでいてくれた私がそこにはいた。


だけど素直に嬉しいと思えなかった。


あいつが、お前が言っていたヤツか、と私に言い放つ帰路を同じくする男が私に嬉しいと思う権利を与えてはくれないからだった。


同じクラスになりたくなくて、願った通り同じクラスにならなかった彼は何を思ったかホームルームが終わってすぐに私を迎えに来た……攫っていったといってもおかしくない強引さで。


クラス割りを見てもしやと思って行ってみれば……まさかそのもしやが当たってるなんてななんて、私の生活をどこまで監視すれば気が済むのだろう。


目的地までの十分がこの上なく長い。


登下校の時間に葵ちゃんはいない。


私にとって何よりも長い十分間には、葵ちゃんも入って来れない。


私が、私の平凡に帰るための十分間だから。




「ああ、今日は正門から入れ。そろそろもう一度、自分というものを再確認しておく必要があるだろ?」




彼の私室。


私の部屋より十倍以上に広いこの部屋には一学生にはふさわしくない贅が尽くされている。


座った瞬間に眠りに落ちそうなソファ。


眠りに落ちたら二度と目覚めそうにないベッド。


彼専用の浴室。

鳴らせば大抵の不満を満たすベル。


私は慣れない部屋の中で、今日のノルマを果たしている。


その様子を彼は見下ろしている。


私がノルマを時間内に果たせない事を期待している目だ。


私のささやかな反抗は、彼のその期待を裏切る事。


時間にして約六時間。


分厚い問題集の空欄がすべて埋まった。


相変わらず馬鹿げた速さだ、と彼は嗤う。


いつもはノルマを終えたら後は日記を書き、眠りにつくだけ。


でも今日はきっと彼から指示が下りる。


今日は特別だ。俺と同じものを食わせてやる、彼はベルを鳴らしながら言う。


数分と待たずして食欲をそそる湯気を大量に伴った料理が部屋に運ばれる。


彼の言葉に違わず二人分、テーブルに並べられる。


朝食は微量で、昼食は食べられない私にとっては、今にでも口に含みたい物ばかりだ。


けど彼はそれを許さない。


今までに何度もこういう事があった。


私の目の前で彼はゆっくりと料理を堪能する。


私が食べる事を許可されるのはそれから。


冷めた料理を、私は五分間だけ口にする事を許される。


もちろん、作法を乱さずに。


幼稚で、そして嫌らしいいじめ方だった。


慣れた今ではどうという事はなかったけど、昔の私は余計なモノを持ちすぎていてそれに耐えられなかった。


だから彼が、今日は特別だって言っただろ?ゆっくり味わえ、そう言った時は私は耳を疑った。


彼はもう食べ始めている。


どういうわけか聞き違いでも何でも無かったようなので、私もゆっくりと料理を口に運んだ。

食べ終わったら、最高と最低が待っているのだから。




そして私は今、最高の時間の中にいる。


その後の最低と帳尻を合わされてしまうけど、私の生活において最高な時間であることには変わりはなかった。


暖かいお湯が私の髪に、床に激しく降り注いでいる。


ママから受け継いだ私の唯一の自慢である長い黒髪を労われる数少ない時間。


高級そうなシャンプーは私の髪によく馴染む。


すり減らされた命が蘇っていくのを感じるほどに。


平均を大きく下回る幼い肢体にはいくつか一生ものの傷跡があるけど、この髪だけは絶対に傷つけられたくない、傷つけさせない。


この髪が私の最後の誇りであり、宝であり、そして砦とも言えた。


その黒髪が広い浴槽の中を泳いでいる。


白く濁ったお湯からはとてもいい匂いを出しており、私の体全体を包み込むようだった。


嫌な現実を忘れさせ、昔を思い出させてくれる……そんな気がする。


ただ、それを提供してくれるのがその嫌な現実の元凶のような人物だというのが不思議な感覚だ。


……失敗した。


この場であの男の事を頭の隅にでも置くべきじゃなかった。


今の時間、この最高の時間の後にある最低な時間を思い出してしまう。


早く違う事を、違う人を頭に置こう。


──絶対取り戻すから


……これも失敗、かな。


今の私に彼を想う資格なんてない。


だって、私は彼の事を……何も覚えていないから。


私は産まれた時から、この現実の中にいた。




名残惜しく浴室から出て脱衣所へと進む。


用意されていたバスタオルで体についた水滴を満遍なく拭き取っていく。


髪に染み込んだ水分を拭き終わり、体中の水分を一手に引き受けたバスタオルは冷たく濡れていた。


今日の役目を終えたバスタオルを籠の中へと置き、もう一枚のバスタオルを体に巻く。


脱いだ服は、既にその場所には無かった。


私の、最低な時間が始まる。


脱衣所から出ると、待ち構えている彼が目に入る。


その瞬間から、私は彼の人形になった。




私が人を取り戻し、自分の部屋に帰ってきた時には既にいつもの就寝時間から三時間が経っていた。


生々しい肉の感覚が未だに私の中を蹂躙し続けており、気分は最低の極みに達している。


布団に入れば一分を待たずに眠りの中に入るのだろうが、その前にするべき事を済まさないと。


日記帳を開いてペンを持つ。


いつも以上の早さで最後の行までたどり着いた私は、ふと引き出しの中にしまわれた大量の日記帳の中でも特に古い、小学生の時の物を取り出す。


私は中学に入学する少し前に記憶を無くした。


この日記帳には私の失われた記憶が書き込まれている。


とはいえ、日記帳一冊に渡って同じフレーズが繰り返されているだけなのだけど。


ある男の子に宛てた私の願い。




――タスケテ




古い日記帳を閉じる。


再び今日の分の日記に意識を持っていき、残された最後の行を埋める。


――私、石崎菜花は錬金術師を探しています。




ハナ、そのシャンプーの匂い……、と葵ちゃんには昨晩の事があっさりと知られる。


中学の頃からあった事なので仕方がないのだけど、その度に心配させるのは心苦しい。


大丈夫、心配しないでとは伝えるけどいまいち私では伝えきれない。


それにあそこでの入浴は何にも変えがたい大切な時間だから。


その代償が代償なだけに葵ちゃんには心配をかけてしまう。


本当に大丈夫、辛いと思える程度の回数はとうに超えているから。


あ、ごめん、ハナ。呼ばれたからちょっと行ってくるね、そう私に断りをいれてから廊下からする呼び声に応えて葵ちゃんが教室の外へと出ていく。


呼んでいたのは、金本君だった。




今日は一日かけて委員会を決めたり、その他諸事の決定や確認に費やされる。


昨日の一件で私の事が知れたおかげで、私に委員会等の役割が当てられる事は無かった。


正直、そういう事をしている時間的、肉体的余裕は少しも無いので助かった。


一日の休みも無く大量のノルマ、あらゆる教科の参考書、専門書を読み、問題集を解かされる。


お陰様で入試で全教科満点を獲得したけど、全く嬉しくない。


元々、いい頭なんて持ってなんかいなかった、むしろどちらかといえば悪い方の頭しか持ってなかった私が大量の知識を詰め込むには、余りにも捨てるものが多すぎた。


記憶も、その中の一つだったのかもしれない。


一時間目が終わる少し前に、すいません。遅れました、と息を切らしながら葵ちゃんが戻ってくる。


あの時呼ばれてから今までずっと話をしていたのだろうか。


私の席の前を通る時に葵ちゃんが一枚の紙を机の上に置いていく。


ごめん、話しちゃった……そう書かれていた。


瞬間、けたたましい足音が廊下に響く。


ダン、ダン、ダンッと廊下を踏み抜きそうなほど強く。


その足音はこの教室を通り抜けたあたりで止まり、代わりに思い切りドアが開かれる音、そして悲鳴へと変わった。


教室の空気が騒然とする。


いち早く駆け出したのは葵ちゃんだった。


私も……嫌な予感がしたのでそれについていく。




結論から言えば──、


その瞬間に、この学校始まって以来最速の停学者が現れた、それだけの事だった。




私の体が床に叩きつけられる。


昨日と同じ、あの男の私室。


あちこち顔が腫れ上がり、いつもの……端から見れば上等のルックスが崩れに崩れていた。


今日の一時間目が終わる直前に起きた暴力事件。


その被害者は彼で、加害者は……。


騒ぎが一通り収まった後、私は彼に引きずられるようにこの部屋へとやってきて、その腹いせを受けている。


あのヤロウ、あのヤロウ、と呪いの言葉を吐くと同時に私の体に鈍痛が走る。


直接的な暴力を受けるのは思い起こせば久々の事だったけど、まだ体が痛みを覚えていてくれて耐えられる事ができていた。


あの人は……金本君は、一体何のためにあんな事をしたのだろう。


葵ちゃんから、私の生活の事を聞いたから?


本当に、大きなお世話だった。


そのせいで私は、今こんな目にあっているのだから。


暫くして、私に痛みを与える事に飽きた彼はベッドに飛び込みなにやら呟いている。


恐らく、報復の方法を考えているのだろう。


彼が本気になれば停学などではなく、退学くらいには簡単にできるはず。


そうしないのは、それ以上の事でなければ収まりがつかないからだろう。


すると突然彼が飛び上がり、そのまま部屋を出て行ってしまう。


取り残された私は、そのまま床にうつぶせになったままでいることにした。


意外にも、立てないくらいの痛みを受けていたようだった。


時間にして十分とちょっと。


彼が戻ってくるなり、再び私を引きずるようにして今度は外へと連れ出す。


逆らう力も無く、私はふらつく足でついていった。




やってきたのは屋敷からそう遠くない空き地。


高級住宅が建ち並ぶこの近辺において全くの死角にあり、人の気配というものが全く無い。


私の体はその中央に投げ出され、その正面に彼が立つ。


何をするの、と尋ねようにも今ここには伝えるのに必要な物がない。


ただ、すぐに来る。待っていろ、という彼の言葉があっただけだった。


その言葉から三十分程度が過ぎた時……もう一人の彼がやってきた。


すぐに私を見つける……その瞬間、殴りつけるためとしか思えない突進を始めた。


それを、待て、の一言と銀色に光る刃物を私に突きつける事で止める。


ああ……それを私に突き刺すのかな、ちょっとそれは……痛いよ。


金本君の怒気を孕んだ声が空き地に響く。


その声が引き金か……握られたナイフが私目掛けて振り下ろされ──、


私の髪を、大きく切り裂いた。


無慈悲な刃は……最後に残った私の、私の全てをざく、ざくと切り裂いていく。


まるで他人事のようだった。


それもそのはずだ……私は、この瞬間に死んだのだから。


あ、あああ、あああああああああああああああああああああああああ──────




「ナナっ!」


糞ヤロウの手によってナナの髪が半分、いやそれ以上の短さでデタラメに切られていく。


それと同時に、大きく目を見開いたナナは、そのまま倒れて動かなくなってしまった。


「落ち着け。死んじゃいねぇよ。ただ、話合いの邪魔だから眠ってもらっただけだ」


話合い?この期に及んで何を言っているんだコイツは。


「なぁ、お前はコイツのために何ができる?」


いきなり、俺の核心をついてくる。


すぐに答えられなかった。


ただ、今しなきゃいけない事はわかりきっていた。


それは目の前の男を思い切りぶん殴る事だ。


「ぐっ……」


しかし真正面から馬鹿正直に繰り出された拳はあっさりとかわされて逆に一発もらってしまう。


「お前に出来るのは、俺を殴る事だけか?なら俺と同じだ、コイツから奪う事しかできねぇよ」


地面に尻餅をつく俺をよそに、ナナを優しく抱き上げ……あろう事か涙を流し始めた。


「そうだ、俺はコイツから奪う事しかできなかった。奪う事でしか繋ぎとめられなかった……」


悔しそうに……一言一言が自らへの呪いのように言葉を吐いていく。


「なぁ、聞いてくれよ。コイツが、ナバナが俺の家に来たときそりゃひどいもんだったんだぜ。お袋はナバナの母親の妹でな、何があったかは知らないがお袋は自分の姉貴の事殺したいほどに憎んでたらしいんだ。ナバナの母親が亡くなって、うちで引き取る事になった時にここぞとばかりにナバナを苛め抜いた。でも俺は、俺だけはナバナに優しくしてやろうってそう思った。……それが俺の初恋だったんだよ、悪いかよ」


昔の自分を悔やむように……時間を遡れたら真っ先に自分を殺しにいきそうな、そんな声で独白を続けていく。


「だけどもう、遅かった。うちに来てから僅か一週間で、見るもの全てが敵に、自分を虐めるヤツに見えるようになってた。俺がどんな事をしても、口にするのは『金本君、助けて!』だけだ」


男の言葉は、俺自身をも傷つけていく。


ナナは、ずっと俺に助けを求めていた。


自分の命が一分一秒単位で危ない中で、俺を求めていた。


幼かったとはいえ、俺は何も出来なかった。


「見たこともないお前を心底憎んだよ。どうあがいても、俺は悪い奴にしかなれなかった。お袋もお袋で、俺がナバナに優しくしようとするのを止めようと俺とナバナを遠ざけた」


俺は、俺は何をしてきたのだろうか。


ナナが引き取られた所がどういう所かは知っていた。


だからそれに負けないように力をつけてきたつもりだった。


現に……国内最高峰に入るあの学校に入ることもできた、停学にはなったけど。


でも、それが一体何になった?


俺は今までやってきた事で、ナナの何を救えるんだ?


「俺がナバナに何かするためには、悪い奴でいる必要があった。何かを与えるために、それ以上のものを奪わなければいけなかった。ナバナが心底大事にしていた髪のケアを与える代わりに、俺は……っ」


振り上げた拳が、ついに下ろされる場所を失った。


コイツは、ずっと苦しんできたのだった。


きっと……俺以上に。


「俺にナバナは守れない。ナバナは俺に守られてくれない。だから、お前に託す」


そして何よりも大きな決心をした。


「俺が……ナナを……」


「今日お前が教室に乗り込んで俺を殴りつけた時、思ったよ。お前なら、何があってもナバナを守ってやれるんじゃないかってな」


最後まで俺は、ナバナを傷つける事しかできなかったが……と自嘲する。


「俺は……」


煮え切らない俺の傍に近づいて、四ケタの文字が書かれた紙と、一枚のカードを渡してきた。


「お前に覚悟があるなら、受け取れ。使わねぇのに親が勝手に入れるから数百万くらいなら入ってる。これをもってこの町から出ろ」


あんまり乱用はするなよ、あくまで初期資金としてだと付け加えながらとても重い、一枚のカードを俺に託した。


「葵から聞いてると思うが、ナバナはお前の事を覚えていない。そして喋る事ができない。それでも全てを捨ててナバナを守り続ける覚悟があるか?」


重い、重すぎる言葉だった。


でもそれを拒絶するのは、俺自身を否定するのと同じだった。


「わかった。絶対、守ってみせる」


だから俺は、覚悟を決めた。


未来永劫……ナナを守ると。










鈍行列車が海岸沿いをゆっくりと走っている。


窓から入り込んでくる空気には潮の香りが混じり、心が沸き立つのを感じる。


「金本君!見て!海だよっ。ねぇ、おうちはここで探そうよ!」


人一倍沸き立っている彼女が窓から身を乗り出しそうなくらい海に見入っている。


「そうだなぁ。ここら辺なら家賃も安そうだし。問題は、働き口があるかどうかなんだけど……」


軍資金の底はまだ遙か遠いが、いつまでもそれに頼っているわけにはいかない。


ナナを守ろうとする、大切な意志がそこにはあったから。




あの後、目を覚ましたナナは再び記憶を失っていた。


その代わりに、言葉と失った記憶を取り戻していた。


目の前にいた俺を見て『わあぁ、大きい金本君だっ』と驚いた声を上げたときは俺のほうが驚いたものだ。


ナナには両親の事故のショックで眠り続けていた、と嘘をついた。


デタラメもいいとこだけど、実質十歳のナナにはそれでも十分通用した。


端から見たら俺達は何に見えるだろう。


ナナは十歳の頃からちっとも成長してないから、兄妹に見えるかもしれないな。


実際は半ば駆け落ちみたいなんだけどな……。


俺達は今、二人で住むところを探して、なるべくあの町から遠いところで家を探していた。


俺の自宅は足がつきそうだから却下。


俺の両親には説得し倒して無理やり許可を得た。


落ち着いたらアイツにもどうにか連絡を取ろう。


きっと今のナナなら、アイツも良い奴になれるだろうから……。




俺は……何があっても、何時まで経っても、ナナを守りたい。


俺の願いは、それだけだ。

とあるチャットのイベントで公開していた小説です。

イベント限定小説にするのもありだったのですが、よりたくさんの人の目に触れて、よりたくさんの意見を聞きたかったのでこちらで改めて公開します。

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[一言] また新しい作品に期待しています。
[一言] 掲示板から飛んできました改札口です。 では早速始めましょう。 文章がいかにもケータイ小説の書き方で、少々見にくかったですが、問題はそこではありません。 空き地のシーンで、女の子の視点からが…
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