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桜がその枝伸ばすのは

作者: 里芽

「ほうら、お前。お前が泳いでいた湖だよ、ご覧」

 黒く塗り潰され、僅かに緑覗かせる化け物じみた木々を抜けた先に広がる湖、その水面に向かって、恋に浮かれる乙女の頬色の花を豊かにつけた黒い枝垂れる桜の木がある。昼はまろやかな空色、今は一面闇に染まり、金銀の長さのちぐはぐな光を幾つも縦に繋いで作った橋がかかり、頭上には星、月、僅かに雲。時によりその色を変える清き水の中を、泳ぐ妖しい者達あり。常人の目には映らぬその姿、人魚、引きずり込んで喰らった人の顔を幾つもその身につける魚、豊かな黒髪のある魚、銀の鱗に覆われた四肢を持つ狼、くるくると回り続ける曼珠沙華を頭につけた白い饅頭に似た生き物……。彼等は特に夜、活発に動き湖をゆめまぼろしの色へと染めるのだ。時々ここを訪れた人間が、夜の闇に全ての境が潰される故にその姿を見てしまうことがある。またキャンプや肝試しを目的に訪れた人間が度々行方不明になる為、この湖に化け物が住んでいるという話が人の世に広まっており、気づけばこの湖の別名は『夢幻湖(むげんこ)』となっていた。今や真の名よりそちらの方が有名な位だ。


 妖しきものは、湖の中のみにいるわけではない。

 触れればすっと溶けて無くなるのではないかと思われるような花びらを一枚、二枚と水面に落とすその木は自ら光を発しているのだった。真雪と乙女の頬と夜空の膜貼りついた薄桃、光の度合いが所々違うから、色も変わる。そしてこの光は、人には見えない。四方へ伸びる枝より湧き、溢れ、溢れ、この世の全てを覆い尽くすが如く豊かな花。

 その姿は美しく、だが一方で人の心をざわつかせどうしようもなく不安にさせる。夜光るその桜は、暗闇の中両手に持った薄桃の着物を被り、無表情のままこちらをただじっと見つめ続ける女の姿を思わせた。この桜に限らず、夜に光に照らされた桜というのはどれもこれも美しく、一方で恐ろしい。桜は、自分の身についていた花が湖に落ちる度、震え、そして人の耳には決して聞こえぬ声で語りかけ続ける。花の妖しさは女を思わせたが、その声は男のものだ。


「なあお前、落ちていくよ。一枚、ほら一枚、落ちていくよ。お前が泳いでいた場所に、落ちていくよ。あれは私であり、今はお前でもある。良かったじゃないか、お前。あれが落ちる度お前は湖に触れられるのだ。ほうら、すうと泳いでいるよ。お前が湖を泳いでいるよ、綺麗だねえ。嗚呼、思い出す。あの湖の中を気持ちよさそうに泳ぎ回るお前の姿をだよ。あそこを泳ぐお前の美しかったこと。なあお前知っているかね、私はお前が泳ぐ姿を見る度言い知れぬ快楽に溺れていた。お前がただ湖の中を泳いでいる、それを見るだけで淫らな思いに濡れたのだよ。お前が湖の水をその身でかき回す度、まるで私はお前に自分の体を滅茶苦茶にかき回されたようになった」

 妖しい者の棲みかである湖、その肌をつううとなぞる花びら。それは確かに美しい乙女が湖を泳いでいるようにも見える。


「でもお前はもう元の姿で泳ぐことは出来ない。泳げるわけがない、そうだろう。だって私が捕えて、殺して、埋めてしまったものね。この私の下に。私が求めるように伸ばした枝をお前が微笑みながら掴んだ時、どれ程嬉しかったか。お前はまさかその枝に捕らわれて殺されるなど思いもよらなかっただろうね。お前は叫んだね、やめて、やめてと。私がお前に恐怖という思いを向けられている、懇願されている、お前に、私が、それがどれだけ喜ばしいことだったか。そして私はお前の命を奪った。この私がだよ。お前が私に貫かれ、血を流し、体を痙攣させ、動かなくなるまでの様子を見ながら私は悦びに乱れ濡れたものだ。そしてお前を土の下に埋めて私のものに、私だけのものにした。お前の体は土の下に、そして魂はこの腕の内に」

 誰にも見ることの出来ぬ木の内にいる男は、一人の女をその腕に抱いている。その女は少し前まで湖を元気よく泳いでいた。だがもう二度と彼女は泳ぐことが出来ない。殺され、肉体を失い、桜に囚われた彼女はもうどこにもいけないのだ。男に強く抱かれた女は逃げることも出来ず、ただ震えている。それを見て男は笑う。

 桜の木が枝につける花の様に豊かな髪は今の湖と同じ色。逆に瞳は昼の、桜の花と花の間から覗く春の空の色をしていた。水に濡れると銀色の月を粉にしたものをつけたように輝く白い肌、何も纏わず露わになっている柔らかな二つの曲線。人の姿をしているのはへその下までで、後は魚そのものだ。金に青に緑に銀に輝く鱗、硝子細工のように脆そうな尾びれは水晶。その姿を男は飽くことなく見つめながらその背を撫でる。


「湖の人魚よ、お前は美しい。そしてその美しさは永遠に続く。我が下に埋まった肉体はやがて醜く腐り、朽ち、骨だけになるだろうが、この腕の内にいるお前はいつまでも美しいままだ。なあお前、私がどれだけ今幸せかお前は知らないだろうね。お前をこうして抱ける幸せを、どう喩えようか。いや何にも喩えることは出来ないだろうね。私が知るものの中に、喩えに使えるものなど一つもありはしないのだ」

 そうして幾度話しかけても、女は答えない。言葉の代わりに出るのは涙ばかりだった。それが桜を、男を濡らすけれど、男は幸せそうに笑むだけだ。涙を拭ってやりもせず、すまなかったの一言もなく、喩えられぬ幸せを強く、強く抱きしめる。


「私を恨むかい、憎むかい。いいよそれでも私は一向に構わない。お前が向けてくれるものなら、何でも良い。愛でも怒りでも悲しみでも憎しみでも。自分にとって都合の良い想いだけ受け取ることの何が愛か。嗚呼また一枚、二枚、落ちていく。お前が湖を泳いでいくよ、一つになった私とお前が行くよ、ご覧。私はただ見ていることしか出来なかったのに、今は一緒にああして泳げるのだ。一つになったからね、お前と私は。いいかい、一つだよ。私はお前でお前は私。お前の全ては私のもの、私の全てはお前のものだ。泣いても喚いても、無駄だ。もうたった一人自分だけであった頃のお前には戻れない。それを私は嬉しく思うよ」

 そして桜は人魚を一層強く抱きしめ、そして赤く熟れた果実のような唇に己の唇を重ねる。桜の枝は花は風も無いのにざわざわと揺れ動き、花びらを幾つも、幾つも湖の上へと落としていった。


「この手を私は決して離さない。離す時はこの私の寿命が尽きる時か、お前が私を殺す時だよ。けれどお前は私を殺す力など持たないから、お前は私が死ぬまでこのままだ。そして私が死んだらお前もまた二度目の死を迎えるのだ。私の死は、お前の死。私とお前は一つだもの。お前は死んだけれど、私が今こうして生きているからお前は半分はまだ生きているのだ。お前は私に命を奪われ、死んでなおこうして生を私に握られている。美しいお前、共にいようね。共にいる限り、私はこうして湖に枝の一つ二つを近づけよう。お前が少しでも湖に近づけるように。一握りの罪悪の為に私はそうしよう」


 桜の木は今日も一部の枝を突き出して、それを湖面へ垂らす。そうしてその桜の木が、気味が悪い程枝を伸ばし湖に触れる位までになっているのは、湖が少しでも近くでその姿を見たいと、美しい桜の木を求め、手招いているからだと人の世には伝わっている。

 誰にも知られぬ真実の物語。今日も桜の木は湖面へと手を伸ばす。

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