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春風覚うる花心   (真田太平記より着想を得て。真田家のその昔)

作者: 西海道 真秀

忍如きが、と侮る者が多い屋敷で初めて初めて引き合わされたのは小さな、ひとりぼっちの少年であった。



















「弁丸、という。これ!」


父の背ではなく、柱の背に隠れた弁丸は信玄に連れられた痩せっぽちの顔色の悪い赤い髪の少年をじっと睨みつけるように見る。

これ!と父の再度怒る声に肩を震わせながら警戒心も顕わに弁丸はまるで毛を逆立てた猫の如く小さな息で威嚇すれば、

その細い体の少年は信玄の笑いながら制する声よりも早く、弁丸よりも五歩前の距離までにじり寄り、手を、そう、

美しく揃えて頭を下げた。それは美しい動作であった。



「弁丸様、本日付にて弁丸様付きとなりました、佐助と申します。

 未熟者では御座いますがどうぞよろしくお引き回しの程をお願い申し上げます。」


忍びは卑しく礼儀作法も知らぬ不調法者よ、という近習の者の話を嫌というほど聞いている弁丸は己が心に一滴の水が落ちる思いでそれを見る。



頭を下げたまま佐助と名乗った赤い髪は旋毛を弁丸見せたまま動かず、弁丸はじ、とその赤い髪を見つめていれば、

近くにいた父の家臣の小さき声が耳に漂ってくるのを捕らえた。


「なんと赤い髪とは不吉な。」


「そもそも忍び如きの謁見をこのような場で行わずとも。いやむしろ名を名乗らせるほどのものではない。」


「違腹の弁丸様だからこその忍び使いになられよという仰せなのやも知れぬな。」



弁丸は耳がいい。

大人たちは聞こえておらぬと思い話す言葉は全て弁丸の耳に届いている。き、とそちらを睨めばいいのか。

聞こえておるぞと怒鳴ればいいのか。だがそのような事に意味は無いと齢6つの弁丸は少しだけ奥歯をかみ締める。

父には決して聞こえぬ声に弁丸はいつだってどんな時だって黙っていた。時折気紛れに現れる父の何を信じよというか。


「全くかわゆうない。」


嘆く父にこそ怒鳴りたい気持ちを抑えて弁丸は己が意思を声に出す。



「何と。」


信玄の笑う声にこそ負けじと張り上げた声が広間へ響き渡る。



「忍びなぞ、側仕えなぞ某はいりませぬ!」


叫んで走り出した弁丸の背中を父の叱責が追い、信玄の大きな笑い声を聞きながら弁丸は自室へと走ってゆき、

そのまま置いてあった己の衣装を奪うように全て手に取ると中に潜りこんでそのまま声を押し殺した。




















シンシンシンシン、と虫の無く声で目が覚めて、弁丸は皺くちゃになった衣を見て侍女の眉を顰める顔を思い出すが、

己なぞ所詮は違腹、妾の子よと侮られておりどうでもよくなった。

側仕え。教育係ならばもういるがいつも溜息ばかりで出世街道から外れたこのような妾腹を押し付けられるなぞと愚痴をこっそりと聞いて以来、

弁丸はもう信じまいぞと強く誓ったものだ、だがこれはあんまりであろう。

側仕えが忍びとは軽んじるにも程がある。父上にも重くはみられなんだは知ってはおるがこうにも現実をつきつけられて笑っていられる程、

弁丸はまだ強くは無かった、だが、こうしていつまでも部屋に篭るは情けないとそっと室外を覗いてみれば、縁の下に赤い一瞬で目が行く、

赤い髪が弁丸の前であの美しい所作で頭を下げたままの姿で赤い夕日を受けてただ、そこにあった。


先刻の謁見からとうに三刻は経っており、思わず弁丸は目を見開くが、微動だにしないその姿に思わず言葉がこぼれ出た。



「何をしておる。」


返事は無い。


「何をしておると聞いておる!」


声を荒げれば頭を下げたままのせいか、佐助のくぐもった声に弁丸の心は冷やりとした。


「お許しを戴きたく候。」


何を。

物事を判断出来ぬ童と思われ何一つ思い通りに出来ぬこの某に許しとは。

某の許しなぞなくともそなたがここに居る事は決もうておるのであろう!怒鳴りつけたくなりそうな己を制したのは己が童ではないという

自尊心と、そして・・・・この忍びの髪が赤いと解していながらも風がふわりと吹いて揺れたその者の美しさに目が奪われたからだ。


紅葉が舞ったようだ。


邸内にある小さな紅葉がまるで花吹雪のようになるのを見るのが弁丸は大好きであった。

この邸内より出た事は数える程しかない、ましてや己が室から見る山の紅葉はそれはもう、弁丸の心を浮き立たせるには充分の美であって、

いつか紅葉を見に行きたいと強く願う心に適う髪である。


・・・・・この者がおれば毎日紅葉が見られるのではないか。


うっかりとそんな事を思ってしまうが、武士たる者美にうつつを抜かすものではないと己に叱咤し、懇親の力をこめて背を向け、



「知らぬわ!」


と叫び弁丸は室へと戻ってしまった。




























早朝、鳥の声で目が覚めて、弁丸は大好きな朝焼けを見ながら訓練をしようと、枕元に準備してある衣服を着て、布団をたたむ。

昨夜はお館様もおいでになったことゆえに宴会があったのであろう、侍女は忙しくて一人も弁丸の所には来てくれなかった。


だからなるだけ散らかした衣装を弁丸は一人で片付けて、そのうちのくしゃくしゃになった着物を己で着ると室を出た瞬間。



紅葉が散った色の髪が昨日のそのままそこにあった。



「なにゆえに・・・・」



乾いた喉から驚きの声が出て、弁丸は思わず鼻の奥がつん、としたが堪える。


「お許しを戴きたく候。」


昨日と同じ言葉を忍びが言ったので思わずカっとなりそうになった弁丸は昨日胸の内で溜めた言葉が、

普段から堪えている言葉が口から出て来るのを止められない。


「馬鹿にしておるのか!」


「いいえ。」


「お前も違腹よ、何の役にも立たぬ者よと某を馬鹿にするのか!忍びを側近じゃと!?某に都合の良い忍び使いになれと、

 そう仕込めという命令であろう!?某なぞ何時死んでも良いゆえにこのような、このような扱いなのであろう!!」


「いいえ。」


「いいえしか知らぬのか!ええい!いつまでも下を向くな顔を上げよ!」



甲高い声の弁丸の怒鳴り声に忍びが長時間土にこすりつけていた額を上げれば、額からぱらりと土が落ちた。

昨日は髪の色に目がいって顔をよくみなんだが、その忍びは実に思ったよりも、弁丸が思い込んでいたよりも若い。

そして侍女のように嫌そうな顔はせず、ただ、誰にも向けられた事のない視線を受けて、弁丸はたじろぐ。

静かな、そしてその瞳のまま側にいてくれたらどれだけ心が休まるか、と思う目であった。

口元にはいた落ち着いた笑みを浮かべて、忍びが弁丸の命のままにしていると風が吹いて、忍びは小さく身体を震わせる。


当然だ、秋も深まった中小袖一枚しか着ていない事にようやっと気付いた弁丸はそれまでの矜持もどこへやら、

裸足のまま忍びが座る土の上に走り行き、思わず忍びに触れればそれはぞっとするほど冷たかった。


弁丸でさえ、今は羽織を着ているというに。


「寒いか。」


己が。

己の言葉により忍びは昼過ぎからこの朝までここにいたのだ、己が愚かな為に。



「いいえ、大丈夫です。」


青ざめた顔のまま忍びがゆっくりと頭を振れば、弁丸はその髪が揺れるのが好きだと素直に思った。

そして父上が連れてきてお館様が認めた事なれば己に覆す術も無い事も知っているゆえの我儘であることも知っている。

だが、この忍びは。


「名を。」


「はい、佐助と申します。弁丸様、どうぞお許しを戴きたく候。」


再び額を土に擦り付けようとする佐助の腕を強く握ってそれと止めると、弁丸はそっと額の土を払う。

氷のように冷たい腕をそっと擦ればそこからあたたかくなってゆく気がした。

困ったように眉を小さく寄せても佐助の優しい目線は変わらず、弁丸は小さく呟いた。



「許す。」


「はい。この佐助身命賭して弁丸様にお仕えし、その御命をお守り致します。」




弁丸が腕を掴んだままだったので頭だけ下げた佐助に「うむ」と返事をすると、弁丸は己の心が何やら一つ甘い物で満たされた気分となった。




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