第6話
スイスター夫人危篤の知らせを受けたのは、その日の夜中だった。二人して急いで屋敷に駆けつけたが間に合わず、夫人は息を引き取ったばかりであった。その死に顔は穏やかで、彼女の人生そのものを表しているようだ。病気によって奪われた人生だったろうが、彼女なりに満足して逝ったのではないだろうか。
ユーリィは冷たくなっていく彼女の手を握り、しばらくその顔を眺めていた。その顔には何の感情も浮かんではいなかったが、逆にそれが彼の悲しみを表現している。
息子ルーカスは目を赤くして、繋がれた二人の手をじっと眺めていた。本当は自分が握りたいと思っているのかもしれない。もし自分が同じ立場だったら、母の手を握り締めたいと思った事だろう。ヴォルフは、だが何も言わずに黙っているルーカスの誠実さを感じずにはいられなかった。
だがその誠実さを少し疑い始めたのは、葬儀が終わった次の日である。
ヴォルフ達は別れの挨拶をしに、スイスター家を訪れた。二人を暖かく出迎えたルーカスだったが、やや探るような瞳でユーリィを見つめると、彼にこう尋ねた。
「君にちょっと尋ねたい事があるんだけど?」
「何?」
「実は母にはとても大切にしている指輪があってね」
「指輪?」
「ああ。僕とクルトは“精霊の指輪”と呼んでいたんだけど、琥珀の一種でね。中に精霊のような形をした物が入っているんだ。昔、父が母に贈った指輪で、かなり高価な物だと聞いた事がある」
「それが何だって言うの?」
ヴォルフはユーリィの顔が少し強ばるのを感じた。
「母がどこかにしまっていたんだが、どうしても見つからなくてね。もし君が知ってるなら教えて欲しいんだよ」
「まるで、僕のことを泥棒扱いだね」
「い、いや、そう言う事ではなく……。ただここ最近、母に会ったのは君と僕と召使いの女ぐらいだから」
「その召使いを調べたらどうですか?」
さすがにヴォルフもムッとして口を挟んだ。知らないとはいえ、ユーリィはそんな物を盗るほど困ってはいない。本人は嫌がっているようだが、父親に頼めば、そんな指輪など何十個も買えるような金を送ってくるだろう。それ以前にユーリィが泥棒を働くとは、およそ信じられない事ではないか。ルーカスも数日間彼と一緒にいたのだから、彼の本質は分かっていると思うのだが、疑るような目つきが何とも嫌らしい。
「むろん、彼女にも尋ねています」
「僕、知らないよ」
無表情にユーリィが答えた。
「そう、だったらいいんだ。疑うような事を言って悪かったね。それでお二人は、今日ソフィニアにお戻りで?」
「ええ、できれば……」
「しばらく帰らないよ」
ヴォルフを遮り、ユーリィはきっぱりと言い切ると、何故か挑戦的な表情でルーカスを睨んでいる。ルーカスもまたユーリィを凝視し、妙な沈黙がその場に流れた。
「そう。ではまた遊びにおいで。母はいないけど、僕で良かったら、また馬に乗ろう」
「うん」
何とも言えない雰囲気に、ヴォルフは居たたまれない気持ちになった。
その日の午後、ヴォルフはルーカスと何かあったのかとずっとユーリィに尋ねていた。だが言葉を濁して俯く姿に、ヴォルフは自分が情けなくなってきた。
彼にとって自分は、いったい何なのだろうか?
こうして真実を語られる事もなく、頼られる事もなく、抱き付けるわけでもなく ――それは当たり前か―― 一緒にいる意味を見失いかけている。
強引に再会を約束され、仕方がなく会ったのは分かっていたが、ヴォルフが考えていた再会とはまるでかけ離れていた。本当はもっと愉しく過ごすつもりだったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
ユーリィにとって自分は、まったく意味のない存在なのだろうか。半年前、別れ際に“嫌いではない”と言ってくれたが、それは好きではないという意味でもあったのか。結局は、一緒にいたくないという事なのだろうか。
「俺は明日、ソフィニアに帰るよ」
ヴォルフがそう切り出した時、少年は少し驚いたような顔をしてヴォルフを見上げた。
夕食が済み、ヴォルフの部屋でくつろいでいた時のことだ。
そういえば、今日はずっとユーリィは自分の部屋に帰らない。まるで当たり前のようにヴォルフの部屋にたむろしているが、別に何か話すわけでもなく、何とも不可解な行動だ。
「一人で?」
「君は残るんだろう?」
「あ……うん」
「ルーカスは君に良くしてくれているみたいだし、俺がいる意味もあまり無さそうだしな。それと、もし嫌ならもう連絡してくれなくてもいい。これで永遠の別れになるけど、お互いその方がいいような気がしてきた」
心と反した言葉を口にするのが、こんなに辛いものだとは思ってもみなかった。けれど、これ以上自分の醜態を曝し、ユーリィに悪印象ばかりを植え付けるのも我慢が出来ない。どうせ好かれていないのなら、せめて悪く思われないうちに、記憶に残して貰えるうちに別れた方がいい。
それしかないんだ。
「何だよ、それ?」
「何だよとは?」
「自分から勝手に約束して、その言いぐさはないだろ? 一緒にいる意味がないって言うけどな、だったら意味なんて最初からあったのか?」
「なに?」
「前だって今回だって、お前が勝手についてきて、約束だって勝手にしたんじゃないか。意味がないってお前が言うなら、最初から無かったのと一緒だろ、つまり?」
目の前が真っ白になった気がした。結局そう言う事だったのか。初めから分かっていたことなのだが、言葉にされるとやはり凹んでしまう。
つまりユーリィにとって自分は意味のない存在なのだ。
「そうだな……、意味がないな」
ヴォルフはやっとの思いでその言葉を吐き出した。するとユーリィの瞳が一瞬曇り、やがて戯けた調子で、
「なぁんだ、認めるのか?」
「ああ、認める。俺がここにいる意味など何もない」
「そう……」
その瞬間、ユーリィが哀しげな表情を浮かべたのは、気のせいだろうか。いや、多分気のせいだろう。それは錯覚と思えるほどの僅かな時間であり、既に彼は口元には冷笑があった。
「じゃあ、僕は自分の部屋に戻る」
ユーリィの出ていった扉を、ヴォルフは後悔とも諦めつかぬ気持ちでしばらく眺めていた。