第4話
ルーカスの母親は、柔らかな光が差し込む部屋にいた。ベッドの上で背筋を伸ばし座っている姿や、綺麗に結い上げられた金髪だけを見れば、およそ病人とは誰も思わないだろう。しかしその黄土色の肌、飛び出したような目、痩けた頬、色のない唇に、彼女の死期が近い事は医者ではないヴォルフですらすぐに分かった。
母親はユーリィの顔を見ると嬉しそうに微笑んで、両手を差し出してきた。
「あら、また来てくれたのね?」
力無い声だったが、意識がはっきりしていそうな様子に、ヴォルフは彼女が死んだ息子とユーリィを間違えているわけではないと知る。もし病人の妄想に付き合わされているのだとしたら、ユーリィも苦しいだろうなと思っていたので、少しだけ安心した。
「ええ……暇なので……」
両手を掴まれたユーリィは、恥ずかしげにそう返事をした。普段の辛辣な様子はどこかに隠し、そんな素直な態度がヴォルフには新鮮に映って、少年の新たな面を発見したような気がした。
「そちらの方は?」
母親は目を転じると、ルーカスとヴォルフを交互に見ながらそう尋ねた。
「こちらは彼のご友人の、グラハンスさんという方です」
「いらっしゃい。こんな所にわざわざおいで下さって、ありがとうございます」
「ご加減は如何ですか、奥様?」
「最近とても気分がいいの。毎日ユーリィが来てくれるお陰ね。病人の我が儘に付き合わして申し訳ないと思ったのですけど、死んだ息子が戻ってきたようで嬉しいわ」
そう言って母親は、眩しそうにユーリィを見た。
「また昨日の続き、読んで下さる?」
「うん」
「彼にね、本を読んでもらったの」
ヴォルフにそう説明をし、彼女はサイドテーブルにあった本を指差してみせる。早速それを手にしたユーリィは、近くにあった椅子を引き寄せた。
「クルトがいた頃は、あの子に良く本を読んでもらったのよ。親の私が言うのも何ですけど、クルトはとても優しい子で、何を頼んでも嫌な顔をした事がなかったわ」
「母さんはクルトが好きだったからなぁ」
「あら、貴方だって好きよ。それに昔よりずっと優しくなったもの。こう見えてもルーカスは昔、とてもヤンチャだったんですよ。私も主人も手を焼いて……」
ヴォルフ達にそう説明した夫人を軽く睨みながら、ルーカスが首を竦める。
「母さん、それを言わないで下さい」
クスクスと笑った彼女を見て、ヴォルフは穏やかな気持ちになっていた。
死期が近い人間とは、こんな凪いだ海のような雰囲気を作れるものなのだろうか。それとも彼女の心優しさがそうさせているのだろうか。
死んだ母親はどうだったろうとヴォルフは記憶を辿ってみたが、幼すぎたせいか、ヴォルフは何も思い出せなかった。ただ自分の母もスイスター夫人と同じように、穏やかな最期を向かえていたら願わずにはいられない。
「もうすぐクルトには会えるけど、まだ少し時間がありそうだから……」
「母さん、そんな事は言わないで」
「現実を受け入れるだけの強さはまだあるわよ、ルーカス。さあ、お二人とも出ていって下さるかしら? グラハンスさんにはお茶でも差し上げて……」
「ハイハイ、邪魔者は消えるとしましょう」
ヴォルフとルーカスは、夫人の言葉に素直に従い、部屋から退室した。
居間に案内され、そこでヴォルフには紅茶が振る舞われた。ルーカスは最初に思った印象の通り、ごく普通の、癖のない男である。浮かんだ笑みは如何にも善良そうな雰囲気を醸し出し、夫人が言った“ヤンチャ”だった時代など、およそ想像が出来ぬほどの穏やかさだ。
「母は昔から明るい人で、病気で倒れてからも僕が暗くならないようにと努めていたようです」
「素敵な女性ですね」
もし女に格を付ける事を許されるとしたら、間違いなくスイスター夫人は上位に位置するだろう。女性ならではの気遣いが出来る本当のレディだと、一目見ただけのヴォルフも分かっていた。
「ですが、クルトが死んだ時は、さすがの母もしばらく塞ぎ込んでいました」
「どうして亡くなられたんですか?」
「森の中で、魔物に襲われて」
「お気の毒に……」
たった十五年の人生を閉じてしまった少年を思うと、過去のユーリィを思い出し、ヴォルフはやりきれない気持ちになった。
「クルトは母に似て、とても明るい子でしたよ。僕なんか、どちらかというと塞ぎ込むタイプでしてね。“兄さん、考えすぎだよ”と良く笑われていたものです。あの頃、ちょうど父を亡くしたばかりで ――父は貿易商を営んでいましたが、流行り病で死んだんです―― どうしたらいいか悩んでいたので、クルトの笑顔には随分助けられました」
「お母上にもしものことがあったら、お一人になってしまうのですね?」
「そうですね。そう考えると少し寂しいです。十年前にはとても考えられない状況ですよ」
哀しげな様子で窓の外を見たルーカスに、ヴォルフは少しだけ同情した。自分のように自ら家を飛び出したのならともかく、家族が次々と死んでいくのを見送るのは、きっと寂しいことだろう。
「ユーリィ君のお陰で、母も穏やかな最後を迎えられそうです」
ポツリと呟いた言葉が、哀しく室内に反響した。
ルーカスとゆっくりと会話をしてみてヴォルフは少しだけ心の傷が癒えてきた。彼は確かに優しくていい奴であり、自分と違ってユーリィに邪な感情など抱いていないだろう。そんな相手に嫉妬心を抱くなど、馬鹿なことだ。昨日、ユーリィに対して醜態を晒さなくて良かったと、ヴォルフは改めて思った。
 




