第3話
ユーリィが滞在していたのは、ヴォルフが有り金を叩かなければならないほどの高級宿だった。相変わらず金に糸目は付けない生活らしい。
「おい、こんなところ……」
「僕の隣が空いてたと思うよ」
人の心配などよそに、ユーリィがフロントへと歩いて行く。
全財産を心で数えながら、ヴォルフは高い天井を見上げてみた。クリスタルの豪勢なシャンデリアの光が目と心に痛い。もしかしたらここで下働きかもしれないと思いつつ、美しい天井画をしばらく眺めていた。
やがてヴォルフの元へ戻ってきたユーリィが、鍵を投げてよこした。
「やっぱり空いてた」
エントランスには両脇に階段があり、その二つが中央で交わり、再び別れて上階へと伸びていく。
(無駄に階段を造りやがって)
この一段一段に俺は金を払うのかと空しい気分になって、ヴォルフは少年の後に続いた。
部屋もまた無駄に広かった。貧乏育ちで、宿は寝るだけの場所だと思っていたヴォルフにとって、高級な家具類に居心地の悪さを感じずにはいられない。
後から入ってきたユーリィは、部屋の中央にある丸テーブルに持っていたバスケットを置いた。
「まぁまぁ、良い部屋だね」
「あのな、俺は……」
「お金の心配ならいらないよ。僕もここでは払ってないから」
そう言いながら、ユーリィはポケットから白い封筒を出して、見せつけるように掲げてみせた。
「それは?」
「親父から送られてくる金の入った封筒。前は破り棄ててたんだけどさ、ここに封蝋印があるだろ?」
指さされた先には、確かに赤い封蝋が付いていた。
「これが結構使えるんだよね」
「もしかして、イワノフ家の紋章か?」
「自分の名前を言ってこれを見せると、待遇が違うんだ。特にここは親父がよく利用するみたいで、親父のツケで泊まらせてくれた」
「ずいぶんと開き直ったな」
「宿命を利用するって言っただろ?」
思った以上に強くなった彼と、減らない有り金に安心したヴォルフだったが、そうなると先ほど傷ついた心が再びズキズキと痛み出す。
「そういえば、さっきの……」
醜態を見せないと誓ったからには、平静さは崩さないでそう尋ねる。
すると少し恥ずかしげな様子で、ユーリィが視線を逸らした。
「ああ、ルーカスはこの町で知り合った人だよ」
どんなふうに?
どういう関係だ?
何かされたのか?
矢継ぎ早に聞きたくなるのを耐えながら、努めて自然に追求しなければならない。
「知り合ったって?」
「道を歩いていたら、突然声をかけられたんだ」
「君はそんな状況で、誰とでも話をするのか?」
「声をかけられれば返事ぐらいするだろ? ヴォルフの時だってそうだったじゃないか」
「まあ、そうだけど……」
確かにそうかもしれないが、あの時は返事と言うよりも喧嘩腰な言葉を投げつけられたと言った方が早い。何しろ魔物がいると注意した相手に、“大丈夫、発音は正しいから。訛りもないから安心して良いよ”なんて迷ゼリフは、ユーリィでなければ吐けないだろう。
「頼みがあるからって言われてさ。もちろん最初はかなり警戒したけどね」
「頼みって?」
「ルーカスの母親が病気なんで、ぜひ会って欲しいって」
「なぜ君に?」
「僕が死んだ弟に似てるから、元気付けるために会わせたいって言われた」
胡散臭いそんな誘い文句に彼が乗ったのかと思うと目眩がする。
「君はそれを信じたのか?」
「はじめは疑ったよ。でもお金を払うって言われてちょっと考えたんだ。もしかしたら親父の金以外が手に入るかもって思って……」
そういえばユーリィは、いずれ父親の臑をかじらないで生きていきたいと言っていたことを思い出す。
「で、どうしたんだ?」
「ポケットに攻撃できる物が色々入ってるし、まあいいかって思って付いていったよ」
「マジか……」
「でもルーカスの話はホントだった。彼の母親はホントに病気で、それに弟のクルトは少しだけ僕に似てたかもしれない」
「似てたってどうして分かる?」
「家に肖像画があったから」
「なるほど」
スイスター夫人はもう余命が残り少ないのだという。ベッドから殆ど出られない彼女に、ユーリィはここ数日、本などを読んで聞かせているそうだ。
「で、今日が誕生日だってスイスター夫人に言ったら、具合が良いからってこれを作ってくれた」
少年はバスケットを開き、中からクッキーを一枚取りだした。
「あんなふうに作るなんて知らなかったよ。城では厨房がどこにあるのかもよく分からなかったし。あ、結構ウマい」
一口食べたクッキーを全て口に放り込み、ユーリィは再びバスケットの中に手を入れる。二、三枚取り出すと、飢えた子供のように貪り食べた。
「いっぱいあるからヴォルフに分けようかと思ったけど、やっぱり止めた。僕の誕生日プレゼントだしね」
「そうだ、誕生日だ」
「ん?」
ユーリィの方へと近づいていったヴォルフは、数歩手前で立ち止まる。本当は抱き締めたいのだが、爽やかな好青年らしいルーカスを思い出して、そこで踏みとどまった。これ以上、差を付けたくないという対抗心が芽生えていた。
「言うの忘れてたよ。誕生日おめでとう」
「何だよ、マジな顔して」
顔を少し上気させ、ユーリィが視線を泳がせる。普段は強気で辛辣なくせに、こういう時の表情はとても可愛らしい。引き寄せて、その唇にむしゃぶりつきたい下劣な気持ちをひた隠し、ヴォルフは明るく笑って見せた。
「俺も何かプレゼントでも用意しておけば良かったな」
「いらないよ、そんなもの」
欲しい物は大抵買えるほどの大金を持ち歩いているユーリィだから、俺が買う物なんて確かにいらないだろうとヴォルフは納得した。
「それよりヴォルフ、お前これからどうするんだよ?」
「相変わらず、年上に対して“お前”か」
「そんなことどうでもいいじゃないか」
「あのルーカスにも“お前”って言うのか?」
関係が知りたくて、少し探りを入れてみる。
するとユーリィは少し怒った顔で、「ルーカスにそんなこと言うわけがない」と呟いた。
それってどういう意味だ?
息を詰まらせ、ズキズキする心で考える。
それほどまでにあの男にご執心なのか?!
と思ったら、「だってお金を払ってくれる相手だろ?」と説明されて、ようやく息ができるほどに回復した。
「それはそうだな」
「それにルーカスはいい人だから、そんな乱暴な言葉は使わないよ」
回復したと思った心に再びダメージ。見つめる青い瞳は、喧嘩を売ろうとしているとしか思えないほど挑発的だった。
「初仕事の依頼人が、いい人だったのは運が良かったな」
醜態を晒さないと決めたのだから、心のダメージなど見せてなるものか。
“いい人”らしいルーカスと比べられてなるものか。
そう思いながら明るくそう切り返すと、ユーリィはやや目を細めながら「ふぅん」と答えた。
「で、どんなふうにいい人なんだ?」
「昨日は馬に乗せてくれた」
「馬?」
「うん。昔、僕も馬を持ってて、それを言ったら貸してくれたんだ」
「ルーカスは馬が持てるほど金持ちなのか?」
「昔はいっぱい飼ってたらしいけど、今は二頭しかいない。昨日は二人で海岸まで行ったよ」
ユーリィは探るような表情でそう説明した。
ここで取り乱したらきっと、ルーカスと比べて俺をバカにするに違いない。ならば絶対に平静さは崩さないぞと、ヴォルフは悄然となる気持ちを奮い立たせて、優しく微笑みかけた。
「それは楽しかっただろうな」
「まぁね」
もうこんな会話は打ち切りたい。早く独りになって、これからのことを考えたかった。
「じゃあ、俺は明日……」
「そうだ、明日はヴォルフも一緒に来れば?」
「俺も?!」
「ルーカスは僕よりヴォルフと歳が近いから、話が合うかもしれないぜ」
「それはどうかな……」
これ以上、俺に苦痛を味わえと言うのか、このガキは。
「それにスイスター夫人にも会わせたいんだ、すごく優しい人だから」
期待に満ちた瞳で見つめられ、断る理由を考えるのも辛くなり、ヴォルフは渋々承諾した。