蕎麦屋にて 3
主人公は、「橙」。
彼の行方は、今何処?
そんな他愛も無い話をしていて、零仁がふと思い出したように呟いた。
『そう言えば、橙さんはいらっしゃらないのです?』
『あーどうなんだろう?会議とか言ってたから…その内来るんじゃね?』
何故、と修哉が問う。零仁が、「お姉ちゃんが、最近話題に出て来なくてつまらない、と仰っていました」と言う。彼が苦笑いを浮かべる。
橙、とは、物語の主人公である。
華倉 一臣と言う。
最初、零仁と日陽が修哉に紹介していると、零仁が一臣を見て一言、こういった。「その髪は橙色ですか?」と。相手は、諦めたような笑みを浮かべて頷いた。そして名前を覚えたものの、橙、と呼ぶ事が気に入ったらしく、以来ずっとその名で呼んでいる。
先に断っておくが、零仁は何の悪気も無く呼んでいるのであって、何か裏があるとか、そういう事は言ったらいけない。禁句である。
『御馳走様ー!』
『おかわり入りますー!』
妹ェ、と。修哉が絶望のあまり顔を覆ったのは言うまでも無かった。
そしてそれを瞬く間に平らげた修哉も、日陽曰く「お兄ちゃんェ…」だったらしい。
その頃、華倉は。士官学生時代の恩師と再会していた。
彼は学校内では有名人物で、「あんぱん」と言うふわふわ生地の中に餡子が入った甘いパンを好んで食べていた。そして服は迷彩柄だったりシャツだったり。笠を身に付けているので、遠目からでも一発で分かる。
しかし、会ったは良いものの。…華倉は、空腹がそろそろ限界を迎えようとしていた。
そして相手はそんな事もつゆ知らず、現代風に言うと「ドヤ顔」で挨拶してきた。
『俺だ』
『キャーセンセイヨー』
最早挨拶が棒読みである。
背後から急襲された訳では無い。先程も記したとおり、彼は空腹が限界だった。そしてこの恩師、生徒に対して何をしでかすか、全く読めないのだ。だからこその、最善の対応であった。
だが教師は、華倉の肩に寄り掛かる。それも、至極楽しそうに。純粋に楽しさを望む彼の笑顔が、恨めしい悪戯っ子の笑顔に見えた。あれ可笑しいな。
『オミー、もう仕事終わったのか?ちょっと俺に飯奢れよ!』
『な、え』
『ほら行くぞ』
『ちょ、センセイ…俺、同意してないんだけど』
そして、恩師止めの一発。
『オミーハインラン』
『何処でそんな言葉憶えて来たの!!?忘れて、今すぐ忘れて!!?俺は違う、絶対違う!!』
絶望のあまり、華倉が顔を覆った。
あれ、既視感が…。
絶望している華倉なんて関係無い!とでも言わんばかりに、恩師は笑顔で教え子を引き摺る。その光景が、街道でどれだけ目立ったことか。そして恩師は、ゆるい坂の傍にある食事処の暖簾をくぐった。そこに居たのは、大盛りのざるそばを瞬く間に平らげた修哉と、その光景に思わず顔を覆っている日陽、そして苦笑いを浮かべる零仁の姿。
『あ、いらっしゃいませ。センセイ、と。橙さん』
零仁が微笑む。
顔を覆っていた日陽も、ぱ、と顔を上げる。笑顔で手を振るその人物の姿に、慌ててお茶を汲みに行った。そこへ、また来客がやってくる。
『あ、松元さん。いらっしゃいませ』
『雨が降って来たなぁ…。まぁ雨もオツで良いよな、カカッ』
近くでよく食べにくる、松元、と呼ばれた美女。その手には、煙管。二度目に言っておく、女性である。
『おーしっ、全部オミーの奢りだー!』
『センセイ止めて!!俺を破産させる気!?ただでさえ小遣いないのに!!』
『日陽、お茶ー』
『もうっ、お兄ちゃん自分で汲んでよ!』
『今日も仲良しなのですー』
今日も、賑やかな時間がそっと過ぎてゆく。
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店の前を通り過ぎた、影。
群青の唐傘が、くるり。弧を描く。
肩にかかる黒髪はしっとり濡れているが、当の本人は気にしていないらしい。
そして影は、激しくなる雨足と共に消えた。
お蕎麦屋さん 終わりです。
取り敢えず、わちゃわちゃさせたかったのです。
この話だけ「蕎麦屋にて 3・~ターン・イン・ザ・絶望~」ってつけたかったです。付けたら何か、…負けな気がしました。